それでも世界は輝いている・ネアンデルタール人論・249

誰だって、この世界には「魅力的な人」が存在する、ということに対する「負い目」や「遠い憧れ」を抱いている。
金を稼いで欲しいものを手に入れる能力を持つことだろうと、幸せな恋愛や結婚に満足することだろうと、知的であるために頑張って勉強するとか、強くたくましくあろうとするとか、美しくあるために努力するとか、あるいはすでにそうであると思い込むとか、それらの努力や思い込みはすべて、この世界には「魅力的な人」が存在する、ということに対する無意識の「負い目」からきているのではないだろうか。
人にちやほやされたいとかうらやましがられたいとか尊敬されたいとか、そんな欲望を抱くということは、ようするに「魅力的な存在でありたい」ということだろう。「魅力的」すなわち「セックスアピール」、彼らは、人間の値打ちは人にときめかれてナンボのものだという思いがある。
まあ、人間性の基礎は、「ときめき」にある。人間社会は、人と人がときめき合う関係になることのダイナミズムとともに進化発展してきた。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、「生きられなさを生きる」困難と引き換えに、個体どうしが豊かにときめき合う社会性を得た。
金が欲しいのも幸せになりたいのも強くなりたいのも美しくなりたいのも、つまるところ「人にときめかれる存在になりたい」のだろう。ときめかれれることによって、自意識の満足が得られる。自分が存在することの正当性が確認できる。
そのようにして人は、「この世に魅力的な人が存在する」ということに対する「負い目」や「遠い憧れ」を抱いている。自意識に執着するものは「負い目」を抱くし、自意識を忘れて「遠い憧れ」を抱く。いずれにせよ、人類の歴史は「この世に魅力的な人が存在する」という事実に照射されながら動いてきたわけで、自分が魅力的な存在であろうとしても、「この世に魅力的な人が存在する」という事実によって必ず挫折させられる。

最近は高度資本主義のグローバリゼイションがどんどん進んでいる世の中だといっても、永遠にその運動が続くわけでもなく、やがて挫折しそうな兆候はすでにあらわれてきている。「グローバリゼイションは国家を解体する」などというが、そんな世の中で、どんどん国家主義民族主義がふくらんできている。現在のグローバリゼーションが現在の国家主義民族主義を生み出しているともいえる。グローバリゼーションによって金の世の中にされて、「移民」や「他民族」が自分たちと同じかそれ以上の暮らしをしていることが許せなくなってきたらしい。お金が「価値」の基準になっているからそういう気持ちになるし、「価値」がこの生の物差しになっているから許せない。彼らは自分の生の「価値=優越感」が欲しいわけで、「価値」にとらわれているということは、お金にとらわれているということでもある。その、「価値意識」そのものが卑しい。その「魅力的な人」になろうとする欲望そのものが卑しい。
彼らが、どんなに頑張って「魅力的な人」になろうとしても、この世の中にほもっと「魅力的な人」がいるという事実によって、必ず挫折させられてしまう。なぜならほんとうに「魅力的な人」は、「すでに魅力的」だからそんな努力はしない。「魅力的な人」になろうとすること自体が、「魅力的ではない」ことの証しなのだ。そうやって歴史は、人間の欲望の通りにはけっしてならない。どんなに欲望を追求しても、必ず挫折させられてしまう。つまり、魅力的な人になろうとしないことによってしか、魅力的であることの証明は得られない。そうやってその欲望は、どんどん行き場を失ってゆく。
人という概念は、「人と人の関係」すなわち「人と人がときめき合う関係」の上に成り立っており、欲望とはつまるところ魅力的な人になろうとする欲望のことで、その欲望は必ず減衰してゆく。金が欲しいのも賢くなりたいのも強くなりたいのも美しくなりたいのも、つまるところ「魅力的な人」になりたいのであり、おそらくそれが、人の「欲望」というものの原点なのだ。人の、というか文明社会の、というか。
よい国をつくろうとしても、その欲望は必ず減衰してゆく。よい国をつくろうとしないことが、よい国であることの証しなのだもの。どんなに正義を叫んでも、その欲望は、よい国をつくろうとしないことすなわち欲望を持たないことに対する「負い目」を負っている。
お金を欲しがることは、お金を欲しがらないことに対する「負い目」を負っている。その「負い目」の対象が大富豪であれ清貧の人であれ、「お金を欲しがることは卑しいことだ」という意識が、誰の中にもどこかしらに疼いている。どんなにお金が大事だという世の中になっても、それでも「この世の中にはお金では買えないものがある」という思いが人の心から消えることはない。
人の心はつねに、「この世には魅力的な人が存在するという事実」から照射されている。すでに魅力的な人は、魅力的になろうとする欲望を持っていない。
「夢を持ちなさい」とか「目標に向かって努力しなさい」とか、ようするに彼らは、「欲望」を持つことが人間性の自然=本質だと思っており、人類の歴史は「欲望」によって動いてきたと思っている。しかしじっさいの歴史は、人間の欲望や計画の通りに動いてきたわけではない。つまり、その欲望や計画はつねに挫折してきたということで、それはもう、歴史の法則なのだ。
魅力的な人になろうとする欲望は、けっして成就しない。同様に、お金を欲しがることはつねにお金を欲しがらないことに対する「負い目」を負っているのであり、お金を欲しがることの上に成り立ったグローバル資本主義はいつか必ず挫折する。
お金を使う(=消費する)ことは、お金を欲しがることの卑しさの意識の上に成り立っており、そうやってお金が社会に流通してゆく。人々の消費意欲をあおることは、お金の卑しさをあおることでもある。そうやって国家主義民族主義が台頭してくる。お金を欲しがるグローバル資本主義は、すでに解体過程に入っているのかもしれない。お金を欲しがることにだんだん疲れて、「もうどうでもいいや」ということになってゆく。人類全体の気分として、そうなってゆくのかもしれない。

どんなに努力したって、努力しないでただ熱中しているだけのことにはかなわない。大事なのは努力することではなく、熱中できることにある。どんなに「……しなければならない」と努力しても、「……せずにいられない」というかたちでのめり込んでゆくことにはかなわない。そのダイナミズムが、人類史の進化発展というイノベーションをもたらしたのだ。
人間性の自然は、「今ここ」に熱中してゆくことにあるのであって、「未来」に向かって努力してゆくことにあるのではない。そんな「スケベ根性」の別名である、いじましいというか意地汚い「努力」や「欲望」や「目的」によって人類の歴史が進化発展してきたのではない。その進化発展というイノベーションは、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」に熱中してゆくところから生まれてきたのであって、生き延びようとする「努力=欲望=計画」によるのではない。歴史は、人の「努力=欲望=計画」によってつくられてきたのではない。社会の歴史であれ個人の人生であれ、そんなふうに頑張っても、その通りにならないのが人の歴史なのだ。
どんなに魅力的な人になろうと頑張っても、自分は魅力的であると思い込んでいても、あなたが思うほどあなたは魅力ではないのであり、「魅力的な人」は、つねに「自分の外」にいるのだ。つまり人間性の自然・本質は、「魅力的な人になろうとする」ことにあるのではなく、「魅力的な人にときめいてゆく」ことにあるのであり、そのダイナミズムによって人類の歴史は進化発展してきた。
世の通俗的な進化論においては、「優秀で魅力的な存在」がより多くの繁殖の機会を得ることによって進化が起き「魅力的なではない存在」は淘汰されてきた、ということになっているのだが、じっさいはそうではない、「魅力的な存在にときめく魅力的ではない存在」こそがより多くの繁殖機会を持ってきたのであり、キリンの首が長くなってゆく進化の歴史の最初の段階においては、首が短い個体のほうが多くの繁殖の機会を持っていた。科学的数学的にシュミレーションすれば、どうしてもそういう答えにしかならないそうで、まあそれはきっとそうだろう。なぜならそうやって四苦八苦して生きている個体のほうが、より豊かに他者にときめいているからだ。その「四苦八苦」の「嘆き」が進化をもたらしたのであって、「優秀で魅力的」であることの「優越性」によってではない。そこに俗流進化論が陥る罠がある。キリンの首は「四苦八苦」の「嘆き」が止むところまで長くなってゆく。それはつまり、永遠に長くなり続けるわけではないということだ。そうして「四苦八苦」の「嘆き」が止むことによって繁殖力が減衰し、やがて滅んでゆく。

グローバル資本主義が永遠に続くわけではないし、その「達成」を果たしたものから順番に繁殖力を失ってゆく。「淘汰」されてゆく。キリンの首は、長くなったものから順番に淘汰されてきた。人類の進化であれ他の生きものの進化であれ、「劣った存在」が淘汰されてゆくわけではないのだ。
人は、「自分は魅力的な存在ではない」「何もわからない」という「嘆き」とともに知性や感性を育てゆくのであって、自分が魅力的な存在になりたがったりなっているつもりになったり何もかもわかっているつもりになったりしたらおしまいなのだ。そうやって心を病んでゆき、インポテンツになってゆく。
ホリエモンをはじめとするグローバル資本主義の達成者たちの多くはきっと、若いうちからすでにそろそろインポテンツの兆候が忍び寄ってきていることの不安を抱えているに違いない。彼らのちんちんは、たとえ勃起しても、たいして硬くない。まあ、ひとより早く勃起しなくなってゆくことを覚悟しておいた方がよい。彼らは、この生やこの世界の「意味」や「価値」をむやみにまさぐりながら、他愛なく「ときめく」という心の動きがどんどん希薄になっていっている。そうやって人は、心を病み、インポテンツになってゆく。この国の高度経済成長だって、そのような問題を抱えながら達成されてきたのだ。
ホリエモンなどのマネーゲームの成功者たちとか、「ワタミ」や「ユニクロ」や「電通」などのいわゆる「ブラック企業」の繁栄に邁進しているものたちとか、彼らはこの国の高度経済成長とともに称揚されてきた「努力=欲望=計画・目的」といった思考や生き方が骨の髄までしみ込んでおり、それが人間性および進化の自然・本質だと思い込んでいるわけだが、そうやってむやみに「思い込む=信じ込む」ことができるということ自体、何かしらの「負い目=ルサンチマン」を負っていることの証しであり、そうやって心が病んでゆきインポテンツになってゆく。彼らは、この世界や他者に対して警戒し緊張しまくっている。そうやってこの生やこの世界の「意味」や「価値」をむやみにまさぐりながら、無防備で他愛ない「ときめき」を失い、心を病んだりインポテンツになったりしてゆく。
この世界やこの生の「意味」や「価値」をまさぐるなんて、ただの思考停止なのだ。そうやって心が停止し、ちんちんの勃起が停止してゆく。
この世界が存在することに「意味」も「価値」もない。この世界は、存在するということそれ自体において輝いている。生きものの繁殖力も文化のイノベーションを起こすダイナミズムも、そういう無防備で他愛ない「ときめき」を持ったものたちのもとに宿っているのであって、世界や他者に対して警戒し緊張しながらあれこれ計画や目的を練って生きているもののもとにあるのではない。人類の歴史は、そんなふうにして進化発展してきたのではない。

「努力」も「欲望」も「計画・目的」もどうでもいい。ひといちばい知的に生まれついた人は学者になればいいし、ひといちばい感性が豊かであれば芸術家になればいいし、なれなくても、人と人が他愛なくときめき合う関係があれば人は生きられる。人間なら誰だって、「自分は魅力的な存在ではない」「この生は素晴らしいものでもなんでもない」という「嘆き」を抱えて生きている。人は、その事実を受け入れるところでこそ「世界の輝き」にときめいてゆく。「魅力的な人」は、「自分の外」に存在する。「自分の外」の「世界の輝き」に他愛なくときめいてゆけるのなら、人は生きられる。その「輝き」は、「自分」のもとにあるのではない。誰にとってもそれは「自分の外」にある。一流の学者や芸術家だって、その「輝き」が「自分」のもとにあるなどとは思っていない。この世界の「輝き」はあくまで「他者」のもとにあり、「自分の外」にある。
「自分の輝き」を欲しがるものほど、他者を安く見積もりたがる。「自分の輝き」は、他者を安く見積もることによって確認される。しかし、彼らのその安っぽい脳みそで、他人の何がわかるというのか。人は、そうやって他人を安く見積もりながら他人を支配しようとしてゆく。まあそれが社会的に成功したり生き延びたりするためのもっとも有効な方法かもしれないが、そんなことばかりしているあなたはあなたがうぬぼれるほど魅力的ではないし、それによって心を病んだりインポテンツになったりしてゆく。
「意識」とは根源においてこの世界の輝きに驚きときめくはたらきであって、生き延びるためにあれこれの「目的」や「計画」を画策するはたらきではない。そんな目的意識や計画性が人類の歴史に進化発展をもたらしてきたのではない。そんな問題設定で人類史の「起源論」や「進化論」を考えると間違う。
人類は、生き延びるために有効な方法として言葉を生み出したのではない。ただもう「世界の輝き」に驚きときめいていったからであり、それによって人間的なさまざまなニュアンスの音声を発するようになっていったからだ。喉の構造がさまざまな音声を発するのに都合がよくなったのは、言葉を生み出したことの「結果」であって「原因」ではない。ネアンデルタール人がそういう喉の構造を持っていたことはすでに現在の考古学の定説になっているわけだが、それでも「集団的置換説」の提唱者たちは、ネアンデルタール人の言葉はアフリカのホモ・サピエンスに比べて未発達だったと信じて疑わない。ほんとにどうしようもなくアホな人たちだと思う。それは、ネアンデルタール人が言葉を持っていたことの証拠なのだ。ネアンデルタール人の言葉がアフリカのホモ・サピエンスのそれより発達していたのは、それだけ「いきられない生」を四苦八苦して生きていたからであり、それだけ世界や他者に他愛なく豊かにときめいていたからだ。人類の言葉は、その「今ここ」に対する豊かな「驚き」や「ときめき」から生まれてきたのであって、生き延びるため「目的」や「計画」によってではない。
「目的」や「計画」は、イノベーションを起こす契機になりえない。なぜならそれは、あらかじめ決定された未来であって、予期せぬ出来事としてのイノベーションなどはじめから除外されている。
「予期せぬ出来事」と出会って(発見して)驚きときめくという体験が、人類史にイノベーションをもたらし進化発展してきたのであり、そういう体験とともに言葉が生まれてきたのだ。
生きてあることは「予期せぬ出来事」の連続であり、この世界や他者に対して豊かにときめいている人は、未来に対する「夢」も「目的」も「計画」も持っていない。そしてほんとに「魅力的な人」もまた、「魅力的なりたい」という「欲望」や「目的」や「計画」など持たないし、「自分は魅力的な存在である」とも思っていない。

「魅力的な人」は、誰にとってもつねに「他者」として存在している。ネアンデルタール人のような人と人が他愛なくときめき合っている社会はそういう前提のもとに存在しているのであって、現在のような、誰もが魅力的な人になろうとしたり自分は魅力的な存在であると思い込んだりする社会では、他者を安く見積もって裁いたり支配したりする傾向ばかりがふくらんで、そうした他愛ないときめきはどんどん痩せ細ってゆく。
自意識過剰の世の中だ。そうやって「結婚しない世代」とか「セックスレス」というような社会現象が生まれてきているのだろうし、男と女の関係だけでなく、人と人の関係そのものが「クレーマー」とか「セクハラ」とか「いじめ」とか「ブラック企業」とか、もうそんなことばかりではないか。
人と人の関係が、どんどん痩せ細ってきている。「未来のよい社会をつくろう」というスローガンのもとの政治や経済によってすべての問題が解決されるような幻想を抱くことだって、その「欲望」や「目的」や「計画」とともに他人を裁いたり支配したりしようとする衝動がどこかしらに疼いているからだろう。
わかったようなことをいって自分の「価値」や「意味」の物差しで他人を吟味したり裁いたりする人間があふれている世の中だが、そんな自意識過剰で中途半端な「さかしらごと」よりももっと本格的な知性や感性は、人間性の自然としての、この世界の輝きに他愛なく驚きときめいてゆく心の動きを持っている。
「人としての魅力」も「この生の尊厳」も、「自分」の中にはない。それはつねに「他者」のもとにある。
日本は美しい国であると自画自賛してもせんないことだし、どんなに自分をひけらかしても自分が望むほど他人がときめいてくれるとはかぎらない。自分なんか忘れて他愛なくときめいてゆくところにこそ人間性の自然があり、そこにこそもっとも高度な知性や感性が宿っている。
人にときめかれたいなんて人間としてとても不自然なことであり、ただもう一方的にときめいてゆくところにこそ人間性の自然がある。ネアンデルタール人の社会は、誰もが一方的にときめき合っている社会だった。彼らは、「自分=この生」なんか忘れてしまわないと生きられない環境を生きていた。
で、ここでいいたいのは、ネアンデルタール人だからというのではなく、人はそういう状況に置かれたらそうなってゆくということで、人と人の関係の本質・自然はあくまで「一方的」なときめきにあるのであって、ときめかれたいとかときめかれている自分に満足するとか、そういうことではない。「自分」なんかどうでもいいのだ。ときめくことは「自分を忘れる」ことなのだから「一方的」になるほかないのであり、相手に何も要求しないし、けっして裁かないし支配しようともしない。人と人の関係の底にはそういうぎりぎりのせっぱつまった想いが息づいているにちがいなく、ネアンデルタール人はまさしくそういう関係を「避けがたい必然」として生きた人々だったということだが、それはべつにネアンデルタール人の時代に戻れということではなく、現代社会を生きるわれわれにだって誰の中にもそういう関係意識は息づいているではないか、といいたいのだ。
まあ平和で豊かなこの社会は、そういう関係意識を封じ込めてしまう構造になっているのだが、それでも誰もが人間として生きているかぎり、むやみにときめかれたがることのブサイクはどうしても感じてしまう。賢くなりたいとか強くなりたいとか美しくなりたいとか正しくありたいとか幸せになりたいとかお金が欲しいとか、そうした社会的欲望とはつまるところ「ときめかれたい」という欲望かもしれない。そんな「価値」に向かっていじましく努力するなんて貧乏ったらしいことだといわれて、あなたは何と答える?
この生には「意味」も「価値」もない。この生は愚劣だし、国家とはわれわれをこの生に閉じ込める暴力装置であり、理想の国家などというものはない。理想の社会もない。社会は「憂き世」だ。
それでも、この世界や他者は輝いている。その輝きにときめきながらわれわれは生きている。いつ死んでもかまないくらいこの生は愚劣なのだけれど、それでもわれわれは生きている。おそらくそれが、人として生きてあることの基礎的なかたちなのだと思う。
ネアンデルタール人について考えることは、生きてあることの基礎的なかたちについて考えることだ。彼らはそれくらいぎりぎりのせっぱつまった状況を生きていたわけで、もしも同時代のアフリカ人が彼らよりも安楽な暮らしをしていたとすれば、それだけ彼らよりも文化的に未発達だったことを意味する。
人類の文化は、この愚劣な生を「それでも生きる」というかたちで進化発展してきた。