悩むことと嘆くこと・ネアンデルタール人論91

 ネアンデルタール人が氷河期の極北の地に住み着いていたということは、人類はなぜ地球の隅々まで拡散していったかという問題でもある。彼らは、そのころの人類で、もっとも住みにくい土地に住み着いている人々だった。そこは、原始人が生きられるはずがないくらい過酷な環境だった。それでも彼らは、その「住みにくさ=生きられなさ」をいとわず住み着いていった。
 人類は、より住みにくい土地に向かって拡散していった。彼らが拡散していった先は、例外なくすべてより住みにくい土地だった。なぜなら、住み慣れた土地以上に住みよい土地なんかないのだ。そこに住み着いて、より安定して衣食住が得られる文化を育ててゆく……そうやって住み着いてきたのだから、住み慣れた土地以上に住みよい土地なんかあるはずがない。しかし、その「住みにくさ=生きられなさ」こそが、そこに住み着いてゆく契機になった。これはもう人類史の普遍的な法則のようなもので、近代のヨーロッパ人による北米大陸移住だって、まさにそのようにしてはじまっている。最初は、衣食住の不如意にさんざん四苦八苦しながら住み着いていった。まあ、だから彼らは、衣食住の安定こそが最高の価値のような文化をつくっているが、それでもその一方で、「もう死んでいい」という勢いで突き進んでゆくダイナミズムも過剰なほどに持っている。
そういう勢いがなければ、原始時代の人類拡散も起きなかった。
 人類は、生きられなさを生きようとする生態を持っている。それが、地球の隅々まで拡散してゆくという歴史現象をもたらした。
 まあ旅の本質は、より住みにくいところに向かって移動してゆくことにある。まず先住民に一夜の宿を乞うことからはじまり、先住民に教えられながらそこに住み着く能力を身につけてゆく。もしも4〜3万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住してきたのなら、先住民であるネアンデルタール人とのそういう関係からはじまっているはずで、集団的置換説の研究者がいうような「最初からそこに住み着く能力において圧倒していた」ということなどあるはずがない。そして何よりそこは、氷河期のアフリカよりもはるかに生きられない苛酷な環境の土地だったのであり、そのころの地球上でもっとも住みにくい土地だったのだ。
 そのころのヨーロッパでは、まず北の中央部からクロマニヨン人の身体形質になってゆき、南のイベリア半島やバルカン地方などの両端はわりと遅くまでネアンデルタール人的な身体形質を残していた。ストリンガーをはじめとする集団的置換説の研究者たちはそれを、「ネアンデルタール人が両端の地域に追いやられていった」といっているのだが、まったくいいかげんな屁理屈だ。追いやられていったのなら、ヨーロッパの入り口である両端の地域から先にクロマニヨン人的なってゆき、北の中央部(ドイツ)あたりが最後の逃げ場所だったはずである。しかも南の両端の地域がそのころのヨーロッパではもっとも住みやすいところだったのだろうから、もしもクロマニヨン人がアフリカからやってきたものたちだったのなら、そこからまずクロマニヨン人的になってゆかないと話のつじつまが合わない。
 ヨーロッパの南の両端どころか、アフリカからの通り道である中近東地方ですら、北ヨーロッパの中央部よりもクロマニヨン化が遅かったのだ。このことを彼らの誰もきちんと説明できず、良心的な研究者ほど「謎は深まるばかりだ」と頭をかしげている。


 ストリンガーは、『ネアンデルタール人とは誰か』という著書の中で、中近東は10万年前からすでにアフリカから移住してきたものたちばかりだった」といっているのだが、中近東で発掘される4〜5万年前の人骨はネアンデルタール人的な形質のものばかりであり、つまり彼の理論では、そこは北ヨーロッパよりも住みにくくていったんそこに住み着いたアフリカ人は全員そこを捨てて北ヨーロッパに移住していった、ということになる。もしも4〜5万年前の中近東人がそうやってアフリカ人を追い出したネアンデルタール人であったのなら、アフリカ人は南のアフリカに逃げてゆくだろう。そうじゃないと話のつじつまが合わない。ネアンデルタール人に追い出されたものたちが北ヨーロッパに行って今度は逆にそこのネアンデルタール人を追い出すなどということをできるはずがないではないか。彼の理論では、中近東に下りてきたネアンデルタール人はヨーロッパで食いはぐれたものたちであり、そういうものたちに追い出されるレベルでしかないのに、どうして北ヨーロッパに住み着いているネアンデルタール人を追い出せるというのか。
 まあそうやって、追い出すだの追い出されるだのという幼稚な問題設定で、何が解き明かせるというのか。中学校の昼休みの雑談じゃあるまいし。
そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。中近東にすらほとんど来ていない。中近東には遠い昔から中近東に住み着いてきた人々がいただけだ。原始時代は、どんな地域の集団であれ、住み着いてゆくものたちと近隣の集団に向かって旅立ってゆくものたちがいた。それが人類の普遍的な生態であり、そんな生態とともに血(=遺伝子)がどこまでも遠く伝播してゆくという現象が生まれてくる。それだけのこと。そのころの中近東のネアンデルタール的な形質の人々だって、ヨーロッパからやってきたネアンデルタール人ではなく、ヨーロッパからの血=遺伝子の伝播を受けた中近東人だったのだ。
 原始人が地球の隅々まで拡散していったということは、原始時代は集団の離合集散が絶えず起きていたということを意味するのであって、集団ごと移動していったのではない。ここではもうその理由をあらためてくだくだしく並べ立てるということはしないが、そんなことは、いろんな意味で不可能なのだ。そして集団の離合集散をたえず繰り返していれば、世界中で血が混じり合ってゆく。
 そのころ、アフリカの「部族」という「幻想のネットワーク」は、けっして離合集散しない固定化された集団としてつくられていった。だからアフリカでは部族間の血の交流はほとんどなくなってゆき、アフリカ人の身体形質や遺伝子はどんどん多様になっていった。そのころのアフリカ人は、拡散してゆかない生態を持った人々だった。
 それに対してアフリカの外では、集団の離合集散が絶えず起きて血が混じり合うということが起きていた。そうしてアフリカの出口である中近東や北アフリカの地域は、地球気候が温暖化すれば南のアフリカ人の血が伝播してきて、寒冷化すれば北のネアンデルタール人の血が多く混じってゆく、という歴史になっていた。つまり、氷河期の4,5万年前の中近東ではネアンデルタール人的な形質の個体が生き残っていったということだ。べつに、集団的置換説の研究者たちがいうような、北のネアンデルタール人が集団で移住してきたということがあったのではない。いつだって、中近東には中近東人がいただけだ。
 原始時代のアフリカ以外の地域では、たえず集団の離合集散が起きていた。それは、そこではまだアフリカのような集団を固定化する「幻想のネットワーク」を持っていなかったからだし、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのだ。


 共同体という高度で安定した集団の中に置かれた現代人は、知らず知らず時代や共同体の制度性がつくり出す「集団幻想のネットワーク」に縛られ踊らされている。縛られ踊らされているから閉塞感が募るのであって、集団からはぐれてしまったものたちに閉塞感があるのではない。そして、「集団幻想のネットワークに縛られ踊らされている閉塞感」は、そのまま「自意識に閉じ込められ悪あがきしている閉塞感」でもある。そこがややこしいところで、吉本隆明のように「共同幻想と自己幻想は逆立している」などと安直に図式化して説明がつく問題でもない。
集団がつくり出す幻想のネットワークは、そのまま自意識がつくり出す自分の頭の中だけの幻想のネットワークでもある。自閉症的な人間は自分の頭の中だけの「神に支配されている」とか「死後の世界がある」というような「幻想のネットワーク」の世界観を持っているものであり、「共同幻想」も「自己幻想」も「幻想のネットワークをつくりたがるメンタリティ」において変わりはない。アフリカで発生した「部族」という「幻想のネットワーク」がみずからの家族的小集団の生活を成り立たせるものであったように、共同幻想に閉じ込められることは自己幻想に閉じ込められることでもある。彼らはそうやって完結した世界を仮構してゆく。
集団であれ個人の頭の中であれ、完結した幻想世界を構築すること、そのあげくに閉塞感を募らせて心を病んだり、さらには集団ヒステリーを起こして戦争をしたりするようにもなってくる。
「恨む」とか「憎む」という心の動き自体が、文明社会の限度を超えて膨らみ密集した集団の中に置かれていることからもたらされる一種のヒステリーではないだろうか。
 限度を超えて膨らみ密集した集団の中に置かれると、その閉塞感から「自我の肥大化」をもたらし、それが「恨み」や「憎しみ」という「ヒステリー」を引き起こす。
「ネットワーク」とはひとつの「幻想」であり、そうやって文明人の観念は、自分の頭の中の集団あるいは世界を仮構してゆく。それは、目の前の「今ここ」にある現実の集団あるいは世界ではない。そういう「現実の集団あるいは世界」は、目の前の「今ここ」に「あなた」がいるとか、目の前の「今ここ」にどこからともなく人が集まってきているというかたちで存在しているだけである。われわれは、そういう二つの集団性を生きているわけだが、現代の文明社会においては、「幻想のネットワーク」の観念性ばかりが特化して、目の前の「今ここ」にある「現実の関係性=集団性」を生きる心の動きが停滞・衰弱してきている。
「目の前に今ここにある現実の関係性=集団性」は「どこからともなく人が集まってくる」という人類拡散の歴史とともに育ってきたのであり、その歴史の果てに氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。人類が「幻想のネットワーク」をつくりたがるメンタリティの基礎はアフリカのサバンナでつくられ、もう一方に持っている「目の前の今ここにある現実の関係性=集団性」のメンタリティ基礎は北のヨーロッパのネアンデルタール人によってつくられた。そしてそれは、「人と人の関係=集団」に「潜り込んでゆこうとする」メンタリティと「はぐれていってしまう」メンタリティの問題でもある。集団からはぐれた心を携えながらどこからともなく人が集まってくる、それが人類拡散の歴史だったし、現代社会においてもそういう歴史の無意識の上に人と人はときめき合っている。
 集団からはぐれた心を共有しながら集団が生まれてくる……人類はそういう集団性を持っており、集団の連携のダイナミズムや人と人のときめき合う関係はそこから生まれてくる。それは、集団をつくろうとする心ではなく、集団の中に置かれていることの鬱陶しさや息苦しさから解放される心であり、集団から解放される心を持っていなければこの無際限に膨らみ密集した集団の中では生きられない。集団や関係からはぐれてゆく心を持っていなければ、集団の連携や関係のときめきは生まれてこない。
 人間性の根源=自然において、人は、集団をつくろうとする存在ではない。集団からはぐれてゆく心を持っているからこそ、「結果」として無際限に大きく密集した集団が生まれてくるのだし、その心を持っていなければその鬱陶しく息苦しい集団の中で生きることはできない。


現代人が「幻想のネットワーク」をつくってしまうことは避けがたいことではあるが、それに執着して縛られ踊らされていると、心を病んでしまう。
 われわれは、時代や共同体の制度性からはぐれて解き放たれている心を持たないと、時代や共同体の制度性の中で生きることはできない。それはつまり、時代や共同体の制度性は、時代共同体の制度性からはぐれて解き放たれている心に寄生しながら生成している、ということでもある。だから、時代や共同体の制度性は、ひとつの「流行」としてどんどん変わってゆく。時代や共同体の制度性からはぐれて解き放たれている心を後追いしているのだから、当然そうなってゆく。
 時代や共同体の制度性からはぐれて解放されている(=置き去りにされている)ものたちは、時代や共同体の制度性の一周遅れのランナーであると同時に先頭ランナーでもある。彼らは、この社会のそうした「幻想のネットワーク」にうまくフィットできなくて生き難さを生きているものたちであるが、すでにはぐれて解放されている彼らはうまくフィットして生き延びようとする欲望がもともと希薄であり、その生き難さを生きながらそこから心が華やいで人にときめき、人と連携してゆく。
 この社会の「幻想のネットワーク」にうまくフィットして生き延びようとするから悩まねばならない。そこから置き去りにされながらすでに解放されているものたちは、どんなに生き難くても生き延びようとして悩んでなどいない、ただもうその生き難さを嘆いているだけであり、心はそこから華やぎときめいてゆく。人と人は、その生き難さの嘆きを共有しながらときめき合っている。だから人は「もらい泣き」ということをする。
 泣くことの心の華やぎがある。人は、うれしくても感動しても泣く。
 あれこれ悩みながら心が停滞したり歪んだりヒステリーを起こしたりする。そして、嘆きながら心が華やぎ他愛なく感動したりときめいたりしてゆく。まあ誰の中にもこの二つの心の動きがあるわけだが、現代のように無際限に大きく膨らみ発達した社会に置かれていると、生き延びることができない悩みや生き延びることができる幸せという満足に浸る心が先行して、ときめきや感動が薄くなってくる。悩んでも幸せに浸っても、心は動いていない。そうやって生き延びることを約束してくれる「幻想のネットワーク」に執着してそれを得ることに成功しても失敗しても、心は停滞・衰弱してゆく。執着しながらそういうダブルバインドに陥ってゆく。
 人は自然・根源において生きられなさを生きる存在であり、その嘆きを契機にして心は華やぎときめいてゆく。
 生き延びることができる「幻想のネットワーク」にうまくフィットしてゆければというか、生き延びることができればすべての問題は解決するというわけにはいかない。生き延びることに成功するにせよ失敗するにせよ、どちらに転んでも心は停滞・衰弱してゆくという、生き延びることに執着することのダブルバインドがある。
 幸せを欲しがるのが人のつねだろうが、幸せになった瞬間から人の心は停滞・衰弱しはじめている。生き延びることができる未来を手に入れてその満足=幸せに浸っているものの心が、生き延びる未来を失っているものよりも切実に豊かに「今ここ」を生きているとはけっしていえない。前者の心はすでに生き延びることができる未来に向かって逸脱してしまっており、「今ここ」に反応する心が停滞・衰弱してしまっている。
 人が「今ここ」の世界や他者にときめき感動する存在だということは、その自然・根源において生きられない未来を失った存在であるということを意味する。人類は、みずから生きられなさの中に飛び込んでゆくような生態の歴史を歩みながら、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。


 生き延びることができない悩みは、生き延びることができる能力を持つことによって解決するか?
おそらく、そうはいかない。それは、心がときめかないということの悩みであり、生き延びることができる幸せを持ったからといって、もっと生き延びようとするだけで、その欲望から解放されるわけではない。その欲望から解放されて「もう死んでもいい」という心地になって、初めて心は豊かに動き出す。人類は、「もう死んでもいい」という勢いであえて生きられなさの中に飛び込みながら、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。
生き延びる能力を持ったからといって、それで心が豊かにはたらき出すわけではない。かえって鈍感になってしまったりする。なんのかのといっても人という存在は、心の奥に生きてあることのひりひりした心地を疼かせているから、猿のレベルを超えて豊かにときめいたりかなしんだりするのだ。
 たとえば、もしも宝くじに当たったら南の島で美女を何人も侍らせて暮らす、というインポテンツの男がいたとする。ではそれが実現すればペニスは勢いよく勃起するかといえば、おそらくそうはいかない。そんな満足=幸せから、ペニスが勃起するようなときめきが生まれてくるわけではない。嘆き=欲求不満がなければ、心はときめかないし、ペニスは勃起しない。美女が得られないという嘆き=欲求不満が解消されれば、ますますペニスが勃起する契機である欲求不満は希薄になる。美女が得られないから勃起しないと思っているのだろうが、美女が得られればますます勃起しなくなる。彼は、すでにそういうダブルバインドを抱えてしまっている。
 生きてあることの嘆き=欲求不満すなわち生きられないことの嘆き=欲求不満と向き合っていないと、その問題は解決しない。人は必ず死ぬのだし、誰もが生きられない存在なのだ。二本の足で立ち上がった原初の人類は、生きられないことそれ自体を生きる存在になったことによって一年中発情している猿になっていった。
 人は、死者の尊厳を思って葬送儀礼をする。死者の尊厳を思うことは、生きられないことを生きる嘆きから生まれてくる。そうやって人類は、この生を嘆きつつ死に対する親密な感慨を持つ存在になっていった。心はそこから華やぎときめきながら、ペニスが勃起していった。そうやって「この生=自分」に張り付いた心を引きはがして世界の存在の輝きに憑依しときめいてゆくときに、勃起という現象が起きる。
 生きられない嘆きとともに生きていれば、見飽きた古女房に対してだって勃起する。まあ、そうやって「貧乏人の子沢山」ということが起きる。そういう「ときめき=勃起」は、この社会で生き延びるための「幻想のネットワーク」から置き去りにされたもののもとにある。貧乏人でも、生き延びるための「幻想のネットワーク」に執着して生きていれば、インポテンツになってゆく。美女=幸せが得られないことの嘆きは、美女=幸せを得ても解決しないのだし、それは厳密にいえば「嘆いている」のではなく、なんとか美女=幸せを得ようと「悩んでいる」だけのことにすぎない。
 生きられないことを「嘆き」ながら「もう死んでもいい」という感慨とともに生きている貧乏人もいれば、生きられないことを「悩み」ながら生き延びようとあくせくしている貧乏人もいる。
 ペニスは、「もう死んでもいい」という勢いで勃起するのだ。生き延びようとあくせくしている男や生き延びられることに満足している男から順番にインポテンツになってゆく。


 たしかにこの社会の「幻想のネットワーク」にフィットしてゆけば生き延びることが約束される。しかし人は根源・自然において「もう死んでもいい」という勢いでときめいたり連携したりしている存在であり、そのダイナミズムはこの社会の「幻想のネットワーク」からはぐれてゆく心模様の上に起きている。
 貧乏人は、生き延びようとして悩み、その一方で生きられないことを受け入れ嘆きつつ「もう死んでもいい」という勢いでときめき連携してゆく。まあ貧乏人でなくても、この生のネガティブな事態に遭遇することは誰もが多かれ少なかれ体験しているのかもしれない。そんなときに「悩む」のか「嘆く」のか。生き延びようと悩むのか、生きられないことを嘆きつつ受け入れてゆくのか。悩んだ先に解決があるのか。心が華やぎときめいてゆく契機としてのこの生の通奏低音は、生き延びようと「悩む」ことにあるのか、それとも「もう死んでもいい」という感慨とともに「嘆く」ことにあるのか。両者は似て非なる心の動きであり、前者の心はますます自分に向いてゆき、後者の心は、自分に向いた心を引きはがして世界や他者に向かって解放してゆく。
 悩めばいいというものでもない。生き延びようとする自意識が強いから悩む。そうやって心は自分の中に閉じこもり、世界に向かって開かれていない。
 自分を忘れて世界や他者にときめいてゆく。そんなことは当たり前ではないか。ときめいてゆくことは、自分=この生から解放される体験であり、自分=この生に満足する体験ではない。
 自分=この生に執着するから悩まねばならない。そうして心は停滞・衰弱してゆき、ますます悩みは深くなる。
「いかに生きるべきか」と悩むのは、生き延びようとする欲望=自意識が強いからだろう。現在のこの国では、そうやって生き延びるための実用書=ハウツー本が大量生産され、生きてあるとはどういうことかと問いかける本格的なというか当たり前の哲学や思想の本が駆逐されているらしい。生き延びようとする悩みは深く、生きられないという嘆きは希薄な社会だ。
 しかし生き延びることができるようになれば問題がすべて解決されるわけではない。心はその瞬間から停滞。衰弱をはじめている。生き延びようとあくせくしているものや生き延びられることに満足しているものから順番にインポテンツになってゆく。つまり、世界や他者にときめく心が停滞・衰弱してゆく。
 人の心は、根源・自然において、生きられない存在としての嘆きがはたらいている。心はそこから華やぎときめいてゆく。
 赤ん坊には、どうやって生き延びるかという悩みなどない。生きてあることの嘆きと他愛なくときめいてゆく心があるだけだ。人は、そこから生きはじめる。そして、死ぬまでどこかしらにその心を携えて生きてゆく。そういうこの生からはぐれてゆく心模様が、「どこからともなく人が集まってくる」という、もうひとつの人類普遍の集団性の基礎になっている。
 悩むことから豊かな人間性が育ってくるのではない。人間性は誰だって生まれたときから持っているし、生まれたときがもっとも豊かなのだ。生きてあることの嘆きと他愛なくときめいてゆく心が人類拡散の歴史をつくった。それは、生き延びるための歴史だったのではない。そんな欲望は、近代文明人の自意識において肥大化してきたものにすぎない。
 人類は、生きられない存在としての人間性を育てる歴史を歩んできたのであり、そんな存在でありながら現代人のように生き延びることができる幸せを目指そうとするなら、そりゃあ悩みも深くなる。
 生き延びようとする自意識の欲望をたぎらせながら世界や他者に深く豊かにときめいてゆく心を持とうとしても、そりゃあ無理がある。
 世界や他者に深く豊かにときめいてゆく心は、生きられない存在としての「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに育ってくる。感動するとは、その無意識という地下水脈が地表に湧き上がるように「もう死んでもいい」と思うことだ。そういう感動が、人類の知性や感性を育ててきたのであり、人間的な魅力にもなっている。


他人から好かれたりちやほやされたりする体験は生き延びられることを約束してくれるが、生き延びようとして自分にこだわってばかりいる人間が魅力的なはずがない。
人と人は、たがいに自分を忘れてときめき合ってゆくのだし、自分を忘れるタッチを持っている人は魅力的だ。そのタッチは、人間性の自然・根源としての「もう死んでもいい」という無意識の感慨によってもたらされる。そのとき人と人は、「もう死んでもいい」という心意気でたがいに献身し合っている。
それはべつに大げさなことでもない。道を歩いていて前からやってくる人とぶつかりそうなったら、思わずたがいによけようとする。思わず自分を忘れてよけようとする。それは、自分の体を守るためというより、根源的には相手の体の動きを邪魔するまいという心なのだ。人はもう、本能的に「献身」の衝動を持っている。自分の体を守るためなら、相手の体を突き飛ばす。そうやってときに「戦争」をしたりするのだが、しかしよけようとすることは、いったん自分の歩行をやめることであり、自分の体のスムーズな歩行を放棄しているのだ。一般的には、こういう身体動作を説明するのに、よく「自己保存の本能」などといわれたりするが、そんな衝動は文明人のたんなる自意識の欲望にすぎないのであって、生きものとしての自然でもなんでもない。生きものの身体は、自分を忘れて世界に反応してゆくことによって動く。思わず動いてしまう。それが生きものとしての自然だから、自分に執着した自意識の強い人間ほど運動オンチであることが多い。よけるのがへたくそだ。そういう「自己保存の本能」では、体はスムーズに動かないのだ。
つまり、生き延びようとする「自己保存」の「欲望」に執着している人間は、体の動きが鈍くさいし、生きものとしての本能的な「献身」の衝動が希薄である場合が多い。「献身の衝動」とは、道を歩いていて人とぶつかりそうになったら思わずよけようとすること、そういう無意識的な何気ない動きにその人の人間としての本性があらわれていたりする。
猿よりも弱い猿であった原初の人類が、「献身」し合う関係なしに生き残ってくることなどできなかったはずだ。
人類は、二本の足で立ち上がったらたちまち進化をはじめて猿よりも強くなっていったのではない。その700万年の歴史の半分の期間は、知能(脳容量)も身体もほとんど進化しないままの猿よりも弱い猿としての歴史だったのだ。このことは今でも「人類史の謎」などといわれているのだが、われわれが道で人とぶつかりそうになったら思わずよけようとするのは、そういう「猿よりも弱い猿」として生きてきた歴史の無意識の痕跡であり、人類は「生きられない猿よりも弱い猿」として知性や感性を進化発展させてきた。その「猿よりも弱い猿」であった時代に拡散をはじめ、「献身」の衝動を熟成させてきた。いいかえれば、「生きられない猿よりも弱い猿」として生きなければ「献身」の衝動は熟成しない、ということだ。
人間なら誰だって「もう死んでもいい」とい無意識の感慨を持っている。そういう「生きられない猿よりも弱い猿」として生きた歴史の無意識の痕跡を持っている。


現代人の自意識は、他人から好かれたりちやほやされたりすることによって満足し、それを自己の存在証明にしてゆく。そうやって自分を語りたがる人は多く、それはすなわち他人からちやほやされたがっているということだ。そうして自分の望むほどにはちやほやされなければ自意識が傷つき、恨みや憎しみや嫉妬となって増殖してゆく。自意識が強いと、そうしたネガティブな感情をつねに抱えて生きてゆかねばならない。ちやほやされないから恨むのではない、ちやほやされたがるから恨むのだ。
 人に好かれたいなんて、支配欲なのだ。あなたを好きになろうとなるまいと、他人の勝手ではないか。人にやさしいといっても、そうやって好かれたがっているだけであり、そうやって自己宣伝をしながら他人の心を支配しようとしているだけの場合も多い。それが他人の心を支配しようとするただの自己宣伝だということは、なんとなく気配として伝わってしまうもので、そういう人は自分がうぬぼれるほどには人に好かれていないし、自分もまた知らず知らずその事実に気づいて、知らず知らず心の底で人に対する恨みを抱え込んでしまっている。
 人にやさしくしたからといって人に好かれるとはかぎらないし、その好かれたがるという心が人に対する恨みがましさを増殖させる。
 人間的な魅力を持っているから人に好かれるのだが、むやみに好かれたがらない方がいい。好かれたがるのはたんなる自意識過剰の欲望にすぎない。自己宣伝の手練手管で自分のことを好きにさせることもできるが、そんなことばかりしていると自分の方から人にときめいてゆく心が停滞・衰弱してくるし、思うように好かれなくて恨みや憎しみを膨らませることにもなる。
 ときめくとは、自分を忘れて自分=この生から解放されてゆく体験なのだ。
 まあ、「悩む」などという心の動きは、自分に対する執着であり、人に対する恨みがましさでますます自分に対する執着の迷路にさまよいこんでゆくことをいうのだろう。そしてそこから自分を確立してゆくことを悩みが解決されることだと現代人の多くは思っているのだが、そんな思考習性を持ってしまったら、死ぬまで悩みを繰り返してゆかねばならない。生きていれば、悩みの種はいくらでもやってくるし、社会的に恵まれない立場のものの悩みが解決されることは永久にない。幸せが価値で幸せが悩みの解決だというのなら、解決されるはずがないではないか。べつに豊かな文化的生活をするということだけではなく、「自分の確立」などといっても、人に対して恨みがましい人間ほど自意識が強く自分確立しているのだ。つまり、自分を確立することによって、永久に人に対する恨みがましさから逃れられない。
 人や世の中に対する恨みがましさこそ、悩みの推進力なのだ。
 悩みが人を磨くというのなら、死ぬまで悩みを繰り返してゆかねばならない。その悩みによって磨かれた人格は、人や世間に対する恨みがましさの上に成り立っている。人や世間に対する恨みがましさをバネにして自分を確立してゆく。人に対するときめきを失ったそんな「確立された自分」が、そんなにも素晴らしいのか。たとえば人にちやほやされる自分、社会的に成功した人間がそんな自分に執着し、そんな自分に酔って生きていることが、そんなにも素晴らしいのか。まあ、あのバブルの時代には、多くの人々がそんなふうにして生きることができた。ただの庶民だって、ひとまず「成功者」だった。そうして自分に執着し自分に酔いながら、人に対するときめきを失っていった。そうやって現在の中高年の多くが認知症になり鬱病になりインポテンツになっているし、そんな彼らに育てられた若者や子供たちの発達障害も大きな社会問題になってきている。
 現在の大人たちは「悩み」を解決したものたちだろうが、悩みの解決なんか、自分執着し自分に酔ってゆくこととしてもたらされるだけであり、解決されることによってますます世界や他者に対するときめきが希薄になってゆく。そうして死ぬまで「自分探し」の悩みを繰り返してゆかねばならない。
 人の心は、自分を確立するだけではすまない。自分を忘れて人や世界にときめいてゆく体験がなければ生きられない。
 ……「悩み」と「嘆き」、ひとまずここまで考えてみたが、うまく問題の本質に迫ることができない。次回にもう一度考えてみたい。