閑話休題
今回は、電話でちょっとした意見の行き違いになったある人への個人的な送信を書いておくことにします。電話では、どうしても誤解が生まれてしまう。
夏目漱石だろうと小川国夫だろうと村上春樹だろうとカーヴァーだろうとドストエフスキーだろうと、小説家という人種は、自分がこの世界の真実を探求し知っているようなことをときどき発言するが、彼らは何もわかっていないのです。そんなことは科学者や哲学者の仕事であって、小説家の能力ではない。そういう意味では、科学者や哲学者や批評家に比べたら、小説家なんてみんなアホなのです。小説家は、世界の真実を語っているのではなく、誰もが感じているはずの<世界に対する「印象」>を言葉にすることができる人たちです。そしてそれは、小説家にしかできない。誰もが感じていても誰も言葉にできないことを小説家は言葉にして見せてくれる。彼らはアホだけど、そういう神みたいな能力を持っている。彼らの言葉は、科学者や哲学者が「ここまでしかわかることができない」ということの向こうに向かって開かれている。しかし、彼らがその「向う」を知っているわけではない。ただ「開かれてある」だけです。
小説家に比べたら、科学者や哲学者の方がずっと自分がアホだということをよく知っている。ここまでしかわかることができないという「嘆き」を持っている。しかし小説家の言葉はその向こうに向かって開かれてあるから、何か自分がわかっているかのような思い違いをしてしまう。彼らはいきなり神の言葉に届いてしまったりするが、科学者や哲学者のように地道に「探究」するということはできない。
科学者や哲学者は「こう書くしかない」という限界の中で文章を書いているが、小説家はそういう限界からは自由で、その限界を超えていきなり神のような言葉をつかまえてしまう。言い換えれば、自由だからこそ、小説家の方がずっと文章を書くことに「作為的」な構成をしている。そこのところでは、科学者や哲学者の方がずっと無邪気で、小説家の方がずっと言葉に「すれている」のです。彼らはアホのくせに、あきれるくらい文章の構成に勤勉で緻密な作業をしている。だから、偉くなると「文章論」を書きたがったりする。
ある人が小林秀雄の文章なんて悪文の見本のようなものだといっていたが、作為的で達者な文章が書ける人にはそう映ることでしょう。しかし小林秀雄は、文章を書くことにその人よりずっと無邪気だったのです。
ともあれ、人間なんてみんなアホなのです。アホで無邪気にならないと文章なんか書けないということがあるのに、小説家は妙に「自分はわかっている」という気になりたがるところがある。そうして批評家に対して「お前ら書けるものなら書いてみろ」といいたがる。しかし小説家の書くものが、科学者や哲学者や批評家が「ここまでしかわからない」と嘆いているその向こうに向かって開かれているからといっても、小説家はその「ここまでしかわからない」ということすらわかっていないのです。たぶん小説家は、アホだから才能があるのでしょう。そういう神のような言葉に憑依する才能は、小説家にしかない。まあ、小説家はアホだから、わかっているつもりになりたがる。批評家よりもずっとアホのくせに、自分がただのアホだとわかっているからか、わからないからか、とにかく批評家に対抗心を持ったり批評家を見下したりしたがる。彼らは、アホだから才能があるのです。
ほんとに小説を書く才能というのは、特別な才能だと思う。小説なんかわれわれの誰でも書けるが、小説を書く才能は、われわれの誰も持っていない。そういう才能を持っている稀少な人が、この世界の真実をわかっているつもりになりたがるなんて、愚かなことです。そういうことは、地道に「探究」しているものにしかわからない。夏目漱石だろうと村上春樹だろうと、アホのくせに偉そうなことをいうんじゃない、と思う。彼らは真実の向こうに逸脱=飛躍していったものたちであり、彼らが真実それ自体を知っているわけではない。彼らには、真実を地道に探究する能力はない。
僕が考えていることに沿っていえば、折口信夫は、民俗学の学問だけではなく小説や短歌の才能にも秀でていたが、だからこそ彼の民俗学など屁みたいなものなのです。そこのところでは、ほんとにどうしようもないアホだなあと思う。そんなアホのいうことをありがたがっている今どきの民俗学者はなおアホかもしれないが、しょせん人間なんかみんなアホなのだから、それも仕方ないことかもしれない。ともあれ、折口信夫の「直感」は「自分はわかっている」という自意識=ナルシズムの上に成り立っているのであって、地道にこの世界のひとつひとつの真実を探求し発見してきた思考の蓄積がない。何もかも自分の観念世界で決めつけて生きてきたのだから、あるはずがない。人は旅に出ることによって自分の観念世界を捨てて「何だろう?」と問うてゆくものだが、彼は旅に出ても自分の観念世界で裁断・裁量することばかりしている。沖縄でフィールドワークをしてきたといっても、勝手に決めつけるような直感や思考しか持てていない。文学的な才能は豊かかも知れないが、ほんとにアホだなあと思う。
文学的な才能は、世界の真実がわかることではない。文学的な才能があるということは、アホだということなのです。彼らは、この世界のひとつひとつの真実に対して自分を捨てて問いながら発見してゆくという地道な生き方をしてこなかった。つねに世界に対する「印象」が先にあった。文学的な才能がある人に語ることができるのはこの世界の「印象」であって、「真実」ではない。そしてその「印象」は、無邪気なアホにならないと豊かに体験することはできないわけで、無邪気なアホだから体験できる。まあ文学的な才能だろうと学問的な才能だろうと、どちらに転んでも無邪気なアホにならなければ開花しない。
文学的な才能を持った人が世界の真実をわかっているつもりでいるなんて、とんだ思い上がりです。彼らはもう、そんなことがわかるような生き方をしてこなかったし、生まれつきそんなことがわかる能力を持っていない。そのかわり、この世界に対する「印象」を表現する言葉を誰よりも豊かに紡ぐことができる。それだけのことだし、それだけのことが誰もできない。
小説家は、批評家が自分の小説のことをなぜそのようにいうのかということを何も問うていないし何もわかっていない。そうして「書けるものなら書いてみろ」とえらそぶる。そんなことをいったって、批評家はおまえらみたいなアホになって主観的な「印象」だけを汲み上げる才能など持っていない。なんとか「真実」に届きたいと四苦八苦している。客観的な「真実」ばかりが気になる。おまえらが批評家以上に真実に届いているなんて思い上がったことをいうな。そしてお前らが無邪気に書いているなどと勘違いするな。おまえらほど作為的な人種もいない。科学者や哲学者や批評家の方がこの世界の真実に対してもっと無邪気に謙虚に思考しているし、おまえらには「印象」を語る能しかない。批評家が何をいおうとしているか、わかりもしないし問うてもいないくせに、偉そうなことをいおうとするな。
禅の思想が究極までたどり着いたわけではないし、こっちは禅の思想の後追いをしているわけではない。禅なんかくそくらえで、この生やこの世界のひとつひとつの真実を問い続けている。最後にたどり着ける地平なんかないいとなみを続けているのだ。俺が禅の後追いをしているなんて、しゃらくさいことをいってくれるな。そんなに禅が立派か?禅がこの世界の真実を果てまで解き明かしたのか?笑わせてくれるよ。こっちは、コンビニのおねえちゃんが思わずはにかんで微笑んだその顔にときめき、何だろう?と問いながらこの文章を書き続けているのだ。その「印象」を表現する能力がないそのぶん、必死に「何だろう?」と問うている。それだけのことさ。
おまえらは俺のいうことに聞く耳なんか持たないし、この世界の真実を問うことで俺に対抗できるつもりでいやがる。だったら、それこそ、俺と同じだけのことを書き続けて見せろ、といいたくなってしまう。ただのアホで文学的な才能があるだけのくせに、真実を問うことで俺に対抗できるつもりでいるなんてしゃらくさいんだよ。
人に対するひがみ根性やうらみばかり旺盛で、人のいうことにひとまずひざまずいて聞いてみようという態度なんかさらさらない。そうやって折口信夫は、どうしようもなく低俗な民俗学を打ち立てた。旅に出ることは、そういう感情をぜんぶ捨てて人にひざまずいてゆくことではないのか。自分が何もわかっていないと思い知らされることではないのか。名もない庶民だろうと知識人だろうと、どんな生き方であれ、余計な作為など捨てて才能のままに自由に羽ばたいているものこそもっとも充実して生ききっているのではないのか。魚屋の才能だろうとパン屋の才能だろうと文学の才能だろうと学問の才能だろうと、才能とはそういうものではないのか。
村上春樹も折口信夫も、この世界に対する「印象」を言葉にする才能があるだけのくせに、この世界の「真実」を探求し解き明かす才能も誰にも負けないつもりでいる。だから彼らの書くものはとても魅力的であると同時に、どうしようもなく作為的で俗っぽくもある。彼らには、勝手に決めつけてわかったようなことをいうな、といいたい。おまえらには他者にひざまずいて問うてゆく態度なんかない。おまえらの語る「印象」は魅力的だが、おまえらの語る「真実」などなにほどのものか。だから折口信夫は、小説や短歌にも手を染めるしかなかった。世界に対する「印象」を言葉にする彼の才能はそこでしか自由にはばたくことができなかったから。
学問は、世界に対する「印象」をそぎ落として「真実」だけを問うてゆく。一方文学は、世界の「真実」を問うことよりも世界に対する「印象」を豊かに汲み上げてゆく。まあどちらも最終的には両方の才能が必要なのだろうが、どれを優先するかの違いはある。
無知な庶民だろうと知識人だろうと、才能を自由にはばたかせることは、「旅をする乞食の姿に身をやつした神」の視線を持つことだろうと思えます。そういう無邪気なアホにならないと才能は自由にはばたかない。作為的に無邪気なアホのふりをするのではなく、しんそこ無邪気なアホになれないといけない。そこが難しいところです。禅ではそれを「放下」というのだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。コンビニのおねえちゃんのはにかんだ笑顔にときめくことができるかという問題であり、もう死んでもいいという勢いで夢中になってやりきれるかどうかという、そういう「集中力」の問題でもあります。自意識満々で作為的なことばかりしていたら、必ず息切れする。死ぬまでやりきることができないといけない。認知症になってしまったからとかインポテンツになってしまったからというような言い訳はできない。作為的だからそうなってしまう、と思い定めるしかない。作為的だから集中できないで、あれこれ気になる。折口信夫なんか、民俗学の真実を探求できるだけの集中力を持っていなかったから、小説や短歌に手を染めないといけなかった。つまり、民俗学の真実にひざまずいてゆく思考力を持っていなかった。自分勝手に決めつけているだけの思考態度では、どうしてもそれだけではすまなくなって、関心が散乱してくる。能動的に知る=書くのではなく、受動的に知らされる=書かされることの方が集中力になる。文章を工夫するとか生き方を工夫するとか、そういう能動的な態度で人は才能をすり減らしてゆく。
工夫することなんか大した問題じゃない。集中力とはつまり、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」を生ききってしまうということかと思われます。乞食をしようとエリートであろうと、「今ここ」を生ききってしまう勢い=集中力がないと、才能がすり減ってしまう。衣食住の安楽など忘れて乞食に熱中できるなら大したものだし、工夫などないのが神の視線なのでしょうね。だから神は、人間などつくっていないし、人間をどのように生きさせようとする工夫もしていない、この世に人間が存在することはこの世の「なりゆき」であって、神のしわざではない。神だって、この世のなりゆきとして人の心に存在しているだけでしょう。それが日本列島の伝統的な世界観で、真宗では、あの世に極楽浄土も阿弥陀如来も存在すると思うな、という。思わない「今ここ」に極楽浄土も阿弥陀如来も存在する、という。それはたんなるひとつの考え方かもしれないが、究極の集中力だともいえる。
誰だって何らかの才能を持っているのだろうが、集中力がないとそれは花開かない。集中力がないから、と言い訳している暇なんかないし、集中させることを才能というのでしょう。そうやって自分を守っている暇なんかない。「もう死んでもいい」と無防備なりきれることを才能という。才能とは感動することであり、感動すれば、「もう死んでもいい」という無意識の感慨が心の表層に浮かび上がってくる。
死ぬときはどうなるというようなことではない。死は「今ここ」の現実であって未来のことではない。そういう集中力を持っているのが人間であり、しかし文学的な才能を持った人間には、この世界の真実を探求してゆく集中力はない。それは、知識や知能の問題ではない。集中力の問題なのです。夏目漱石も村上春樹も、知識や知能は有り余るほど持っていても、この世界の真実を探求してゆく集中力はない。なぜなら彼らは、真実の向こうを「印象」として持ってしまい、それを言葉にしてしまう才能=集中力を持ってしまっているからです。
文学的な才能を持った人間から世界の真実がわかっているかのような態度を取られると、うんざりしてしまう。
吉本隆明だって、文学的な才能は豊かだったかもしれないけど、だからこそ世界の真実を探求することにおいては、どうしようもないアホだった。知識を集めながら勝手な「印象」を語っているだけで、地道に客観的な「真実」を抽出してゆくということは何もできなかった。「大衆の原像」などといって「大衆はえらい」と持ち上げること自体がすでに自分の主観的情緒的な「印象」を優先して、科学者や哲学者のようなこの世界の真実にひざまずくという客観性を喪失している。大衆だろうと知識エリートだろうと同じ人間さ。どちらが偉いということもないし、大衆よりももっと下層の「乞食の視線」だってある。「大衆」だの「生活」だのというレベルに居直って、この生やこの世界のどんな真実がわかるというのか。この世界に対する「印象」が優先する文学的才能のある人間に、この世界の真実の何がわかるというのか。どうでもいいからおまえらはその「印象」に集中しろ、といいたい。人の心は「印象」の上に成り立っているし、この世界の「真実」は「印象」をそぎ落としたところに成り立っている。
この世界を「印象」としてとらえるなら、生きものは生き延びようとする衝動とともに生きてあるように見えるが、それがこの世界の「真実」かといえば、きわめて疑わしい。生き延びるためのいとなみとして人は工夫して生きるとか書くということをするのだろうが、「今ここ」にせっぱつまればそれどころじゃない。生き延びるための工夫なんか自慢してくれるな。誰だってそういう工夫をして生きてゆくしかないが、才能はそんなところで花開くのではない。どんなに大富豪だろうと貧乏人だろうと、誰の中にも生きてあることのせっぱつまってひりひりした思いは息づいている。そこのところに立った言葉が、人を感動させる。文学的な才能のある人間は、どんな無邪気なアホだろうと、そこのところに立った言葉=表現を持っている。
今は食うに困っていないといっても、そういうせっぱつまった思いがないなんて、言い訳にすぎない。そういうせっぱつまった心は、人間なら誰の中にも息づいている。一度でもそこに立ってしまった人間は、そういう言葉を紡ぎ続けるしかないし、紡ぎ続けられないはずがない。
人のことを安直にほめるな、それだって自分が生き延びるための工夫にすぎない。そうやって他人のことを勝手に決めつけ、自分を守るな。ほめられたものは、とまどい居心地を悪くしているかもしれない。そんな言葉は、どんなに美しく巧緻であっても、おおまえらが生き延びるためのたんなる処世術にすぎない。それはお前らの「印象」であって「真実」ではない。「真実」が知りたければ、勝手に決めつけないでひたすら問うてゆけ。まあおまえら文学の才能がある人間にそんなことを要求しても無理な話だが、せめて「印象」に集中して、自分の勝手な決めつけにはにかむぐらいのたしなみのいささかは持ってもよかろう。