皮膚感覚の問題・ネアンデルタール人論210

人間中心主義でいうのではないが、直立二足歩行の開始以来、人類の脳のはたらきは驚異的に進化発展してきた。それはまあ、そうに違いない。では、猿にはないそうした人の心の動きのダイナミズムはどこにあるのかといえば、生き延びることすなわち自我の安定・充足に対する欲望の強さの問題ではなく、自分を忘れて何かに夢中になったりときめいていったりすることにある。
人類は、「もう死んでもいい」という勢いで進化してきた。
自己意識(自我)などというものは、猿でも持っている。いや、猿のほうがもっと確かに持っているともいえる。
人は、自分を忘れてしまう体験をする。猿は、自分を忘れない。
「感動する」という体験は、猿にはできない。
感動して鳥肌が立つ、などというが、大げさであれささやかであれ人はそういう体験を恒常的にしている存在だから、体毛が抜け落ちていったのかもしれない。生きてある状態が、ひとつの「感動=ときめき」という心の動きの上成り立っている。
人の心の動きというか意識のはたらきは、世界と身体の境界である「皮膚」に宿っている。それは、身体の「外縁=輪郭」であると同時に、世界の「内縁」でもある。そうやって皮膚がどんどん敏感になってゆきながら体毛が抜け落ちていったのではないかとも考えられる。
そしてその敏感過ぎる皮膚を保護し落ち着かせる装置として「衣装」をまとうようになっていった。衣装は、「第二の皮膚」なのだ。それは自己の表現であると同時に、自己を取り巻く世界を表現するものでもある。そうやって仕事や冠婚葬祭のユニホームになっているし、流行のファッションは「街の風景」であることをアイデンティティとしている。そのとき「衣装」という「第二の皮膚」は、「自己の肉体」を離れて、仕事や冠婚葬祭という「公共の場の風景」やおしゃれに華やぐ「街の風景」になりたがっている。
つまり「感動する」とは、「自己=肉体」を「喪失」する皮膚感覚の体験なのだ。
人類の体毛が抜け落ちていったのは「皮膚感覚」の問題であり、それは、この生が「感動=ときめき」の上に成り立っていることを意味する。この生はどうしようもなく愚劣でやっかいなものだが、それでも人間にとっては、心のはたらきそれ自体がすでに「感動=ときめき」として生成している。目の前のリンゴをリンゴとして認識すること自体がすでに「感動=ときめき」であり、見上げる青い空を「青い」と認識すること自体が、すでに皮膚がざわざわする体験になっているのだ。

今ちょっと「進化論」の問題を考えている。
地球に生命体があらわれたのは、およそ35〜40億年くらい前らしい。
地球の誕生が46億年前で、最初は無機物だけだったが、無機物どうしが化学反応を起こして有機物になり、それがやがて生命体になっていったのだとか。
まずいくつかの種類のバクテリアのような微生物があらわれ、その違う種類の微生物どうしがつながり、その組み合わせの違いによって植物の細胞と動物の細胞に分化していった。
この「つながる」ということが問題なのだろう。それによって体が大きくなったり複雑な構造になったりしていった。「融合」してひとつになってしまったら、いつまでたっても単純な構造の微生物のままだ。
細胞というのは「核」とそのまわりの成分によって成り立っているわけだが、両者はけっして融合しない。「核」にも被膜があって、つまり二重の被膜の構造になっている。もちろんそれぞれ皮膜を持つ細胞どうしも、つながってはいるが、「融合=一体化」はしない。
アメーバのような単細胞生物は、体の中が融合状態になってくると細胞分裂を起こす。
生物学ではこの「つながっている」状態を「共生」というややこしい言い方をしているのだが、心理学でいう「共生状態」とは病的な関係のことを指すわけで、なんともまぎらわしい。
「つながる」ことは、「融合=一体化」することではない。細胞内の核とそのまわりの成分は、「融合=一体化」することなく、「連携」しているだけだ。その「混じり合わない」ことが生物の進化をもたらした。

雌雄の発生だって、つながって「連携」してもけっして「融合=一体化」はしない、という関係として起きてきたはずだ。
勃起した男のペニスは、女の膣の中に入り込む。それはあくまで「異物」であり、膣の中で膣に溶けてゆくように軟らかく小さくなってゆくのではない。勃起していなければ「つながる」ことはできない。射精して軟らかく小さくなってゆくことは、いわばペニスの死にほかならない。射精してしまうと、急激に「皮膚感覚=ときめき」が減衰・消失してゆく。
すべての生きものは、「身体の孤立性」を持っている。細胞には被膜があり、その中の核にも被膜がある。人の身体も、皮膜=皮膚がある。木や草にだって被膜がある。すべての生きものに被膜がある。
われわれは、「身体の孤立性」という「皮膚感覚」で生きている。それが生物の進化をもたらした。
人類は、「身体の孤立性」をよりどころにして「連携」という関係を進化発展させてきた。それは、「皮膚感覚」の問題なのだ。
内田樹なんかは、この「皮膚感覚」が鈍いから、いつまでたっても鈍くさい運動オンチだし、他人の心に対する想像力が欠落していて、無神経に愚にもつかない自慢話を垂れ流してばかりいる。彼は、そんな自慢話で他人の心がどう「反応」するかということがよくわからないし、自分もまた他人の心の動きや体の動きに「反応」してゆく「皮膚感覚」がどうしようもなく欠落している。だから、あらかじめ仲良くすることが約束されている予定調和の「仲間」とか「家族」とか「共同体」という関係をむやみに称揚する。「反応」を失った自閉的な人間には、「反応」しないでもすむ関係が必要だ。彼らはときめき合っているのではなく、執着し合っているというかなれ合っているだけであり、そうやって誰もが自我の安定・充足にまどろんでいる。
自閉的な人間ほど、他者とのなれなれしく「融合=一体化」した関係を欲しがる。愛だのなんだのといってもそれは、人間性の自然でも生きものの自然でもない。生きものは「融合=一体化」しないで「つながる=連携する」ことによって進化してきた。
細胞の中の核にも「被膜」がある。これは、すごいことだと思う。最初の無機物どうしが化学反応を起こして有機物になるということだって、「融合=一体化」しないから別のものになったのだろう。
まあ内田樹は、同じ人種どうしの「融合=一体化」した集団性を目指しており、心と心が化学反応を起こして連携・展開してゆくという関係を知らない。つまり、勃起したペニスが濡れた膣の中に入ってゆくというのはそういうことであって、「融合=一体化」してゆくことではない。
「仲間」や「家族」や「共同体」の中で他者との「融合=一体化」にまどろんでいたら、知性も感性も人間的な魅力も育たない。
知性がどうのこうのといったって、彼には基本的な「皮膚感覚」が欠落しているし、「皮膚感覚」を持たない知性などたかが知れている。
生きることや自我の安定・充足にまどろんだり執着してしまったら、知性や感性のはたらきなどおしまいであり、人にときめくこともペニスが勃起することもなくなってくるのですよ。
それは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の世界に対するひりひりした「皮膚感覚」のもとに宿っている。

「生殖隔離」という問題がある。違う種とは交雑しても生殖(妊娠)しないし、自然に棲み分ける関係になってゆく。また、棲み分けることによって、もともと同じ種なのに違う種になってゆくということもある。
絶海の孤島のガラパゴスの生きものは、「生殖隔離」によって独自の進化を遂げてきた。
北ヨーロッパネアンデルタール人中央アフリカホモ・サピエンスも、50万年前以降「生殖隔離」の関係になってゆき、たがいに大きく違う形質になっていった。
「生殖隔離=棲み分け」という生態は、アフリカのホモ・サピエンスのほうが色濃く持っている。それによってアフリカでは、高身長のマサイ族とか尻の大きなコイサン族とか低身長のピグミー族とか、さまざまな形質に分化していった。また、同じ地域に住んで同じような形質でも、部族どうしで言葉も通じないほど分化してしまっている場合も多い。
生殖隔離によって進化するかといえば、そうともいえない。それはひとつの停滞でもあり、新しい環境に適合した雑種に導かれながら進化してゆく場合もある。
ヨーロッパのネアンデルタール人は、ヨーロッパ中で交雑していたから、どこでも同じような形質だったし、同じようなレベルの文化だった。そうやって、どんどん「雑種」を生み出しながら進化していった。
ネアンデルタール人は、彼らの環境に合わせて「進化」していったのであって、世の凡庸な人類学者がいうように「退化」していったのではない。北ヨーロッパに住み着いたネアンデルタール人はめざましい勢いで脳を発達させていったし、その発達した脳はヨーロッパ中で共有されていた。
彼らの脳がなぜ発達したかといえば、その厳しい環境で「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きることのその嘆きというかストレスによるのであり、そんな条件下でたがいに生かし合おうとけんめいに「連携」していったからだ。その、世界に反応するひりひりした「皮膚感覚」とともに肌の色が白くなっていったということもあるのかもしれない。
なにしろ、氷河期明けに極北の地に移住していったモンゴロイドであるイヌイットは、一万年以上経った今でも肌の色は白くなっていない。すでに人類の文化があるていど発達した段階で移住していった彼らは、ネアンデルタール人ほどのせっぱつまった「皮膚感覚」の歴史を歩んできたわけではない。
ともあれそれは、それほどにネアンデルタール人は生き延びようとすることに切実だったということを意味するのではない。そんな思いがあるなら、何もわざわざそんなところに住み着いたりはしない。さっさと生きられる環境の土地に移住してゆく。彼らは「もう死んでもいい」という勢いで、そこに住み着いていった。そこにあったのは、生き延びることの充足だったのではない。「皮膚感覚」が豊かにはたらいていることの「ときめき=感動」だった。生き延びることよりも、そういう「皮膚感覚」のほうが、ずっと生きものとしての根源的な本能のようなものにかなっているのだ。
生き延びることなんか、ただの観念的な「政治経済」の問題ではないか。
「身体の孤立性」としての「皮膚感覚」こそが、生きものの歴史に「進化」をもたらした。
「適者生存」などといっても、進化することによって滅びていった種はいくらでもある。進化してゆくことは滅びてゆくことだ、ともいえる。生きものの命のはたらきは、生き延びるためのシステムとして成り立っているのではない。「今ここ」の世界に対する「皮膚感覚」として成り立っているだけだろう。たとえそれが滅びてゆくことであっても、「皮膚感覚」がそのようにはたらけばそうなってゆく。生き延びるかどうかなどということは世界=環境が決定することであって、生きもの自身が選択することではない。
ネアンデルタール人は、滅びることを選択するようにして氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。彼らを生かしていたのは、「皮膚感覚」だったのであって、生き延びようとする欲望だったのではない。
われわれが生物学の問題として知りたいのは、なぜそれが生き延びることができるかということではなく、生きものとしてのその「皮膚感覚」がどうなっているかということにある。
ネアンデルタール人は、生き延びることができない生を生きていた。だからこそ豊かに「皮膚感覚」がはたらき、ときめき合い連携していた。
生きものは「皮膚感覚」とともに進化してゆく。たとえそれが滅びてゆく道であっても。
未来はどんな社会になるかということは、時代の流行と同じように、人々の「皮膚感覚」の問題であって、生き延びることができるよりよい社会になるとはかぎらないし、そうならねばならないというわけでもない。
生きものは、生き延びることを目指して生きているのではない。「身体の孤立性」を根拠にした「皮膚感覚」とともに生きている。この世界に対してどれだけ豊かに「反応」してゆくことができるか。それが、「進化」の契機になる。
原初の海の中の小さな生物(動物)は、目が五つあるとか、とんでもないかたちをしたものが多かったのだとか。それは、生き延びるためではなく、「今ここ」に反応する「皮膚感覚」によるなりゆきまかせの進化だったのだろう。現在のような目は二つといった法則を持った形に整えられてきたのは、環境による淘汰のなせるわざであって、生きもの自身は、原初も今も「今ここ」の「皮膚感覚」のなりゆきまかせで生きている。