出たとこ勝負の進化・ネアンデルタール人論214

たとえば、薄いゴム手袋をして水気のものに障れば、手の皮膚が濡れたように感じる。「皮膚感覚」とはそのようなことで、そのときゴム手袋が「皮膚」になっている。だから、コンドームをはめてもちゃんと挿入している心地が得られる。まあ、それではなんとなく物足りない、という気分の問題というのもあるわけだが、それはともかくとして、皮膚感覚は、「皮膚」の感覚というよりも、「身体の輪郭」の感覚なのだ。もちろん「皮膚」が感じているのだが、その「皮膚の感覚」がゴム手袋やコンドームに宿っている。
人が「衣装」をまとうことにしても、それが、環境との関係を生きるための「第二の皮膚」として機能している。「生きられなさを生きる」存在としての人は、裸の皮膚では環境からの淘汰圧に耐えられない。つまり、他者の視線や、暑さ寒さや、皮膚が薄すぎて怪我しやすいとか、そういう圧力に耐えられないのだ。それほどに人の皮膚は敏感になってしまっている。
現代社会においては、社会からのというか共同体の制度からの「監視」の圧力がきつくなっているから、なお「衣装」の果たしている役割は大きい。
どのような衣装をまとうかということは、勝手な自己満足だけではすまない。それだけでは、分厚い材質の手袋やコンドームをしているのと同じで、環境を感じることはできない。人が衣装を着るとき、環境からの圧力(他者の視線)に耐えつつそれと関係してゆく、というやりくりがなされている。それが、「ファッションセンス」というものだ。
おしゃれなファッションセンスの皮膚は、「生きられなさ」を生きている。
文明社会においては、制度による「監視」の圧力が強すぎて、どうしても自意識の鎧で自分=身体を守ろうとする意識が強くなってしまう。そうやって「生きられなさを生きる」ひりひりした「皮膚感覚」を失ってゆく。いや、誰もがそうなってゆくというのではなく、そういう病理に陥る危険をはらんでいるということで、それでも魅力的な人は、そうした「ひりひりした皮膚感覚」を生きている。人間なのだもの、「ひりひりした皮膚感覚」を生きるしかないのだ。
若者ほど「ひりひりした皮膚感覚」を生きている。だから、ファッションの流行は、けっきょく若者がリードしている。
つまり、自意識過剰なブサイクな大人のくせに偉そうなことをいうんじゃないよ、ということ。平和で豊かなこの社会を生きることの「ゆるーい幸せ」に居直って満足しきっているだけの、そんな思考態度で「この幸せを守ろう」というような市民正義を合唱しても、多くの若者たちを説得する声にはならないし、そこには進化も変化もない。

人は、進化や変化を生きようとする。それは、「生き延びることができる幸せ」が欲しいという上昇志向ではなく、「生きられなさ生きる」ことの「ひりひりした皮膚感覚」で生きるということだ。
「生きてある」ことよりも「生き延びる」ことのほうが大事だなんて、本末転倒もいいことだ。「生きてある」ことの無意味や愚劣さに耐えられないから、そういうことになる。「生きてある今ここ」が大事だということは、「生きてある」ことは無意味で愚劣だと深く思い知ること。
人は、生きてあることの無意味や愚劣さに耐えながら、生きてあることを忘れて生きてあることから超出してゆく。そうやって心が華やぎときめいてゆき、進化や変化が起きる。生きてあることの意味や価値に執着・耽溺していても、進化や変化は起きない。ときめく心がどんどん停滞し衰弱してゆく。
命のはたらきとは、命のはたらきにけりをつけようとするはたらきのこと。
昔の人は、生きてあることなんか忘れてただ遊び狂え、といった。
誰だって、ただ遊び狂って生きたい。なのにこの社会は、それではいけない、生き延びることの幸せを大事にせよと迫ってくる。生き延びるための「労働」こそ人間の本性であり、生きものとしての本質・本能だ、などという愚にもつかない言説が真理であり正義であるかのような合意がいつの間にかつくられてしまっている。現代人の心や思考というか観念は、そういう言説に幽閉されてしまっている。大人社会は、そういう合意でたがいに「監視」し合い、縛り合っている。そうして多くの大人たちが認知症やインポテンツになってゆく。平和で豊かな社会の生き延びることができるこのの「ゆるーい幸せ」に執着・耽溺して生きてきたことのツケを、認知症やインポテンツというかたちで支払っているのだ。
あなたたちは、狷介(けんかい)なんだよ。狷介とは、自意識に凝り固まって、進化・変化がないこと。依怙地なこと。ひとりよがりなこと。心も生き方も枠にはまって型通りであること。つまり、人間としての面白みがないこと。
「成長する」などといっても、未来の自分を「今ここ」の自分が計画した通りにつくることなんか、進化でも変化でもなんでもない。「今ここ」の自分がそのまま未来に移動していっただけのこと。
人の心なんか、どんどん変化してゆく。未来の自分のことは、未来の自分が決めればいいだけのこと、そういう出たとこ勝負の「即興性」がないから、人間としての面白みがないのだし、そういう「今ここ」に対する「反応」を失って認知症やインポテンツになってゆく。
現代人はなぜ、死ぬまで進化・変化してゆくことができないのか。
進化や変化とは、流れさすらうこと。
流れさすらいながら「今ここ」に消えてゆく……まあ原始人は、そうやって生きて死んでいったし、生きものの身体や生態であれ人類の文化であれ、そういう「今ここ」の出たとこ勝負の即興性=反応の豊かさとともに進化してきたのだ。
人類は、今ここの出たとこ勝負で地球の隅々まで拡散していったのだ。世の凡庸な人類学者たちが合唱するような、「生き延びるための計画性」などということで、誰が好き好んで氷河期の極北の地に移住していったりするものか。

ips細胞は、どんな臓器にもなりうる。それはつまり、どんな臓器になるという「未来に対する計画性」も持っていない、ということだ。「今ここ」の即興性の出たとこ勝負で、どんな臓器にもなってゆくことができる。まあips細胞の発見は「生命の起源に遡行する」という試みによって生まれてきたわけで、だったらそれは、生命の進化は「今ここ」の出たとこ勝負の即興性によって起きてきた、ということを意味する。
出たとこ勝負の即興性でなければ命は活発にはたらかない。心のはたらきだって同じこと、そうやって人類の文化は進化発展してきた。
生き延びようとする欲望が強すぎて、あそこは危険だから近づかないとか、あそこは住みにくそうだから移住してゆかなない、というような気持ちを持ってしまったら、人類拡散は起きなかった。
たとえば今、ヨーロッパでは、移民のイスラム教徒が公の場で顔を隠すような「ブルカ」という衣装をまとうことを禁止しようとする動きがある。ニースの海岸などでは、イスラム教徒の女性が体中を隠すような「ブルキニ」という水着をまとって闊歩しているのだとか。
日本人の常識からしたら、それはとても失礼な態度であり、移民として受け入れてもらった身でよくそんな厚かましい態度がとれるものだ、と思う。日本人なら「郷に入らば郷に従う」で、裸の心のまま相手の胸の中に飛び込んでゆく。まあ明治の留学生は、そうやってちょんまげも刀も着物も捨てて、つまり自国の文化を捨てた裸一貫の心で飛び込んでいったから、ヨーロッパ人から受け入れられ、その先進文明をいち早く吸収してゆくことができた。日本人の心は可塑性を持っているが、イスラム教徒=中東人にはそれがない。そのとき日本人は、ひとつのips細胞だった。
「ブルカ」や「ブルキニ」を手放さないイスラム移民は、手放せない強迫観念があるのだろうが、いくら何でも狷介すぎると思われても仕方がない。金は欲しいけど、ヨーロッパの文明や文化にはなんの興味もない、といっているのと同じだ。ヨーロッパ人からしたら、自分の家の座敷を土足で踏み荒らされているような気分になってしまう。

日本人の心の可塑性、無原則の生き方、日本人には「明日のことはわからない」という気分で流れさすらってゆくという風土の伝統があるが、中東人=イスラム教徒は、いったんつくられてしまった原理原則はもう死ぬまで変えられない、という風土の歴史を生きてきた。砂漠では原理原則が揺らいだら生きられないということもあるのだろうが、それ以前に、原理原則を共有しながらどんどん排他的になってゆくことによって集団の結束を高める、という伝統がある。そうやってその地に人類最初の文明国家が生まれてきた。彼らは、そういう国家制度や宗教制度を人類最初に持った人々だった。人類拡散の通り道であるそこでは、どんどん人が集まってきて、原理原則を共有しない邪魔な人間はどんどんヨーロッパやアジアに追いやった。そうやってイスラム的な原理原則がどんどん強化されていった。
とすればヨーロッパは、原理原則を持たない人間どうしが集まってきて新しい原理原則をつくりながらそこに国家をつくり上げていった、ということになる。というか、もともとみずからの生まれ育った土地の原理原則を捨ててそこに集まってきた人々だったわけで、ひとまず自分の原理原則を捨ててときめき合い連携してゆくという文化を育ててきた。ヨーロッパのオーケストラや合唱は、まさしくそういう「自分を捨てて全体の調和に献身してゆく」という関係の上に成り立っている。そういう文化の伝統を持っている人々がイスラム移民の「ブルカ」や「ブルキニ」を手放さないという唯我独尊の依怙地な態度に苛立つのはもうしょうがないことで、「宗教の自由」以前の「人としてのたしなみ」の問題だ。
人間性の自然の問題だ、と言い換えてもよい。
生きものの身体や生態の進化だろうと人類の文化の発展だろうと、原理原則なんか捨てた出たとこ勝負で起こってきたのだ。そういう裸一貫の心の「即興性」を持たなければ、人と人のときめき合う関係なんかつくれない。<「ブルキニ」を禁止されたムスリムたちは、正当な抵抗に立ち上がるべきだ>という評論家がいるが、そんな自意識過剰の自己主張ばかりぶつけ合っていたら、世も末だ。たとえそれが「正当」であっても、日本人の美意識の伝統はそれを慎む。「正義」や「正当」であればどんどん主張するべきだなどといっていたら、人と人の心にしみる関係なんか築けない。そういうことを飲み込んでいたわり合い察し合ってゆく「水のように淡い関係」こそ、この国の歴史風土であろうと僕は思う。
正義や正当性であれば主張してもよい、主張するべきだ、なんて、戦後民主主義がもたらした悪弊にすぎない。
正義や正当性が、何ほどのものか。上記の評論家は戦後民主主義を否定する団塊世代の右翼だが、しょせんは彼もまた戦後民主主義の申し子にすぎない。
生きてあることなんか無意味で無価値だ。この国ではひとまずその「嘆き」を共有しながら他愛なくときめき合ってゆく歴史を歩んできた。「無常」ということ、あるいは「あはれ・はかなし」の美意識。人生はむなしい、という嘆きがあるからこそ、「今ここ」の「即興性=ときめき」が豊かに花開く。そういうことを、この評論家もまるでわかっていない。正義や正当性を主張する自意識ばかり強くて、きっと世界や他者に対する警戒心や緊張が強すぎるんだろうね。団塊世代は、そうやって理論武装することばかりに熱心で、無防備な裸一貫で勝負してゆくということができない。それは、人間としても生きものとしても、とても不自然なことだ。彼らには「ひりひりした皮膚感覚」がない。