センチメンタリズムは間違っているか・神道と天皇(122)

生きることは「喪失感」を抱きすくめてゆくことだ。それをここでは「魂の純潔に対する遠い憧れ」といっている。それこそがじつは人としてのこの生を活性化させるのであり、それができなければ人と人がときめき合う社会など実現しないし、人と人がおたがいさまで助け合う民主主義の未来もない。
それは、人間性の原点なのだ。
たとえば伊勢白山道は「生きてあることに感謝する」というようなことをさかんに説いているが、それは人間性の真実が何もわかっていない極めて凡庸で通俗的な思考でしかない。
人は、生きてあることに執着しながら心を病んでゆく。その欲望を賛美すれば人気者になれるのだろうが、いったい誰が伊勢白山道に救われているといえるのだろう。心を病んだまま上手に生きてゆく方法を彼が教えてくれる、ということだろうか。宗教なんて、おおよそそのような装置なのだ。
人が生きてあることに正当性など何もないのであり、人類滅亡が不幸なことだとはいえない。というか、そういう「不幸=喪失感」を抱きすくめてゆくところにこそ人間性の真実がある。
人の心は、根源において、自分が生きてあることを確認しているのではなく、世界の輝きにときめいているのだ。この生を「喪失する=忘れる」ことによってこの生が活性化する。命のはたらきも心のはたらきも、もともとそのようにできている。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは猿よりも弱い猿になることだったのであり、「喪失感」を抱きすくめながら立ち上がっていったのだ。
そして地球の隅々まで拡散していったことだって、その新しい土地はつねにより住みにくく生きられない土地だったのであり、それでもそこでは人と人がより豊かにときめき合う関係が生まれ、おたがいさまで助け合いながら懸命に住み着いていったのだ。
人は、避けがたく「喪失感を抱きすくめている存在」になってしまうし、その性向によって進化発展してきた。欲しいものを獲得して満足してしまったら、進化発展などないではないか。進化発展を欲しがったのではない。それは、たんなる「結果」にすぎない。

人は根源において「喪失」を嘆いている存在であり、その嘆きを知っているからこそ、嘆いているものを助けようとする。人間の赤ん坊はどうしてあんなにもピーピーギャーギャー泣いてばかりいるのか。嘆いているものを助けようとするその生態が、赤ん坊をそういう存在になるように進化させていったのだろう。また、ピーピーギャーギャー泣くから、助けずにいられなくさせられるし、その結果として、赤ん坊を未熟児として生み、未熟児でも育てられる存在になっていった。
三つ子の魂百までというが、誰の中にも赤ん坊であったときのピーピーギャーギャー泣いてばかりいた「喪失感=嘆き」はおそらく無意識の中に消すことのできない記憶として残っていて、それが人という存在の基本的なかたちになっているのではないだろうか。
女が妊娠し子を産むことは、生物学的には発情が停止することだし、体型が変化し崩れて社会的な女としての価値を失うことだし、昔なら命を失うリスクをともなう行為だった。そのように女は、幾重もの「喪失感」を抱きすくめながら子を産み育てるということをしている。
喪失感を抱きすくめることは女の本能であり、人類の本能でもある。それをしなければ、二本の足で立ち上がることも地球の隅々まで拡散してゆくことも起きなかったのだ。
だからわれわれは、あまり安易に「平和が欲しい」だの「幸せが欲しい」だの「生き延びたい」などといっているわけにいかない。そんなものをぜんぶ振り捨てて何かに引き寄せられ熱中していったりするのが人間なのだ。
女が妊娠・出産することはひとつの冒険であり、冒険とは命の保証を喪失している状態に身を置く行為であり、それはつまり、自己の存在の正当性の喪失を抱きすくめてゆく行為でもある。
「もう死んでもいい」ということ「死にたい」ということは違う。人は、自己の存在の正当性に執着し全うしようとして自殺することもあれば、自己の存在の正当性に対する「喪失感」を抱きすくめながらみずから死んでゆくこともある。前者は宗教的な自殺であり、後者は非宗教的なそれであるといえる。
ともあれ、人間であること、この世に生まれ出てきてしまったことは、なんとくるおしくなやましいことであることか。「すべては赦されている」のだ。

人と人は、喪失感を抱きすくめてゆく体験を共有することによって、より豊かにときめき合い、おたがいさまで助け合う関係になってゆく。この体験なしに民主主義の未来など望むべくもないに違いない。
助け合うとは、ともに助けてもらわないと生きられない存在になることだ。人が人であることの自然・本質は助けてもらわない生きられない存在であることにあり、すなわちそれは「喪失感を抱きすくめている存在である」ということだ。どれほど文明が発達して「万物の霊長」などと呼ばれる存在になろうとも、自然・本質においてそういうそういう存在だからこそ、豊かにときめき合いもするし、おたがいさまで助け合いもするのだ。
そりゃあこの社会の制度性はたえず「平和が欲しい」とか「幸せが欲しい」とか「生き延びたい」とかという「欲望」を刺激しながら社会が闘争原理や競争原理で動いてゆくようにできているわけだが、それでも人は、その存在の根源において避けがたく喪失感を抱きすくめてゆくような「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っている。
われわれのこの生この存在はけがれている。しかしそう自覚するほかない存在だからこそ、他者の中に「魂の純潔」を感じてときめいたり感動したりもしている。まあ、究極の「他者」は「死者」であり、原始人は死者の中に「魂の純潔」を感じて「埋葬」という行為をはじめた。
人の心の中には、歴史の無意識としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」息づいている。
センチだろうときれいごとだろうと、他者の中に「純潔」を感じて心を動かされる体験は誰もが多かれ少なかれしている。
そういう「純潔」に対するうしろめたさや憧れは、誰の中にもあるだろう。
性善説性悪説かというような問題ではない。人は善なる存在でも清らかな存在でもない、清らかなものに対する「遠い憧れ」がある、といいたいのだ。
この社会は競争原理や闘争原理で動いているし、人の心の底には「邪悪なもの」が潜んでいるとよくいわれたりするが、それでも「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいていないともいえないだろうし、もしかしたらそれは「邪悪なもの」のもっと奥底に潜んでいるものかもしれない。
この世の多くの人が自分の心の底の「邪悪なもの」を意識しているとしても、この広い世の中にはそんなものとは無縁にひたすら「魂の純潔に対する遠い憧れ」を生きている人はいるし、誰だって「魂の純潔」に心を動かされる体験をしている。
まあ、邪悪な人間にかぎって純潔ぶる、ということがあるではないか。彼にだって「遠い憧れ」があるから純潔ぶるのだし、純潔を感じさせる人の方が魅力的な存在として認められる世の中なのだ。彼は、自分の中の「魂の純潔に対する遠い憧れ」を封殺して生きているし、封殺していることをちゃんと知っている。

あどけない赤ん坊は、誰だってかわいいと思うだろう。それを、「魂の純潔に対する遠い憧れ」という。
かわいいと思っているかどうか知らないが、ほかの動物だって懸命に赤ん坊を育てようとするではないか。その「本能」を、「魂の純潔に対する遠い憧れ」と言い換えることもできる。
鳥や魚だって、卵を育てる。生きものは、生きられない弱いものを生かそうとする。それはまあ、猿が毛づくろいするようなことだ。いや、息苦しくなれば息をするのと同じことだ。生きものは目の前の異変を消去しようとする。卵を温めることは、卵を隠そうとする反射的な行動にすぎない。それだけのことさ。生きものは、息をするように子供を育てる。種の存続のためじゃない。種の存続は、たんなる「結果」であって、「目的」ではない。それは、生の「システム」の問題であり、この世界に対する「反応」の問題であって、「目的」がどうのというようなことではない。
生きることは、「消去する」いとなみなのだ。
生きようとする「目的」を「消去」しないと生きられない。息をするのは、生き延びたいからではなく、「今ここ」の息苦しさを何とかしたいだけだ。「今ここ」とのかかわりの切実さと純粋さと豊かさが、生きものを生かしている。それは「今ここ」を「消去」することであり、「魂の純潔に対する遠い憧れ」に殉じる行為でもある。この場合の「遠い」は、「未来」を意味しているのではない。「今ここ」の向こうの「異次元」の世界であり、そこに向かって「消えてゆく」ことが、生きるいとなみになっている。
この「消去する」ということの哲学的な意味や生物学的な意味や文化的な意味については、考えれば考えるほど複雑でしかも真実味が確かになってきて、ほんとにもう考えはじめるときりがない。

現実的な問題に戻ろう。
現在の世界は、「闘争原理」とか「競争原理」とか「未来に向かう欲望」等を煽って世界を支配しているものたちと、それらを振り切って「かわいい」の文化に熱中してゆくムーブメントが対立している(戦っている、と言い換えてもよい)時代に入ってきている。というかこれはもう、文明発祥以来の人類世界に起きている相克だ、ともいえる。
そして、「かわいい」の文化が負けたら、人類史の通奏低音というか伝統として脈々と引き継がれてきた人間性の真実が滅びる。
「かわいい」の文化は、人間性の自然=普遍=真実をはらんでいる。たんなるポップカルチャーというだけではすまない。
異形のファッションで一世を風靡した90年代の「やまんば・ギャル」たちは、「社会に認知されたい」という「未来に向かう欲望」を振り切って、「今ここ」の「非日常=異次元の世界」に超出していった。そうしてそれが、現在の初音ミクというバーチャル・アイドルの登場へと引き継がれている。
もちろん現在の政治・経済の世界は未来に向かう欲望としての闘争原理や競争原理で動いているわけだが、「魂の純潔に対する遠い憧れ」とともに「かわいい」の文化も世界中に広がってきている。まあ残念なことにそのムーブメントは政治・経済を支配するものたちの世界には及んでいないが、その「魂に対する純潔に対する遠い憧れ」が民衆の世界に定着して民衆が支配者たちに洗脳されなくなってくれば、支配層のメンバーも意識も変わってくるに違いない。
現在は階級社会化しているといわれているが、その構造が変わる必要はない。支配者層の意識が変わればいいだけだろう。
民主主義や資本主義がいけないというのではなく、人々の意識が汚れてしまっているからいけないのだろう。
たとえば、世界中の憲法に「戦争のない世界を夢見る権利」が明記されたら、世界のさまもずいぶん変わってくるに違いない。もちろんそんな世界が実現することなど何千年も先のことかもしれないし、永久に実現しないかもしれない。しかしそれでもそれが人類の理想であるのはたしかなことで、人は心の底に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いているから、どうしてもそういう世界を夢見てしまう。
この国に憲法第九条が存在することは、人類の希望なのだ。そして今、それを持ちこたえることができるかどうかの岐路にさしかかっている。
それほどに人類の世界はすさみ果て、世知辛くなっているということだろうか。どの国も、もうさんざん悪いことをしてきたではないか。今さら正義ぶることもないだろう。文明の歴史は、血塗られた歴史なのだ。平和になった今だって、血も涙もないような経済活動が大手を振って横行している。文明人なんて、どうしようもなく穢れた存在なのだ。そのことをそろそろもう自覚してもいいだろう。人の心の底に「魂の純潔に対する遠い憧れ」が息づいていることが信じられるなら、われわれ文明人がいかに穢れた存在であるかということを自覚するほかないではないか。
誰もが競争原理や闘争原理で思考し行動している社会なら、とうぜん落伍者は増えてゆく。そうして最終的には、落伍者が圧倒的多数になってしまうわけで、それが現在のアメリカだろうし、それでもなおも「アメリカン・ドリーム」で落伍者に欲望を煽り立てているのがアメリカにちがいない。競争に参加しないと落伍者になるほかないし、参加すればチャンスはあるかもしれない……そうやってたえず「競争に参加せよ」と煽り立てているのがアメリカ社会で、今やその矛盾が露呈して惨憺たる状況になりつつあるし、現在のこの国もその後追いをしているのかもしれない。