喪失感を抱きすくめる・天皇と神道(121)

大人と子供の中心に「若者」がいて、そこで「かわいい」の文化が生成している。若者は、社会の運営を先導しているのでも庇護されているのでもない浮遊した寄る辺ない存在であり、そこから「かわいい」の文化が生まれてきた。彼らの精神世界は「かわいい」か否かがすべてで、正義・正論で世界や他者を裁くことをしない。それはつまり、人と人の関係はときめきときめかれることがすべてで、この生のいとなみの自然というか救済は、自分という存在(=アイデンティティ)を確認し止揚してゆくことではなく、それを消去して「かわいい=非存在=異次元」の世界に超出してゆくことにある、という思想である。
まあ、この世の傷ついた心はそうやって救われるのであって、自己の存在の正当性を確認することによってではないし、確認しようとしてさらに病んでゆく。まあ、確認することができないものが救われる体験として「かわいい」の文化が生まれてきたのだ。
この世の中の嫌われものや心を病んだものたちは、「自分という存在」の正当性に執着するあまり、世界や他者の輝きにときめく心を失って憎しみばかり募らせたりしながらますます泥沼にはまり込んでゆく。憎しみとは、自分を正当化しようとする心のことで、国家だってそうやって病んでゆき、戦争になったりしている。
世界の民主主義が疲弊して、人も社会も傷つき病んでゆく時代になったから、「かわいい」の文化が生まれてきた。それは、人間性の自然あるいは原始性としての「他愛ないときめき」すなわち「魂の純潔に対する遠い憧れ」を取り戻そうとするムーブメントである。

戦後のこの国は、右肩上がりの高度経済成長の歴史を歩んできた。90年代にバブル経済がはじけることによって、はじめて挫折を体験した。ここから、人も社会も病みはじめた。それは、人も社会もアイデンティティの不安に陥った時代だったということかもしれない。
そうして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のアイデンティティを取り戻そうとして「右翼」が台頭してきた。バブルの崩壊が、右翼の台頭を生み出した。
あまりにも野放図に浮かれ騒いだ時代だったからこそその反動がやってきた、というか、いまだに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といって浮かれていたいものたちが後を絶たないわけだが、「かわいいの文化」は、そういう幻想を振り捨てたところから生まれてきた。
敗戦のときだって、「神国日本」のスローガンに狂信的に邁進していたことの反動として深い喪失感に浸されていった。そしてこのときはもう、アイデンティティを取り戻すことを断念するほかない状況だったわけで、人々はその寄る辺ない感慨を共有しながら戦後復興に歩みはじめた。それはきっと人として自然で健康な感慨だったから戦後復興のダイナミズムになっていったのであり、その体験を反芻するように「かわいい」の文化が生まれてきたのだ。
日本列島には、「喪失感」を抱きすくめてゆく精神風土の伝統があり、そこから「あはれ・はかなし」や「わび・さび」や「無常」の世界観や生命観や美意識が生まれ育ってきた。
とにもかくにも誰もが貧しかった戦後の十数年はおたがいさまで助け合うということが自然に起きていたわけで、今どきの「かわいい」の文化」だって、そうやって人と人が他愛なくときめき合ってゆく関係性のもとで生成している。。
人も社会も、アイデンティティすなわち自己の存在の正当性を得られないときに、それでもなおそれを欲しがって病んでゆく。「自己のアイデンティティを確立する」という病んだ近代精神、それが明治から終戦までの時代だったわけで、終戦後はもう、日本列島の伝統に従って思い切り喪失感を抱きすくめていったのであり、しかしそれが戦後復興のダイナミズムになっていった。
そしてバブル崩壊後は、「日本人である」というアイデンティティに執着してゆく戦前への回帰と、喪失感を体ごと抱きすくめてゆく終戦直後への回帰の両極のムーブメントを生み出しながら流れてきた。
とにかくバブル崩壊後の、むやみにアイデンティティを欲しがるというかたちで社会が病みはじめた時代に、ガングロ・ファッションのギャルによる「かわいい」の文化の萌芽が起きてきたのであり、彼女らはひどい時代のさらにこの社会の落ちこぼれだったわけで、彼女らにはもう、自己の存在の正当性を確認することが許されていなかった。しかしだからこそそういう寄る辺ない存在として、「他愛ないときめき」が豊かに深く体験できる場を見出してゆくことができた。そこにしか彼女らの救済の場はなかったし、それは、心が「非日常=異次元」の世界に超出してゆく体験にあった。そうやって「異形」の「ガングロ=ヤマンバ」ファッションが生まれ、ここから「かわいい」の文化が進化発展していった。

そしてこれは、原初の人類が二本の足で立ち上がったときとじつは同じ体験なのだ。
猿が二本の足で立ち上がることは、きわめて不安定な姿勢になって猿特有の俊敏さを失うことであり、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうことで、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。それでも人類は、あえて立ち上がった。
最初から手に持った棒を上手に操作して俊敏に動きながら敵と戦った、なんてあるはずがないではないか。そのとき他の猿に勝ってテリトリーから追い出したのではなく、テリトリーから追い出されたのだし、その勢いで地球の隅々まで拡散していった。
そのとき人類は猿よりも弱い猿になって猿としてのアイデンティティを失い、その結果として猿よりももっと深く豊かに「他愛ないときめき」を体験しながら一年中発情している存在になって圧倒的な繁殖力を獲得していった。猿よりも弱い猿であった人類は、その繁殖力よって生き残ってきたのであり、人類の身体や知能が進化発展しはじめたのは、人類700万年の歴史の3〜400万年前ころからのことだった。
人類は、猿よりも弱い猿になることと引き換えに猿よりもっと深く豊かにときめき合っている集団をつくっていたわけで、それが人類の集団性の基礎になり、おそらく究極のかたちにもなっている。
原初の人類は、猿よりも弱い猿になるという「喪失感」を抱きすくめながら二本の足で多違っていった。
そして90年代に登場してきた「ヤマンバ・ギャル」たちも、バブル崩壊後の右傾化してむやみにアイデンティティを欲しがる社会の動きから落ちこぼれながら、その「喪失感」を抱きすくめながら「ガングロ・ファッション」を生み出していった。

理想論をいえば、人類の自然で健康な集団においては、人と人が他愛なくときめき合っている。いったい誰が、そういう集団をつくれなくさせているのか。つくれなければ、人類の民主主義に未来はない。いや、つくれなくても、そういう集団を夢見ることを「民主主義」というのではないだろうか。
人は夢見る存在であり、夢見る権利がある。
「かわいい」の文化は民主主義の未来を背負って現在の世界の歴史に登場してきた、といえば、大げさすぎると笑われるのだろうか。
「かわいい」の文化をただの風俗ポップカルチャーとして終わらせるべきではない、と僕には思える。よい社会につくるためではない、人間性の真実を問いただし、人間性の真実を救出したいのだ。
「かわいい」の文化は、意図するにせよしないにせよ、現在の世界を支配する偏執狂の政治家や資本家との戦いの拠点になっているのであり、人間性の自然や本質は「闘争原理」とか「競争原理」とか「欲望原理」では語れない、という問題なのだ。
しかしその「戦い」は、反抗し反逆することではない。反抗し反逆する能力を失いながらそういうところから超出していった地平に「かわいい」の文化が立ちあらわれる。たとえこの社会がそうした世俗的な原理で動いているとしても、人の心は避けがたくそこから超出してゆくようにできている。その「他愛ないときめき」という「非日常性=異次元性」にこそ人間性の自然や本質や尊厳がある。

まあ「救済」などというと、一般的には「病苦」とか「貧困」とか「人間関係」とか「社会的立場」とか「アイデンティティ」とか、さまざまな問題として語られるが、それらの問題をぜんぶ取り払っても、人はもう生きてあることそれ自体においていたたまれなさを抱えてしまっている存在であり、心は避けがたくそこから超出していってしまう。
超出できなくて心を病むし、超出できなくてこの社会がいろいろややこしいことになってしまう。
具体的なことをいえば、「かわいい」の文化は、誰もうらやまない、誰もさげすまない、誰も裁かない、という地平に立ったところから生まれてくるのであり、それができなければ民主主義の未来はない。
といっても、何もかも忘れて他愛なくときめいてゆけばいいだけのことで、そうやってこの世界の輝きを見出し、体ごと反応してゆくところから「かわいい」の文化が生まれてくる。
そして「輝き」とは「非存在」であるということ、「非存在=喪失感」を抱きすくめてゆく感性を持っていないものに「かわいい」の文化はわからないし、じつは人間なら誰だってその感性とともに生きている。
初音ミクの立体映像はたんなる「非存在の光の輝き」であり、人はそのことの奇跡に驚きときめいている。それは、人間性の自然に避けがたくまとわりついている「喪失感」から生まれてきた声であり映像なのだ。
息をすることは、「非存在」を抱きすくめてゆく行為だ。それだけのことだし、そのことに目覚めたものが「かわいい」の文化と出会う。
今どきのおバカなギャルは、そのへんのわけ知り顔の正義ぶった大人たちよりもずっと深く人間性の真実に目覚めている。
女は喪失感を抱きすくめてゆく本能を持っている。人間性の真実=尊厳はたぶんそこにこそあるわけで、おバカなギャルは無意識のうちにそれをしている。