世界は輝いているか・神道と天皇(120)

「クレーマー」とか「ネトウヨ」なんて精神を病んでいる人たちのことだとみんなが思っているのに、そういう人たちが増殖し続けているということは、じつはみんながそういう傾向の心の動きを持っている社会の構造になってしまっているということを意味するのかもしれない。
彼らは、醜いことをしているという自覚がまるでない。自分は正義の味方のつもりでいる。正義の味方なら何もしてもいいと思っている。正義・正論が大事の世の中になって、美しいか醜いかということは二の次になってしまっているからだろう。カッコいいかカッコ悪いかというようなことは本気で判断しない。とにかく自己の正当性を獲得できればそれでいいのだ。自閉症じゃあるまいし、どうしてそんなことが必要なのかと思うが、まあ、世の中がどんどん自閉的になっていっている。
彼らには、世界は輝いているか、という視線がまるでない。自分は正しいかどうかということなど忘れて、ただ他愛なく世界の輝きに体ごと反応してゆけばいいだけではないか。
まったく、どうしようもない世の中だ。
憲法第九条に「クレーム」をつけているこの国の総理大臣なんかまさに「クレーマー」そのもので、彼は「ネトウヨ」の親玉として「ネトウヨ」たちの圧倒的な支持を得ている。
「安倍マンセー」だってさ。彼らにとって、世界は輝いていない。人を憎みさげすみながら自分の正当性を確認しようとすることばかり躍起になっている。どうしてそんなことに頑張らねばならないのかと思うが、おそらくこの社会がそういう病んだ人たちを生み出してしまう構造になっているのだろう。
「クレーマー」になってしまった「ネトウヨ」たちは、美しいか否かということに無批判・無反省に思考停止しながら既成の権威にすがりついてゆく。彼らは、「自分は日本人である」というアイデンティティに無批判・無反省にしがみついて、じつは「日本人とは何か」ということを何も考えていない。彼らほど日本人であることに執着しているものたちもいないし、彼らほど日本人のことがわかっていないものたちもいない。
日本人の心の仕組みとか、日本列島の社会の仕組みの伝統というのは、彼らが考えるほどかんたんなことではない。われわれは、日本人であることに執着したり、日本という国を無条件に賛美したりして歴史を歩んできたのではない。明治以降の国家神道や帝国憲法教育勅語等によってそう洗脳されてきたにすぎない。日本人はたしかに洗脳されやすい民族ではあるが、それが国によるたんなるまやかしであったことは、戦後はもう祭日に家の軒先に国旗を掲げる習慣などほとんどなくなってしまったことが証明している。そんなことは、国家に強制されないかぎり、したいとも思わない。
古代以来の日本列島の民衆の歴史の無意識においては、国家などという単位はよくわからないのだ。

明治以前、大和朝廷発祥以後の歴史において、民衆は、「日本」とか「日本人」というアイデンティティなど意識しないで生きてきた。われわれ現代人だって、国家が存在することはひとまず先験的な事実として認識しているが、その事実にすがって自分が自分であることを確かめながら生きているわけではない。日本人だからこそ、自分が自分であることの根拠など持たない裸一貫の存在としての「寄る辺ない思い」があるわけで、それを共有しながら他愛なくときめき合ってゆくのが、もともとのこの国における人と人の関係や集団性の作法なのだ。
この国の権力社会なんていわば特殊部落であり、民衆は、そんな社会から下ろしてくる「法」という正義・正論などとは無縁の、たとえば村の「寄り合い」という民衆自身の無原則の世界観の上に立ったもうひとつの自治調停組織によって、人と人の関係や集団と集団の関係をやりくりして歴史を歩んできた。
しかし現在の民主主義というかポピュリズムの社会においては、権力社会の自浄システムとしての「たしなみ」も、民衆のがわの権力社会を当てにしない心意気も薄れてきてしまっている。
ネトウヨによる「安倍マンセー」の空騒ぎなんてまったく目障りで、民衆が民衆自身で社会をやりくりしようとする心意気を失ったら、日本列島の伝統なんか成り立たない。
国家のアイデンティティも日本人であることのアイデンティティもどうでもいいのが、日本列島の民衆の伝統なのだ。そんなアイデンティティなど権力者にまかせておけばいいのだ。そんなアイデンティティなど持たないのが民衆のアイデンティティであり「心意気」なのだ。
権力社会と民衆社会がもたれ合っているなんて、西洋の契約社会でもあるまいし、どうして両者がたがいに「たしなみ」と「心意気」をもって分立しながら共存してゆけないのだろう。つまり「寛容」ということ、それが日本的な「リベラル」の伝統なのだ。
「寛容」とは、正義・正論で相手を裁かないこと。したがってそこには「クレーマー」も「ネトウヨ」も存在しない。「クレーマー」も「ネトウヨ」も生まれてこないのが、日本列島の伝統なのだ。
今どきの「右翼」も「クレーマー」も「ネトウヨ」も、存在それ自体において日本列島の伝統を否定している。この国には、日本人であることのアイデンティティに執着してゆくような伝統はない。

過去も未来もない「無常」ということ、「今ここ」のこの瞬間に消えてゆきながら「非存在=異次元」の世界に超出してゆくことこそ、日本列島の住民の伝統的な生きる作法であり、死んでゆく作法なのだ。そこにおいては、自分など寄る辺ないはかなく淡い存在であり、同時に「永遠の宇宙の歴史に包まれている」という感慨でもある。
人は普遍的に「消えてゆくこと」すなわち「非存在」を抱きしめてしまう存在であり、それがまあ女のオルガスムスををはじめとして「快楽」というものの本質になっているわけで、「非存在」の世界に「日本」も「日本人」もないではないか。
「非存在」の世界に対する切実な感慨は人類普遍のものであり、そこから「初音ミク」が生まれてきたのだし、だからわれわれは、自分という存在に執着する「右翼」や「クレーマー」や「ネトウヨ」に対して、なんだかうんざりしてしまう。彼らがどれほど正義や正論を振りかざしても、どうしようもなくうんざりしてしまう。
正義や正論を振りかざしても、人々が愛し合いときめき合っている社会など生まれてこない。初音ミクに熱中しているものたちは、正義や正論など振り払って「非存在」を抱きすくめているのであり、そこでこそ人と人が愛し合いときめき合う社会が生まれてくるのだろう。
嫌われ者になってまで正義や正論を振りかざしてどうしようというのかと思うし、嫌われ者だから正義や正論をアイデンティティとしてほしがるのだろう。現代社会は、「アイデンティティを欲しがる」という病理が蔓延しているらしい。
アイデンティティなどとは無縁のよるべない存在として生きるためには、人とときめき合う関係を持っていないと困難なことだし、日本列島にはもともとそうやって集団をいとなんでゆこうとする社会の仕組みがあった。だから、「かわいい」の文化や「初音ミク」を生み出すことができた。

村の寄り合いには、人を裁く正義・正論という規範はない。みんなで寄り集まり、飲んだり食ったりしゃべったりしながら、みんながいがみ合わないですむなんとなくのかたちにまとめてゆく。裁くことが目的ではない。みんなで仲良くやってゆくために集まってきたのだ。
村の繁栄とは、第一義的にはみんなで仲良くやってゆくことであって、経済が豊かになることではない。言い換えれば、みんなが仲良くなれるぶんだけ豊かになればよい、というのが日本列島の民衆の伝統的な集団運営の作法だった。
日本人は国家に対して従順だといわれているが、従順でありつつ、民衆自身の社会運営のシステムも持ちながら歴史を歩んできた。国家にたよらない自分たちの社会運営のシステムを持っているからこそ、国家の専制・暴走を許してしまうことにもなった。つまり心理的には国家との契約関係がないのであり、国家を監視する視線を持っていない、ということだ。
それに明治維新は、江戸幕府が倒れて近代国家に変わってゆくという歴史の大きな転換点であったわけで、民衆の心にも政府に対して従順であらねばならないという思い込みがあった。
日本列島の民衆は、明治時代になってはじめて「国家」という幻想の集団というか権力社会との関係を意識した。それまでの江戸幕府に支配されているという関係のことは藩の武士にまかせていたし、民衆自身の自治システムを持っていたから、その実感はなかった。つまり、「国家に支配される」ということに対する免疫がなかった。だから、あっさりと洗脳されてゆき、それが太平洋戦争の敗戦の日まで続いた。
逆にいえば、国家と民衆との心理的な契約関係のない社会だから、国家は執拗に民衆を洗脳しようとするし、民衆の動向をとても気にする。
アメリカへの宣戦布告は民衆の世論が決意させたともいわれている。といってもそれは、国家が民衆を洗脳した結果ではあるのだが。
戦争前夜のころの天皇は、「民衆がすでに戦争をする気になってしまっているのは困ったものだ」と侍従長に漏らしたのだとか。
とにかく、明治維新以降の日本列島の民衆は、国家権力から下ろされてくる国家神道にすっかり洗脳されてしまった。しかしそれが日本列島1万3千年の歴史の伝統ではなかったことは、戦後のすっかり憑き物が落ちたような歴史の流れが証明しているわけで、現在の日本人の多くは今なお神道にシンパシーを抱いているものの、それが国家と結びついた宗教だとは思っていない。そしてそういう状況から「かわいい」の文化が登場してきた。
今どきの左翼の主張もなんだか浅はかだと思うが、右翼たちの拠点である日本会議だってずいぶん気味わるい組織だと多くの民衆が思っている。
だから「ど真ん中」というニュアンスの「保守」という言葉がもてはやされるようになってきているが、じつはさらにその中心で「かわいい」の文化が生成している。