ガングロ・ファッションという革命・神道と天皇(119)

大げさだといわれそうだが、まあ初音ミクの登場は直立二足歩行の開始以来の人類史の帰結であり、日本列島の歴史の帰結であり、さらにいえば戦後70年の歴史の帰結であり、もっと短く区切れば、高度経済成長の歴史の反動としてそうした「かわいい」の文化がさかんになってきたともいえる。つまり、バブル景気の浮かれ騒ぎの「反動」というのか、「贖罪」というのか……。
だとすれば、最初に登場した「かわいい」の文化は、90年代後半に一世を風靡したコギャルたちの「ガングロ・ファッション」だ、ということになる。
それはまさしく、「非日常=異次元」の世界に超出してゆくファッションだった。
ウィキペディアには、次のように記されている。

「ガングロ・ファッション」には、濃い褐色の顔に髪はオレンジからブロンド、「ハイ・ブリーチ」として知られるシルバー・グレーに染める組み合わせが用いられる。黒いインクをアイライナーとして、白のコンシーラーを口紅やアイシャドーとして用いる。つけまつげやメイク用のラインストーン、パールパウダーなどがしばしばこれに加わる。厚底靴を履き、鮮やかな色の服を着れば、完璧なガングロ・ルックとなる。また典型的なガングロ・ファッションとして、ほかに絞り染めのサロンや、ミニスカート、顔のシール、ネックレスや指輪、大量のブレスレットなどがある。
ガングロは若い女性をグループ分けするのに用いられるスラングの一つで、通常は二十歳前後の若い女性を指す「ギャル(gal)」というサブカルチャーの概念の中に分類される。尚、日本文化の研究者の一部ではガングロが伝統的な日本社会に対する復讐の一形態と考えている。その研究者達の主張では、日本文化に根ざした無視や社会的な孤立、日本社会自体の制約といったものに起因する憤慨の現れであり、彼女たちの個性や自己表現によって学校の基準や規則に対して公然と反抗しようという試みだという。


良くも悪くも、まさに画期的なファッション・ムーブメントだった。それが「かわいい」かどうかということは異論もあろうが、とにかく現在の「かわいい」のファッションはすべて、このバリエーションか発展型になっている。
まあ、「やまんばファッション」などとも呼ばれ、既成の「美の規範」から外れた「異形」というような外見だったし、おおむね落ちこぼれの女子たちに支持されていたから、一部の研究者から「反抗」だとか「復讐」というようにとらえられていたが、彼女ら自身にそんな意識はまるでなかったし、それが現在の「かわいい」のファッションに昇華されているということは、今になってようやくそれが新しい「美」のムーブメントだったことが証明された、ということを意味している。
社会の基準から逸脱してゆくファッション・仮装、まあ、「コスプレ・ファッション」のさきがけだった、ともいえる。
「キモカワ」というのだろうか、彼女ら自身は素直に他愛なくそれを「かわいい」ファッションだと思っていたし、じつは日本列島の伝統にかなっているものでもあった。
たとえば中世には「歌舞伎」という異形の芸能が生まれてきたのだし、安土桃山時代には「ひょうけ(もの)」という異端の美意識が流行した。「ひょうきん」の語源だろうか。そして「キモカワ」というなら、縄文時代の「土偶」がまさにそういうコンセプトだったし、日本列島には「異端者」や「無用者」によってリードされる「非日常=異次元」の文化の伝統がある。
まあこれは、日本列島では政治や宗教とは無縁のもうひとつのムーブメントがつねに起きていたということであり、そういう歴史の流れから現在のこの国に「かわいい」の文化が登場し、世界の市場での固有性を保って迎えられている。
「ガングロ」とか「やまんば」といっても、たまたま起きてきたできそこないの一過性のムーブメントだったのではない。彼女らこそ、この国の伝統ともっとも深く通底しているものたちだったのであり、ある意味ではきわめて高度な美意識の表現だったのだ。
ほんとにすごいと思う。彼女らこそ現在まで続く「かわいい」の文化の先駆者だったのであり、そのムーブメントは、伝統的で、しかも革命的だった。彼女らは、ただもう他愛なくそのファッションにときめき熱中していただけだったが、それでいて日本人の「進取の気性」の伝統をもっとも深く身体化しているものたちだった。

まあ、彼女らにそういう自覚はなくても、その浮世離れした美意識は、無意識的な「反抗」であり「復讐」だったともいえるのかもしれない。古代の仏教伝来に対して神道が生まれてきたことだってまあそういうムーブメントだったわけだし、日本列島の歴史においては、つねに「異端=非日常=異次元」の文化が生まれてきた。
そしてそれは、日本列島固有の地域性であると同時に、人間性の自然・本質の問題でもある。この生のいとなみや意識のはたらきの自然・本質は、「この生=存在=日常」から「非日常=非存在=異次元」の世界に超出してゆくことにある。
われわれの意識のはたらきが脳の外側のどこか異次元の空間で起きているように、90年代のコギャルたちは敢然と「ガングロ(やまんば)・ファッション」という異端の世界へと超出していった。
神の規範に縛られているユダヤ・キリスト・イスラム教徒や徹底的に現実主義的な精神風土の中国人にはこの「異次元の世界への超出」という離れ業はなかなかできないし、それでもそれが彼らを魅了しているのは、この離れ業こそ人間性の自然・本質であるからだろう。
単純な言い方をすれば、「かわいい」の文化の本質は、「浮世離れしている」ということにある。
グローバル資本主義とか新自由主義とか、現在の世界が現実主義の権化のようなユダヤ資本や中国資本に支配されて人としてのたしなみというか倫理のようなものがどんどん崩壊していっているとすれば、その状況からの脱出の契機はきっと、人々の心が今よりももっと「浮世離れ」してゆくことにあるのかもしれない。
人間世界の倫理は、「浮世離れ」した思考や感性から生まれてくる。それは、この生やこの社会に執着した正義や正論のことではない。正しい必要なんか何もないし、正しさに執着しながら人に対して残酷で支配的になってゆくのであり、ただ他愛なくときめいているだけでいいのだ。それを「浮世離れしている」というわけで、「浮世離れしている」ことは、「人としてのたしなみ」なのだ。われわれは、そういうことをあのガングロ(ヤマンバ)ギャルたちから学ぶ必要がある。
彼女らのような「浮世離れ」した思考や感性を持てないまま「日常」とか「生活」とか「社会的立場」とかの現実というか通俗的なことばかりに執着していたら、永久にユダヤ資本や中国資本から支配され続けねばならない。
この生やこの社会の正義や正論や幸せや秩序を欲しがるのではなく、ただもう他愛なくこの世界の輝きに体ごと反応しときめいてゆけばいいだけのことだし、現在はそれこそがもっとも困難な状況になっているのだ。
今どきの右翼知識人にしろネトウヨたちにしろ、彼らのように何が正義かとか正論かというようなことを振り回していい気になっていたら、あるいは民衆が彼らに洗脳されて呆けてしまっていたら、ユダヤ資本や中国資本の思うつぼなのだ。
金と命が価値で正義で正論の世の中で、ガングロ・ファッションの「異形」は、それらを振り切ってすでに「異界」に超出していた。
この世の正義や正論は、ユダヤ資本や中国資本のもとにある。われわれの金や命は彼らに支配されているし、金や命を欲しがっているかぎり彼らの支配から逃れられない。
少なくともガングロ・ギャルたちは、この社会の規範としての正義・正論に執着したら負けだ、ということを自覚していたし、それこそがじつは日本列島の伝統なのだ。。
右翼とか保守といっても、彼らは日本列島の伝統をなんにもわかっていない。そうして、教育勅語の残りかすのような倫理道徳を語りたがる。
高度な文明制度にすっかり心を汚染されてしまった現在のわれわれには、彼らがいうような、この社会や人と人の関係をあれこれ作為的にやりくりしようとする現実的な駆け引きの倫理道徳が必要なのではなく、もっとも他愛なく原初的なときめきにこそ希望がある。
倫理とはつまるところ「浮世離れしている」ことだ。

たとえば、宗教は「人を殺してはいけない」と教える。それは、人は人を殺す存在であると認識していることを意味している。だから、「殺してはいけない」といわねばならない。宗教者とはそういう人種か、とがっかりではないか。
ふつうは、人を殺すことなんかできない。だから、「殺してはいけない」といわれる必要もない。「殺してもいい」といわれても殺せない。人間というのはそういうものだと認識することを「倫理」という。「倫理」は、人間性の自然としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」から生まれてくる。それに比べて宗教の教えとは、なんと非人間的なことか。
人は、「殺さなければならない」と命令されて、はじめて殺すことができる。「殺してはいけない」という神の声もあれば、「殺さなければならない」という神の声もある。動機を持った殺人の現場には、「殺さなければならない」という神の声が下りている。
世の中には神の声に従って生きるものと神の声を忘れて生きるものがいるし、誰だって神の声を聞いているときもあれば忘れているときもある。神を意識しようとするまいと、文明社会だろうと未開社会だろうと、すべての現代人はそういう「思考制度」のもとに置かれてしまっている。
神の声に縛られている心を「強迫観念」という。俺は無神論者だといっても、「強迫観念」とはそういう心であり、そういう「制度性=宗教性」が現在のこの地球上を覆っている。
まあだから、もっとも宗教性の強い民族であるユダヤ人が、この地球上の成功者や支配者になれる。世界中どこでも多くの政治家は、実際に宗教を信じていようといまいと本質的には宗教者であり、偏執狂なのだ。
宗教を信じていようといまいと、彼らは宗教的に思考し行動する。神の声を聞いたかのように「……ねばならない」と思考し行動する。彼らには「信仰」だけがあって「倫理」はなく、そこが彼らの強みにもエキセントリックな残酷さにもなっている。
宗教者は、けっして「浮世離れ」した人たちではない。とても現実的で世間ずれした人が多い。

たとえば曽野綾子という人はクリスチャンらしいが、現実社会の正義・正論ばかり語っている。彼女は、つねに正しいか否かの物差しで世界や人を見ていて、「処女=思春期の少女」のように他愛なくときめいたりかなしんだりすることはないらしい。まあ宗教者はおおむねそういう傾向があり、はたしてそれは人間的なことだろうか。
宗教者の語る「正義・正論」や「神の教え」などどうしようもない俗物根性から生まれてくるのであり、そこには、人間性の自然としての「浮世離れした非日常性」も「魂の純潔に対する遠い憧れ」もない。すなわち「倫理」がない。
曽野綾子には、ガングロ・ギャルが切実に抱いている「魂の純潔に対する遠い憧れ」とともに「非日常=非存在=異次元」の世界に超出してゆく「浮世離れ」した心の動きはわかるまい。この社会の正義・正論から置き去りにされていることの「かなしみ」はわかるまい。
曽野綾子よりもガングロ・ギャルたちのほうがずっと深く切実に「今ここ」の一瞬一瞬を大切にして生きている。
「今ここ」には「命」も「生活」も「人生」もない。一瞬という「点」の中に消えて「異界」に超出していったところに「今ここ」がある。
宗教者や政治オタクの語る正義・正論なんて、何ほどのものか。ガングロ・ギャルこそこの世のもっとも倫理的な存在である。彼女らはまあ「出雲の阿国」の再来であり、現代社会に現れた異形の「巫女」だった。
「異形」に対する愛着・憧れは、日本列島の伝統なのだ。この社会の「異物」として「消えてしまいたい」という願い……「消えてゆく」ことこそ、人としての最高のエクスタシー(快楽)であり、この国の伝統である「カタルシス=みそぎ」なのだから。

最後に「ガングロ・ファッション」の特徴をもうひとつだけ付け加えておこう。
彼女らはなぜ「ガングロ」にこだわったのだろう。それは、「反抗」とか「復讐」などというステレオタイプな分析だけで片付けてしまうべきではない。そこにはきっと、みずからをこの社会の「異物」であると自覚しつつ、この社会から「消えてしまいたい」という衝動がはたらいている。
「ガングロ」は「黄泉の国」の表象である。
そしてその黒い顔の眼の縁には、白や銀色に光るアイシャドウが大げさに塗られており、髪も金色に染めたりしていた。「黄泉の国」の住人である彼女らには、「きらきら光るもの」に対する切実な愛着・憧れがあった。
このメイク技術も、彼女らの革命のひとつだった。「きらきら光るもの」は、背景としての舞台が闇のように黒い方がより鮮やかに際立つ。その思い切りの良さというか、そうやって顔を黒くせずにいられないほど「きらきら光るもの」に対する愛着・憧れが切実だったのであり、それは現在の「かわいい」のファッションにちゃんと引き継がれている。
人はなぜ「きらきら光るもの」が好きなのか。これもまあ人類史の大問題のひとつで、話せば長くなってしまうのだが、とにかく人類史の最初の貨幣は貝殻などの「きらきら光るもの」だった。
2万年前の氷河期の北ヨーロッパの人類は、死者の埋葬に際して大量のきらきら光るビーズの玉を添えていた。
「きらきら光る」ことは、物質の表面で起きている「非存在」のたんなる現象であって、物質それ自体の正味ではない。「きらきら光るもの」に対する愛着・憧れは、「非存在」に対する愛着・憧れであり、それはもうひとつの「異次元の世界」がこの世界に出現する現象なのだ。
「非存在の尊厳」、そういう愛着・憧れを込めて原始人は死者に「きらきら光るもの」を捧げた。そしてこれが、人類史における「貨幣の起源」の体験になった。
つまりガングロ・ギャルたちはそういう歴史の起源・普遍に遡行していったのだし、彼女らのその「非存在の尊厳」に対する切実な愛着・憧れは、「消えてしまいたい」という衝動でもあったわけで、そこにこそ真に人を生かしている人間性の自然がある。つまりそこにこそ曽野綾子の正義・正論などには及びもつかない深く高度なガングロ・ギャル特有の「倫理」があったわけで、彼女らは、人類史の起源に遡行し、人類史の究極に憧れた。
ガングロ・ギャルたちは、この社会の「異物」であることのかなしみとともに「非存在の尊厳」を発見した。おそらくそれは、民主主義とは何かと問い続ける現代社会において革命的な発見だった。彼女らは、この世界には宗教者や支配者やインテリたちが語る「正義・正論」よりももっと高度な「倫理=人間性の真実」があるということを発見した。まあそこを起点にして現在の「非存在の女神」である「初音ミク」の登場というムーブメントが起きてきたわけで、それが世界中に広がっていることは、ガングロ・ギャルのその発見が革命的であったことの証明になっているのではないだろうか。
人類はいつか、この世界を支配していじくりまわそうとする偏執狂たちを退却させることができるだろうか。