マリアの処女懐胎は非科学的か・神道と天皇(118)

とにかく、「かわいい」の文化のひとつの必然的な帰結として「初音ミク」というバーチャル・アイドルが登場してきた。
人の心は普遍的に、「この生」とか「日常」というようなこの世界の「存在」に執着しとどまっていようとするのではなく、「非日常=非存在」の世界に超出してゆく動きを持っている。なぜなら、われわれのこの意識そのものが、そもそも脳という物質の中ではなく、その外の何かよくわからない「異次元」の空間ではたらいていることを誰もが感じているからだ。
人の心は、先験的に「非日常=非存在=異次元」の世界を意識するようにできているのであり、その世界に超出してゆくというかたちで意識のはたらきが起きている。
「聞く」ということだって、耳の中の鼓膜の振動として音を感じているのではなく、ちゃんと耳の外の音源のところで音が発したことをとらえている。いや、たとえばイヤホーンをしているときでさえ、音源であるイヤホーンから離れたとこらから聞こえてきているように感じている。テレビを見ているのなら、その画面から音が発しているように聞こえてしまう。
われわれの意識のはたらきは、「身体存在=日常」から「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してゆくことの上に成り立っている。
意識のはたらき、すなわち心がときめくとか感動するということは、心が「身体存在=日常」から離れて「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してゆくことだ。
であれば、人々の心が初音ミクという「非存在=非日常=異次元」の世界の対象にときめいてゆくことはきわめて自然なことだし、初音ミクは現在の女神だともいえる。
「非存在」の「女神」にときめき祀り上げることは、「存在」としての「神」を信仰することよりもずっと自然で健康な人の心のはたらきなのだ。
キリスト教の「マリア信仰」だって、マリアが「処女懐胎」したという、その「非存在=非日常=異次元」性こそがマリアが「女神」であることの根拠になっているのだ。
リチャード・ドーキンスなどは、処女懐胎の非科学性を盾にしてマリア信仰という宗教のばかばかしさをいい立てたりしているが、心=意識がそうした非科学的なものにときめくことは、とても自然で科学的な現象なのだ。
もちろん宗教はばかばかしいものに決まっているが、それでもドーキンスの宗教批判は甘いしステレオタイプだと僕は思う。

一般的には、神道多神教一神教の「神=ゴッド」とは根本的に違うといってそれで決まりだというような考え方になっているが、それでは説明にならない。彼らは、多神教の「かみ」と一神教の「神=ゴッド」との違いをちゃんと考えていない。神道では「神=ゴッド」が八百万(やおよろず)だといっているだけなのだ。
神道の「かみ」の根本は「非存在」の「女神」にある。そこが「存在」でありこの世界の「支配者」であると信じられている「神=ゴッド」とは決定的に違う。
「かみ」を祀り上げることはきわめて自然で健康的な心のはたらきであり、「神=ゴッド=存在」に執着してゆくことは、心が停滞し病んでゆくことなのだ。
意識の自然=本質は「非存在」を祀り上げるはたらきであり、「女神」を祀り上げるのは、「処女=思春期の少女」がこの世でもっとも「非存在=非日常=異次元」性をそなえた対象であることに由来する。「処女=思春期の少女」は、「わがまま」だが、「恵み」も「罰」ももたらさらない。
初音ミクは、「かみ」であり、しかしそれを祀り上げてゆくことは宗教ではなく、自然で野性的原初的な心の動きにほかならない。
神道の「かみ」は、「ほっといてくれ」といって「隠れている」のであり、人間の世界に支配・干渉してくることはしない。支配・干渉してくるときは「鬼」になっているのであり、人々が丁重に祀り上げてゆけば、また「隠れている」対象としての「かみ」に戻る。
神道の神は、祀り上げたからといって何かをしてくれるわけではない。ただ「隠れている」だけ。しかし「隠れている」ことは「非存在=非日常=異次元」の世界に超出していることの証しであり、日本列島においてはそれこそがこの世のもっとも「めでたい」ことなのだ。
日本列島においては、「存在する」とか「生き延びる」とか「幸せになる」というようなことは、べつに第一義的な「価値=尊厳」になってはいない。「消えてゆく」ことのカタルシスあるいは快楽こそがもっとも「めでたい」のであり、その体験に生きてあることの証しを見て歴史を歩んできたのだし、じつは世界中の原始人もまた直立二足歩行の開始以来の歴史をそうやって歩んできたわけで、その流儀をもっともラディカルに実践して生きたのがネアンデルタール人だった。
日本列島の文化の伝統には、人類史の起源と究極のかたちが刻印されている。そのようにして初音ミクが登場してきた。