アマゾンの蝶の羽ばたきは・神道と天皇(117)

現在の文明社会はもう、絶望的な段階にさしかかっているのかもしれない。
世の中の支配者や資本家はみずからの肥大化した欲望の追求になんの後ろめたさもなく、民衆だってたえず欲望を刺激してくる社会の構造に囲い込まれ、もはやその政治的支配や経済的搾取から逃れられなくなってしまっている。
たとえば、この世界から戦争がなくなることが人類の理想であるのなら、世界中の憲法に人としての「戦争のない世界を夢見る権利」を明記するべきだろうし、今のところ日本列島だけにしかないのなら、それは大切にされてもよい。それが、世界大戦を引き起こしたあげくに無惨な敗戦を喫するほかなかった国としてのたしなみというものだろう。
僕は、いまどきの右翼が左翼を批判するときの「自虐史観」という常套句がものすごく癇に障る。たとえそれがやむにやまれぬものであろうと、避けがたい歴史の必然であったとしても、「世界大戦を引き起こしたあげくに無惨な敗戦を喫した」という事実は消しようがないのだ。何が「自虐」か。「自虐」して何が悪い。おまえらみたいに、自分の傷をなめまわして自分を正当化しようとするような自己憐憫や自己撞着の趣味はない。「僕ちゃん何も悪いことをしていないのに、僕ちゃんかわいそう」てか?笑わせるんじゃない。
正義の戦争だろうとなんだろうと、日本が戦争を引き起こしたということはもう、消すことができない歴史の事実なのだ.
たとえばこの前の選挙でお人好しの前原誠司がすれっからし小池百合子にはめられたといっても、前原誠司が何をしたかという事実を変更することなんかできないだろう。それと同じことさ。
まあ、世界的に右翼的自己憐憫や自己撞着が大はやりの時代ではあるが、だからこそ「かわいい」の文化の「夢見る」ムーブメントが世界中の若者の間に広がったりもしている。
世界中はいま、日本人の「夢見る力」に「ジャパンクール」といって驚いている。
現実をどうこうしようとする欲望に引きずりまわされている時代だからこそ。
それにしてもひどい時代だ。
ひたすら欲望に邁進してときに成功をおさめることがあるとしても、もはや誰も夢見ることなんかできない。
この社会には、欲望に邁進する人と夢見る人がいる。しかしここまで来たらもう、欲望に邁進する人でなければ社会にフィットできないできない状況になってきている。フィットできないものは排除してもいい、というような空気が生まれてきている。なんといっても地球の人口は増えすぎたのだから、どうしてもそういう力がはたらくようになってくる。
現在の文明社会において、夢見る人は無用の存在なのだ。しかし同時に、誰もが夢見る人でありたいと願っている。また、願っているくせに、夢見る人を排除しようとする。現在のこの社会は、一部の恵まれた人を除いて、名もない庶民が夢見る人であることを許さない。
「夢見る」とは、「非存在」に思いを馳せること。かなわないことをかなわないと知りつつ願うこと。神は存在しないと知りつつ神に思いを馳せること。
人は普遍的に「非存在」に対する親密な感慨を抱いている。甘ちょろいことをいうといわれそうだが、人は本質において夢見る存在なのだ。学問だろうと、芸術だろうと、スポーツだろうと、冒険だろうと、恋することだろうと、人が夢中になってしていることは、つまるところ夢見る行為にほかならないのではないだろうか。

世界の「かわいい」の文化は、今のところ日本列島の独走状態であるらしい。これは、歴史的な精神風土とかかわっているから、そうかんたんには追いつけないだろうし、しかし人類普遍の感性でもあるのだから、いつかは追いついてくるのだろう。
人類全体が「夢見る力」を取り戻したときに。
「夢見る」とは、心が「非日常=非存在=異次元」の世界に超出してゆくこと。まあ「萌える」ともいう。
中国やユダヤイスラム諸国は「かわいい」の文化を生み出すことが苦手であるのだとか。きっと、何かにつけて大げさで現実的なお国柄だからだろう。現実的な欲望の追求においては、彼らのほうがずっとダイナミックで巧妙なのだろうが。
ユダヤイスラムの神は、現実の人間世界とつながっていて、人間を支配している。彼らの神は、現実世界の延長にいる確かな「存在」であって、神道の「かみ」のような「異次元の世界」の「非存在」の対象ではない。「かわいい」の文化は、この「かみ」を「夢見る」ところから生まれてくる。
中国人もユダヤイスラム教徒も、この「かみ」を「夢見る」ことが苦手らしい。もちろん彼らだって同じ人間なのだから、無意識的にはそうした「夢見る」ことに憧れているわけで、現在の若者たちにはそれが芽生えてきているのだが、大人たちの社会に理解されることはない。
たぶん、社会を動かしている大人たちに理解されない社会だから、そうした感性が育ちにくいのだろうし、マーケットの広がりも限られているのだろう。
なんのかのといっても日本列島の大人たちは、そこのところはなんとなくわかっているし、そういう感性が育ってゆく社会環境になっているのだろう。
まあヨーロッパ人は、ときに日本人以上にピュアな「夢見る力」を持っていたりするのだが、なんといってもキリスト教の「神」によって現実世界にとどめ置かれている部分も抱えてしまっている。
彼らはどうしても「神=存在」というハードルを抱えてしまっているわけで、日本人以上に「かわいい」の文化を生み出すことは困難であるとしても、日本人よりももっと切実にそのことに対する救いを体験している。

人の心は「魂の純潔」に萌える。
身体や心の純潔の表象として「処女=思春期の少女」に対する遠い憧れ(=夢見ること)は、原初以来の人間性の自然ではないかと思える。
「処女=思春期の少女」は、「非日常=異次元の世界」の存在なのだ。日本列島の精神風土には、「非日常=非存在=異次元の世界」に対する遠い憧れが、ことのほか切実に洗練したかたちではたらいている。
ともあれそれは普遍的な人の心の底に息づいているはたらきでもあるわけで、日本列島から発信してくる「かわいい」の文化によって世界中の人々がそのことに気づかされている。
そうやって京都の舞妓が、世界中からやってくる観光客の人気になっている。
舞妓もまあ、初音ミクのような非現世的な存在だ。
初音ミクでもAKBでもいいのだが、歌っているときの振り付けは、じつは日本列島の舞の伝統とつながっていて、西洋やアフリカのダンスとはどこかしら違うところがあるらしい。だから彼らはそれに、意表を突かれたような印象を受けたりするらしい。
AKBの振り付けなどは、日本人の少女ならかんたんにまねすることができるのに、西洋人はなまじ西洋ダンスの伝統があるから、かえって戸惑ったりする。
ざっくりといってしまえば、たぶん日本人は盆踊りの延長で踊れるのだろう。西洋のダンスだろうと日本列島の舞だろうと、上手に踊れているときは体が空間の一部になったような心地で、体の物性は意識していない。
で、身体作法のどこに違いがあるかといえば、日本列島では体を空間に埋め込んでゆくように動くのに対して、西洋やアフリカでは体を空間に向かって解放してゆこうとする。
日本列島では「型」をつくってゆくように踊る。だから、歌舞伎の「見得を切る」というような作法も生まれてくる。まあ、動きの鮮やかさというようなことはめざしていない。「型」をつくるのが上手い。
AKBの振り付けを日本人の少女が遊びでまねをするときでも、局面局面での愛らしい「型」のつくり方がこなれているが、外国人がまねをすると、いまいち「型」が決まっていない。それは、少女の身のこなしの愛らしさを表現する踊りなのだが、外国人は体の「動き」だけに意識があって、「型」に対する意識がない。
日本人の少女は、べつにダンスなど習っていなくても、ちゃんと「型」に対する意識を持って踊っている。
バレエは「動き」で美や情感を表現するが、日本列島では「型」で表現する。前者は身体が空間になってゆく踊りだとすれば、後者は、最初から身体を空間として(あるいは空間に埋め込んで)動かしている。だから能舞などは、なれないものがまねして踊ると、腰や膝にものすごく負担がかかってひどく疲れるものらしい。まあ昔の日本人は、ふだんからそういう身体作法で暮らしていたのだろうが。
とにかく、AKBの振り付けを真似して愛らしく踊るということだけでも、西洋人が日本人に追いつき追い越すことは、そうそうすぐにできることではない。

西洋や中国が「かわいい」の文化の市場に参入するといっても、たとば「電化製品の製造技術をまねして改良し売りに出す」というようなレベルの問題ですむ話ではない。
それぞれの国の伝統文化というか精神風土の問題であり、現在の世界中で模索されている「ポストモダン」の問題でもある。
世界的な民族紛争からドメスティックな格差問題まで、現在の文明社会の腐敗は、今さら倫理道徳を語っても解決するはずがないし、倫理道徳を取り戻さないと解決しない。
政治が経済に支配されているというか、政治の世界と経済の世界の癒着の構造を解消しないといけないといっても、人類の歴史の必然的ななりゆきであるのなら、今さらどうなるものでもないだろう。けっきょくもっとも基礎的な人と人の関係そのものが、まるで権力ゲームの駆け引きのようにややこしく不純なかたちになってしまっている。そうして、もっと高度な駆け引きができるようになれば問題が解決される、というような話も出てきたりするが、それはたぶん幻想なのだ。
「今ここ」がいい方向に進むようななりゆきであればそうなるだろうし、ならないようななりゆきであれば、どんな方策を施しても無駄に終わる。世の中は、誰の思う通りにもならない。
現在の北朝鮮問題にしても、対話だとか圧力だとかといいながら、右翼も左翼も駆け引きで北朝鮮に核をつくらせないようにすることができると思っているらしいが、核をつくることが無効であるような世界にしないかぎり、相手はうなずくはずがない。
なんのかのといっても、世界のなりゆきは、世界の構造によって決定されているのであって、人間が決定しているのではない。
われわれにできるのは、歴史をつくることではなく、歴史はどうなっているのかと問うことだけだ。

風が吹けば桶屋が儲かる」とか「アマゾンの森の一羽の蝶の一回の羽ばたきが原因で日本列島に津波がやってくる」とか、いわゆる「複雑系」といわれる因果関係で世界が動いてゆくという話はつまり、世界の構造が歴史を動かしているのであって人間が動かしているのではない、ということを物語っている。
世界の構造というのは、それほど不思議で玄妙なものであるらしい。
人ひとりの運命だって、うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはどんなにがんばってもうまくいかない。そういうことだって、世界の構造が決定しているのかもしれない。
では、現在の人間世界の構造はどうなっているのか。
「かわいい」の文化の登場は、現在の人間世界の構造が変わりつつあることの証しだろうか。ともあれそれは、人と人の関係が変わることであり、人と人が他愛なくときめき合うことができるようになれるか、という問題だ。人類の歴史はそのようにしてはじまり、そのようなところに行き着くのだろうか、という問題だ。
原初の人類は、人と人がより他愛なくときめき合うことができる集団のかたちとして二本の足で立ち上がった。そうして、その勢いで地球の隅々まで拡散していった。そのとき人類は住みよい土地をめざしたのではない、拡散すればするほどより他愛なく人と人がときめき合う関係が生まれていったのだ。
戦後の東京に爆発的に人が集まってきたことだって、そこが、田舎のややこしい人間関係と違ってただもう他愛なく人と人がくっつき合える場所だったからで、まあ、明治以来の教育勅語の呪縛から最初にもっともダイナミックに解き放たれた場所だったのだ。
人類の歴史の法則のひとつとして、「人と人がより他愛なくときめき合える地平に引き寄せられてゆく」ということがある。そのようにして都市が生まれてきたのであり、もしかしたらその勢いで「かわいい」の文化が生まれ、世界に広まっていったのかもしれない。

時代の気分=世界の構造は、少しずつ変わってゆく。
今はまったくひどい世の中だが、「かわいい」の文化はその絶望的なひどさとは逆立するかたちで登場してきた。
世界の構造が変わらなければ話にならないし、世界の構造は変えられると思っているかぎり、世界の構造は変わらない。「世界の構造は変えられる」と思っているその構造が変わってゆくことこそ、われわれの希望になる。
世界の構造が変わることは、一羽の蝶の羽ばたきに託すしかない。
「世界の構造は変えられる(=つくることができる)」と思っている大人たち。それに対して「かわいい」と他愛なくときめいているものたちは、世界の構造を変えようともつくろうとも思っていない。ただもう「今ここ」の世界に体ごと反応していっているだけであり、そういう反応を失ったものたちが変えよう(=つくろう)と悪あがきしつつ、ますます変わらないものにしているだけのこと。
まあわれわれが、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように欲望をたぎらせあくせく悪あがきしているから、偏執狂の支配者や資本家に牛耳られてしまう。牛耳られている大人たちが何をいおうと、世界の構造が変わるはずがない。
われわれは、牛耳られないものになれるか。
大人たちの世界はもう、牛耳られるような構造になってしまっている。
牛耳られないためには、そうした世界の構造から超出してゆくことができる心を持たねばならない。そしてそういういわば超越的な心をもっともラディカルにそなえているのは「処女=思春期の少女」であり、彼女らは、「今ここ」のこの瞬間に熱中し、体ごと世界に反応しながら他愛なく「かわいい」とときめいている。
少女が、生意気であったり、わがままであったり、ぼんやりと上の空であったりすることは、この世界の構造から超出していっているわけで、「かわいい」の文化はそこから生まれてくるのだし、世界の構造が変わってゆく契機は彼女らのもとにある。
世界の構造をよく知るものが世界の構造を変えるのではない。世界の構造から超出してゆく心を持ったものたちにリードされながら世界の構造が変わってゆく。