きれいさっぱりとなくなってしまう・神道と天皇(116)

もともと人の心は「非存在」を問うようにできている。だから「ゼロ」という概念を発見したのだろうし、とくにこの国では、いつの時代も「無」ということが問われ続けてきた。
命のはたらきにせよ、心のはたらきにせよ、その本質・自然は「非存在」に対する親和性にある。そうしてそれが死に対する親和性でもあることを前回に考えてみたのだが、それはもう原初の人類が二本の足で立ち上がったときから芽生えていた心のはたらきだったわけで、だからこそ、現在のように死が限りなく遠くなった時代においてもなお、若者や子供のマンガやアニメにおいてさえそれが何度もモチーフとしてあらわれてくる。
死が遠ざけられている時代だからこそよけいに気になる、ということだろうか。
たとえポップカルチャーであろうと、死というモチーフを取り扱わないことの方がかえって不健康だともいえる。
歳を取れば誰だって死を考えるようになる。大きな病気をすればなおさらだろう。そうして自殺してしまう人もいる。それに足して、世の中にフィットして順調に生きている大人たちは、ほとんどそんなことは考えない。明日も来年もさらには十年先も生きてあることを前提にしたスケジュールのことばかり考えている。とくに現在のこの国は、平和で豊かな世の中なのだ。
ただ、思春期の若者たちは、それでも多くが死を考えてしまっている。世の大人たちよりもずっと深く切実に、そしてさまざまに考えている。自殺のことも人を殺すことも考える。
であれば、世の中の、死についてろくに思いを致してもいない大人たちが、「今どきの若者文化は軽々しく死を扱い過ぎている」などと語る資格があるだろうか。

死を考えるとは、自分がこの世の中らいなくなったらどうなるのかとか、「非存在」について考えることだ。
自殺したいとは、この世の中からいなくなってしまいたいということ。そういう気持ちは、この世の中うまい汁を吸って生きている大人たちにはわからない。
この世の中からいなくなってしまいたい……とくに成長期の体の鬱陶しさが身にしみている思春期の少女たちはそういう思いを抱き勝ちだし、少年の中にだってある。だから彼らにとっては、初音ミクのような「非存在」の対象が救いになる。彼らは、初音ミクのように存在したいと願っている。そういう「非存在=異次元の世界」こそ、彼らの安住の地なのだ。そこに立ってこの世界や他者にときめいてゆくというか、そこに超出してゆくようなタッチで我を忘れてときめいてゆく。そうやって、人にときめいたり人からときめかれたりする関係を取り戻してゆく。
というわけで、そこに気づけば救いもあるのだが、ひたすら自分という「存在」の正当性に執着しつつ世の中からいなくなってしまおうとするなら、もう引きこもるしかない。
彼らは、人にときめくことも人からときめかれることもない。しかしそれでも人を憎む気持ちはいやでも起きてくる。なぜならその相手は、「いなくなってしまいたい」という気持ちを阻む存在だからだ。この広い世界の中のひとりだと思えるのならどうということもないが、自分ひとりだけの世界に侵入してきた相手なのだ。
自分ひとりだけの世界をつくっているものは、自分を確かで正しい存在だと思っている。その思い込みを揺るがす相手は、なんとしても排除しなければならない。そうやって憎む。殺したいとも思う。
引きこもれば、いやがうえにも自分の存在を強く意識するようになってゆく。そうして自分という「存在」を守ろうとすれば、ますます人を憎むようになってゆくし、どんどん人間らしい「ときめき」を失ってゆくというその悪循環にはきりがない。
まあ世の中に出ていても、自分の世界に対する執着の強い人間は、けっきょく嫌われ者になってゆく。嫌われ者でも人より優位な立場に立って生きてゆける人はそれでもかまわないが、平凡な若者が嫌われ者になってしまえばもう、引きこもるしかない。

自分という「存在」に執着してしまうことの悪循環。今どきは、エリート層であれ名もない庶民であれ、そういう悪循環に陥っている大人たちのなんと多いことか。それで生きてゆけるし、それが成功の武器になったりもする世の中だ。若者たちの「ひきこもり」とか「ネトウヨ」という現象などは、そういう大人たちがつくった社会の仕組みから生まれている。
多くの人が自意識過剰になってしまっている世の中だからこそ、自意識も存在感も持たない初音ミクがアイドルとして登場してきた。
実際、悩める若者にとっての初音ミクは、「救済の女神」なのだ。初音ミクだけではなく、「かわいい」の文化そのものが、現在の物質文明に汚染された社会で漂流する世界の若者たちに対する救いの手になっている。社会から置き去りにされた世界中の多くの若者が、すがりつくように熱中していたりする。
オウム真理教、今ネトウヨ、といったところだろうか。まあ今でも、カルト宗教やカルト宗教的政治運動にすがりつく若者たちは一定数いるのだろうが、そういうことにも違和感のある層が、そういうことの代替として「かわいい」の文化に関心を寄せていっている。
そりゃあ「かわいい」の文化に対する熱中の仕方にもいろいろあるだろうが、基本的にそれは、この世界やこの生の正しさや秩序を求める政治や宗教ではなく、無原則の混沌の中でただ他愛なくときめき合ってゆく「祭り」の文化なのだ。思想ではなく美意識、と言い換えてもよい。あるいは、信仰や信念ではなくただ他愛ない感動。あるいは、近代合理主義的な自我の確立ではなく、非合理で原始的であるところの自我の呪縛からの解放というポストモダン的なムーブメントである、ともいえる。

「かわいい」の文化は、戦後の世界が問い続けてきた「ポストモダンとは何か?」という問題に対するひとつの答えになることができるか……そういう問題でもあるのではないかと僕には思える。
ポストモダンの問題は、一般的にはポスト資本主義の問題として語られることが多い。ポストグローバル資本主義、ということだろうか。それはまあ、たしかに逼迫した問題に違いないのだろうが、そうやって社会の構造を変えればそれすむというわけでもないのかもしれない。
ポスト資本主義の社会なんて誰も描くことができないわけで、このままなりゆきでやってゆくしかないのだろう。
ポストモダンは、もうひとつ、ポスト核戦争の問題でもある。
核爆弾は、第二次世界大戦のときに開発され、日本列島の広島と長崎に二発落とされた。
それ以後、世界は核開発の競争を続けてきたが、いまだに日本列島以外に核爆弾の投下を受けた国はない。
核爆弾は、投下することができない爆弾なのだ。広島・長崎の惨状を見れば、それはジェノサイト(大量虐殺)以外の何ものでもなく、今それを投下すれば、どんな国であれ、世界中を敵に回してしまうことになる。たとえアメリカやロシアでも、世界中を敵に回して戦争をする覚悟ができるはずはない。
アメリカやロシアだって、核爆弾を投下される恐怖を抱えてしまっている。
もしもアメリカが北朝鮮に核爆弾を投下すれば、ロシアや中国がアメリカに核爆弾を落としてもいいという免罪符を与えてしまうことになる。まさかロシアや中国が実際にそういうことはしないだろうが、それでもアメリカには「落とされるかもしれない」という恐怖は残る。
日本は、アメリカに二発の核爆弾の貸しがある。だからアメリカとしては、何がなんでも日本に核爆弾をつくらせたくない。もしつくらせたら、日本にそんなつもりなどなどなくても、アメリカは永久に「つけを払わせられるかもしれない」という恐怖から逃れられなくなる。
日本は、いざとなったらアメリカに二発の核爆弾を落としてもいい、という権利を持っている。これは、神から与えられた権利だ。日本がそう思っていなくても、アメリカはそう思っている。だからアメリカは、日米同盟を破棄することはできない。永久に破棄することはできない。
戦後の70年、世界に大きな戦争がなかったことは、アメリカが核爆弾を投下したということが、世界中の人類の無意識を支配しているからかもしれない。
アメリカが「世界の警察」という立場に固守しながら世界中に軍隊を派遣していることだって、日本に核爆弾を投下してしまったという記憶に強迫されている、ということもあるかもしれない。
アメリカは、世界で最初にポスト核戦争の映画(『渚にて』)をつくった国であり、それはアメリカの強迫観念のあらわれだろう。
いずれにせよ、核爆弾を持っている国ほど放射能に対する恐怖が強く、被爆国の日本があんがい無頓着なところがあり、いまだにちゃんと核シェルターをつくろうとしていない。
とにもかくにもアメリカは、人類の歴史に汚点を残したのだ。日本にそれを責めるつもりはなくても、この世に核爆弾が存在する限り、アメリカがその記憶から逃れることはできないにちがいない。
だから、無理にでも「戦争を終わらせるためにはしょうがなかったのだ」と言い張るしかないのだろう。
日本に3発目の核爆弾を落とす度胸のある国があるだろうか?それが最悪のジェノサイトであることは、核爆弾を持っている国ならみんな知っているし、アメリカがいちばんよく知っている。
北朝鮮ならやりかねない、といいたがる人がたくさんいるらしいが、それは北朝鮮が消滅することと同義だということは彼らだって知っているだろし、それを覚悟することはけっしてかんたんなことではないに違いない。日本人ならできるからついそのように想像してしまうが、彼らにとってそれは、日本人が思うほどかんたんなことではないはずだ。あの国の歴史においては、国が滅びることを覚悟して戦争をしたことはない。
もしかしたら現在の世界で、核爆弾を使用する度胸があるのは、日本人だけかもしれない。だからやっぱり日本人は、核爆弾を持たない方がいいのかもしれない。

この国だろうとこの地球だろうと、きれいさっぱりとなくなってしまうことは、そんなに悪いことではない。それはひとつの「みそぎ」であり、その「非存在」に対する親和性こそこの国の文化の伝統であり、生命も含めたその物質存在にとらわれていない感性を「ジャパンクール」という。
きれいさっぱりなくなってしまうことは、きれいさっぱり忘れてしまうことでもある。
だから戦後は、アメリカに対する恨みつらみをいっさい捨てて歩みはじめたのであり、憲法第九条をここまで持ち続けてくることができた。
憲法第九条なんて国がきれいさっぱりなくなってしまうことを覚悟しないかぎり持ち続けることなんかできないわけで、良くも悪くもそれが「ジャパンクール」なのだ。
「かわいい」の文化は「非存在」に対する親和性の上に成り立っており、初音ミクの登場はこのことを証明しているし、世界中の多くの若者が「ああそうだなあ」と同意した。
世界中が今、物質文明に疲れてきている。
支配者たちはともかく、多くの民衆は、国の存続や自己の存続のためにあれこれ駆け引きし合うことに疲れてきている。
国も人も、きれいさっぱり消えてしまってもかまわない……そこに立ってこそ、じつは国と国の関係も人と人の関係も健康に機能することができるのかもしれない。
「非存在」に対する親和性こそ、人間性の自然なのだ。
人類はもう、生き延びることが大事の物質文明のもとで競争したり闘争したりすることに疲れてきている。
「きれいさっぱり消えてしまってもかまわない」ということは、「死にたい」ということではない。ここでいう「もう死んでもいい」という勢いとは、「いまここ」に体ごと反応しながらわれを忘れて心が「非日常=異次元=非存在」の世界に超出してゆくという感動体験のことだ。
人は、「もう死んでもいい」と思えるくらいときめき感動することができる。そういう原初の心の動きは人類史の記憶として誰の中にも残っているはずだし、そういう原初の心の動きを取り戻さないことには誰も生きられないし民主主義の未来もない段階にさしかかっている。
人間性の自然・本質は競争原理と闘争原理の上に成り立っている、などということをいっていたら、世の中は腐ってゆくばかりなのだ。フロイトはこのことにブレーキを果たす心の動きを「超自我エス」などといったが、「自我」などというものから解き放たれて「非日常=異次元=非存在」の世界に超出してゆくという原初的な感動体験こそがブレーキを果たすのだろうし、人間的な知性や感性はそのことの上に成り立っている。
「自分」なんか存在しないし、「自分」が存在しないところに「自分」があるのだ。まあ、それを「超自我エス」というのかもしれないが、そんなところには闘争原理も競争原理もはたらいていない。
人類は、文明社会の発展とともに、原初の他愛ないときめきをどんどん後退させてきた。後退させつつ、それを取り戻そうとして民主主義を生み出してきた。いつの時代も原初の他愛ないときめきを豊かに持っている人はいるし、程度の差こそあれ歴史の無意識として誰の中にも息づいている。
エジプト・メソポタミア以来「文明」は必ず没落し、「文化」は歴史とともに引き継がれてゆく。
資本主義・物質文明の出口が見えないまま、現在の人類はユダヤ・マフィアをはじめとする偏執狂たちに支配されながらこのまま自滅してゆくのか、それとも原初の他愛ないときめきを取り戻すのか、そういう岐路に立っているのかもしれない。