初音ミクの日本人論・神道と天皇(111)

初音ミクは偉大だ。彼女は、存在と非存在のあわいに立ちながら、日本列島1万年の伝統のみならず、人類700万年の歴史をも背負って登場してきた。
人がもし猿よりも深く豊かにときめき感動することができる存在であるのなら、心の奥に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いているからだ。
「魂の純潔」とは、自分が消えてしまうというか、自分を消してしまうことができる心のことであり、人はそうやって世界や他者にときめいている。さっぱりと消えてなくなっていることほど清らかなこともない。「純潔」とは、「存在の非存在」あるいは「非存在の存在」のこと。
初音ミクは、究極の処女性を表象している。
処女という名の魂の純潔、生きていることは、汚れてゆくことだ。だから人は「処女=魂の純潔」を尊ぶのであり、それは「死者の尊厳」の別名でもある。
もしかしたらそれは、原初の森で二本の足で立ち上がった人類が木々の向こうの青い空を見上げたときに芽生えたところの、その他界性=非日常性に対する「遠い憧れ」に由来するのかもしれない。何はともあれもともとただの猿であって原初人類がその姿勢を常態にすることは、この生から逸脱してゆかなければ実現することではなかった。生きているかぎり逸脱できるはずもないが、それでもその他界性=非日常性に対する「遠い憧れ」とともにその姿勢を常態にしていった。
人は、普遍的に他界性=非日常性に対する「遠い憧れ」を抱いている。その「魂の純潔に対する遠い憧れ」が人を人たらしめ、この生をこの生たらしめている。
処女(思春期の少女)の舞には「他界性」が宿っている。それに感動するのは宗教の問題ではない。人間性の自然としての他界性=非日常性に対する「遠い憧れ」であり、宗教なんか知らなくても人は死を想うし、それは永遠に「遠い憧れ」であり、死が何かということをわかっているのではない。わからないままひたすら「遠い憧れ」を紡ぎ続けているのが人の自然なのだ。
その社会に「アニミズム」なんか機能していなくても、処女(思春期の少女)の舞の「他界性=超越性」を祀り上げるという習俗は必然的に生まれてくる。そして古代以前の日本列島では、それを神に捧げたのではなく、それ自体を無上のものとして祀り上げていった。
初音ミクの登場は、おそらくそういう伝統とつながっている。

初音ミクは、起源としての天皇の姿でもある。
天皇」という言葉には、明治以降の国家神道による扇動のせいか、どうしても「支配者」とか「皇帝」とか「神のような存在」というイメージがついてまわるが、ここではそういう手垢にまみれた既成概念をいったん取り払って考えている。
というわけで、おそらく起源としての天皇は、古代以前の民衆の祭りの主役であるところの舞の名手としてのカリスマ的な存在だったのであり、起源としての舞の名手は「処女=思春期の少女」だった。
天皇の処女性」という問題は確かにあり、それがこの国の文化の可能性にも限界にもなっている。
巫女とか舞妓とか宝塚とかAKB48とか、この国には「処女崇拝」的な芸能の伝統があり、それがけっこう外国人にも受けていたりする。まあ西洋にも「マリア信仰」とか「ジャンヌ・ダルク伝説」というのがあるし、バリ島をはじめとして処女の舞を最高のものにする習俗は世界中にある。「処女崇拝」は人類普遍の感慨であり思想であるのかもしれない。そしてそれは、げんみつには宗教ではなく、むしろ美意識の範疇のメンタリティであるのではないだろうか。
「処女=思春期の少女」とはこの生の外に置かれた非日常的な存在であり、人はその「他界性」にいわば「この世のものとも思えない美」を感じているのであって、宗教が説明するところのこの生やこの世界の「秩序」とは無縁の気配なのだ。
宗教は、生きている人間が神との関係を結んで救われたり罰を下されたりするところの、あくまで「現世的」な装置なのだ。
それに対して処女の舞にあらわれる気配は、女の色気とか優雅さというような「現世的」なものではなく、何か混沌の中に溶けてゆくような非日常的で悲劇的ななやましさがある。カタストロフィ、というのだろうか。人はそういう気配にこそもっとも深く心を動かされているのではないだろうか。

初音ミクがアイドルになることは、現在の若い男たちはもう「生身の女」を必要としていない、というようなことを意味するのではない。それでも誰だって、関わるにせよ関わらないにせよ生身の女がまわりにたくさんいる環境で生きているわけだし、初音ミクのファンは女だって同じだけいる。
生身の女がどうのという話ではない。男も女も区別なく、この生の現在に対する癒しとか救済の問題として初音ミクが登場してきたのだ。
初音ミクはバーチャル映像のアイドルにすぎないといっても、映画やテレビだけでなく、もともと古代以来の舞台の上の人物はすべて、観客にとっては手で触ることのできないバーチャルな画像にすぎない。
つきつめていえば、この世のすべてはバーチャルなたんなる「画像」にすぎない、ともいえる。触らないものはすべてバーチャルな「画像」なのだ。そういう意味で映画や舞台の女優と初音ミクと、どれほどの違いがあろうか。
風景とはたんなる「画像」であって、物質存在であるかどうかはわからない。触ってみるまでわからない。物質存在であるという信憑=先入観があるだけで、虚心坦懐に見ればわからない。
高層ビルのすぐ前に立ってそれを見上げるとき、それが倒れてくることを心配していないのは、どこかでたんなる「画像」として見ているからだ。
都会の風景でも田園風景でも同じこと、人は「風景=画像」をつくってしまう。人は、「存在」することの重みというか尊厳を、じつはあまり感じていない。
この世界は、非存在非物質のたんなる「画像」なのだ。だから、初音ミクがアイドルになる。日本列島は、もともとそのように見る「あはれ・はかなし」の文化の歴史を歩んできた。
世界は今、物質文明に邁進することに疲れてきている。反省しはじめている。そうして、この世界を「画像」として見ることに「癒し」を覚えるようになってきた。
物質文明に魂を売り渡しているようなアメリカ人の若者でさえ、初音ミクのファンが少なくない。
もちろん初音ミクはかわいい系ロリータキャラのアイドルのひとりではあるが、その「非存在」の気配において際立っている。
「かわいい」とは「非日常性=他界性」すなわち「非存在」の気配であるということを、われわれは初音ミクの登場によって改めて思い知らされた。
現在の物質文明は、いよいよそういう段階にさしかかっているのかもしれない。

そりゃあ、「存在=物質」の本質を解き明かすことは大事だろう。しかし人が人であり生きものであるかぎり、「非存在とは何か」という問題も同じくらい考える必要があるに違いない。それは、「死」を問うことであり「生」の本質を問うことでもある。
すべての「存在=ある」は「非存在=ない」に向かう。生きものはやがて死ぬし、この宇宙もいつかは消滅してゆく。「ある」は「ない」に変わってゆくが、「ない」から「ある」が生じることはない。「ある」が「ない」に変わってゆくことが、「ある」が生じることの契機になる。
物質が消えてゆくことは、物質が生じることでもある。
人が死んで土に還れば、そこに美しい花が咲く……まあ、そんなようなこと。生きものが死んでゆかなければ、新しい生命が生まれる契機もない。何もかもが生きたままであるなら、この地球の生命現象はどんどん痩せ細ってゆく。生命の誕生は、生命の死の上に成り立っている。
第二次世界大戦におけるビルマのジャングルでの日本軍兵士の死は、そのままビルマのジャングルの生命現象のサイクルに還っていった。
命のはたらきは、命のはたらきが消えてゆくことが契機になって起こるのであり、息苦しくならない命のはたらきにおいて「息をする」というはたらきが起こることはない。空腹にならない命は、食うということをしない。
死に向かうことが、命のはたらきが起きる契機なのだ。命のはたらきは、死に対する親和性の上に成り立っている。
人の心のはたらきにおいても、「私」を忘れ「私」が消えてゆかなければ、ときめき感動するということも起きない。
かなしみを知らない心にときめきが起きることはない。
心のはたらきは、根源において、「消えてゆく」ことすなわち「非存在」に対する親和性の上に成り立っている。そうやって人々の心は、「あはれ・はかなし」の化身である初音ミクの歌や姿にときめき癒されている。