女の時代・初音ミクの日本文化論(23)

戦後日本の女の代表的なトレンドは、まずモガ(=モダンガール)と大和撫子の伝統を兼ね備えて「永遠の処女」と評された原節子にはじまり、60年代になって処女のひたむきさと愛らしさの象徴として吉永小百合がもてはやされ、高度経済成長が本格化した70年代から80年代にかけては処女のしたたかさを愛らしくまとった松田聖子をはじめとするさまざまなアイドルが咲きそろい、バブル経済がはじけた90年代ころからは高度経済成長を支えた男たちの既得権益と戦うジャンヌ・ダルクフェミニズム運動が高まってくると同時に叶姉妹のような大人の女の色気も評価されるようになってきたが、その沈静化と入れ替わるように初音ミクという「ロリータの女神」が登場してきた。
なんのかのといっても戦後日本は、「処女=ロリータとは何か」と問うてきたのではないだろうか。
まあ世界は、男も女も「成熟した大人の魅力」がトレンドの主流になってきたが、戦後日本の場合は、進駐軍マッカーサーに「日本人は十三歳から成長しない」といわれたのにはじまり、近ごろは「中二病」という言葉が流行ったりして、良くも悪くも「ロリータ文化」の国なのでしょう。
戦後の日本国憲法は、ひとつの「処女性」の上に成り立っている。すなわち思春期、現在の日本人はこの季節の通過の仕方を誤って「ネトウヨ」とか「メンヘラ」というような事態に陥ってしまっている。
日本列島の場合、成長することは、「大人になる」ことではない。「思春期の純潔を守って生きる」ことだ。初音ミクはこれを、「旅立つときにもどうか君のままで(『Birthday』より)」と歌っている。
中二病をこじらせた「ネトウヨ」は変に小賢しく大人ぶっているし、「メンヘラ」はひどく子供じみたり老人臭かったりしている。

ここでいう「思春期の純潔」とは「世界の輝きに他愛なくときめいてゆく」こと、それだけのことですけどね、それだけのことに日本列島1万年の歴史の記憶が宿っている。
そうして今、世界中で日本列島の「かわいい」の文化を注目するようになってきているということは、「思春期の純潔」が見直されているということであり、世界はもう「大人の知恵」ではどうにもならない、という気分が広がっていることの証しではないでしょうか。
現在の世界の女のトレンドだって、「男を向こうに回した意志的でしたたかな女」よりも「他愛ないときめきを持った無意識的で天然(ボケ)の女」というふうに変わってきている。このメルクマールになった映画は、2000年代初頭に上映された「ブリジット・ジョーンズの日記」という映画でしょうか。主人公は、まさにそういうタイプの女だった。このころからフェミニズムがしだいに退潮していった。アメリカの大統領選挙でクリントン女史が負けたのも、そういう時代の流れだったのかもしれない。
外国人にとって日本列島のロリータキャラについてのいちばん興味深い言葉は「ツンデレ」であるのだとか。うわべのキャラはツンとしていても心の奥に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を隠し持っている少女。外国にはそういう「隠す」文化の伝統がないからこそ、外国人に新鮮なキャラクターとして目に映る。
日本列島は、「隠す=隠れる」文化であり、初音ミクは「魂の純潔の女神」です。
まあ、「生き延びる能力を持った女」よりも「生きられなさを生きる女」のほうが魅力的だ、ということ。この生においては、「この生」すらも「隠れている」のだ。
「隠れる」とは、この生から超出してゆくこと。そうやってこの生は活性化してゆく。この生に閉じ込められたら、「満足」はあっても「ときめき」はない。「ときめく」とは、心が異次元の世界に向かって「飛躍」してゆくこと。
ともあれ初音ミクで盛り上がっているファンたちは、初音ミクのいる非存在=異次元」の世界に超出してゆくと同時に「隠れて」いったのです。そうやって自意識を消去していった。
女だけでなく、人として自意識の薄さが見直されてきているのかもしれない。
大震災等のいざというときに、略奪・暴動を起こす自意識と、粛々と助け合う自意識の薄さと、いったいどちらが「クール」であるのか、どちらが人としての自然であるのか、と問われている。
粛々と助け合う日本人は、ただ原始的なだけです。それが普遍的な人間性であることはまだ世界で広く気づかれているわけではないが、気づかれつつある気配もある。
というわけで日本列島の民衆は、革命を起こすことができない。国家のことには興味がないから、どんなに辛くても国家のせいにせず、自分たちで助け合ってゆこうとする。

まあ支配者と民衆とどちらの自意識が薄いかといえば、民衆のほうでしょう。
文明社会の歴史は、支配者が滅び交代してゆく歴史であり、とうとう「民主主義」という民衆が支配者になる段階にまで来た。で、最終的には何処に行き着くかといえば、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を支配者として仰ぐ時代がやってくる、ということでしょう。そしてそれは、この世のもっとも高貴なものは「魂の純潔」である、ということで、やまとことばでは「畏(かしこき)き」という。「最終的な」というようなニュアンスです。
「生きられないもの」こそこの世のもっとも原初的な存在であると同時にもっとも未来的な存在である、ということ。
文明国家の歴史は、メソポタミアの王にはじまって、なぜ支配者(支配階級)が滅んでゆくということがつねに起きてきたかというと、人間性の自然に「支配を否定する」という原理がはたらいているからでしょう。文明国家は支配によって成り立っているが、同時に支配はつねに否定されている。支配を否定することが、新しい支配の登場を生む。人類の歴史はそんなことを果てしなく繰り返しながら、とうとう民主主義に行き着いた。
人間性の自然は「支配する」ことではなく「献身する」ことにあり、支配者ははつねにそのことによって滅ぼされてきた。人類史を動かしているのは「献身=魂の純潔」であって、競争原理でも闘争原理でもない。そんなものは人間性の自然でもなんでもなく、文明社会のたんなる病理にすぎない。
日本列島の民衆社会では、支配社会に対してつねに民衆自身の「献身し合う」集団性の文化を守ってきた。そしてそれは、日本的というより、人類普遍の原始性なのです。
日本列島の天皇は、本質的には「生きられないこの世の・もっとも弱いもの」という性格を持って存在しているのであり、それが究極の「王」としての性格にほかならない。なんのかのといっても究極の「王」としての性格をそなえていたから2000年続いたのかもしれない。その気配はもう、「集団幻想」として誰もがなんとなく無意識的に気づいてしまう。つまり、その前に立てば避けがたく「畏敬」の念を抱いてしまう。本居宣長は「神」の本質を指して「畏(かしこ)き」といったが、天皇が漂わせているこの「魂の純潔」というか異次元的な気配はもう、天皇に会いに来た現在の外国人にもわかるのだとか。「世界でいちばん長く続いている王家だから」ということが理由なのではない、人は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の気配にこそ最大限の畏敬の念を抱くのです。

天皇が高貴かどうかは知らないが、「魂の純潔」は高貴です。
「支配者は倒される」というのが歴史の必然で、人間性の自然に「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいている。支配者は、「支配しない」ことに憧れつつ支配している。だから、支配することは被支配者である民衆に「献身」してゆくことだ、という思想が支配の変遷とともにつねに語られてきたわけだが、それは「支配しない」のが人間性の自然だからでしょう。
したがって最終的な支配者は、「支配されるもの=生きられないこの世のもっとも弱いもの」であらねばならない。もともと天皇は民衆に祀り上げられ民衆に支配されている存在だった。天皇は「魂の純潔」を表象している存在として祀り上げられてきたのであって、実質的な支配者としてではない。まあ天皇は、日本人が養い支配しているところの「支配されるもの」であり、じつはそれこそが永遠の支配者像なのだということを天皇が証明している。
誰だって生きられない赤ん坊は「かわいい」と思うし、生きさせてやろうと思うではないですか。日本人は、そういう気持ちで天皇を祀り上げてきた。
「かわいいの文化」のムーブメントは、天皇制の問題でもある。
日本人が天皇を祀り上げてきたのは天皇が「生きられないもの」として存在しているからであり、それは初音ミクを祀り上げる心映えとどこかで通底しているし、そういう「生きられないもの」に献身しようとする心映えはそりゃあ外国人だって持っている。
「生きられないもの」は、存在そのものにおいて人類に献身している。