大晦日の雑感

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といっても、べつに今年一年を総括しようというのではない。

だれだってつねに「今ここ」を生きているのだし、なんだかひどい世の中になってしまったものだなあ、と思うばかりだ。

というわけで、たいして変わり映えのしない前回の続きの雑感を書くことになる。

レイプ被害者の伊藤詩織を執拗にバッシングしてきた者たちは、天皇制の「男系男子」を主張している今どきの右翼でもあるらしい。

女とは男によって支配される存在であると考えている彼らにとってはもう、それが事実であるかどうかということ以前に、女がレイプの被害を訴えるというそのことが気に入らないのだろう。そしてそれは、「天皇とは民衆を支配するための道具である」という、大和朝廷の発生から太平洋戦争の敗戦までの1500年間続いてきたこの国の権力者の歴史の無意識というか本能のようなものでもある。

しかし戦後は民衆がみずから祀り上げる「象徴天皇制」になったわけで、それはまた、大和朝廷発生以前の天皇の存在の仕方に戻ることでもあった。だからそのとき、ほとんどの民衆はよろこんでその制度を受け入れたのであり、反対したのは明治以来の右翼帝国主義思想の持ち主たちだけだった。彼らにとって天皇は、あくまで人を支配するための道具であらねばならないのだ。

ただ戦後左翼のインテリたちは、民主主義とか市民主義の名のもとに、この「象徴天皇制」どころか天皇制そのものを否定していった。それはまあ彼らの大きな蹉跌であり、そうやって民衆の心から遊離してゆき、ここ2~30年の右翼の巻き返しを許す結果になった。

この国では、天皇制を否定したら、市民主義も民主主義も成り立たないのであり、そこのところを戦後左翼のインテリたちは何もわかっていなかった。55年体制などといってつねに自民党が与党であり続けたのも、けっきょく社会党をはじめとする野党が天皇制を肯定することができなかったからだ。

 

 

現在のこの国の民衆社会に、天皇制は是か非か、というような問題は存在しない。そして、天皇は「男系男子」であらねばならない、というこだわりもない。

右翼たちは「男系男子」の意味や価値を強調し、民衆はそこのところをなんにもわかっていないというが、民衆は天皇という存在にそのような通俗的で現世的な「権威」や「権力」など求めていない。天皇天皇であればそれでいいのだし、もっと異次元的で崇高な存在だと思っている。天皇は男とか女とかということを超越した「かみ」であり、大和朝廷発生以前の天皇は、奈良盆地の民衆の「祭り」におけるカリスマ・アイドルとしての「処女=巫女」だった。

「男系男子」ということに、いったい何ほどの意味があるというのか。天皇家がそのことにこだわって歴史を歩んできたわけではなく、権力者がみずからの権力の隠れ蓑としてそのことを必要としただけだ。

日本列島の伝統は、「家」の文化であって、「血」の文化ではない。江戸時代以前は、武士であろうと庶民であろうと家系を守るために血のつながりのないの養子の婿を取ることなどあたりまえのようにしていたし、それで「家」の格が落ちるということもなかった。いやそれは、明治以降も続いていることだ。

現在の天皇上皇が、「男系男子」にこだわっているのだろうか。

ひとまず前提としては、天皇にはこの世界の「生贄」になろうとする意思があるだけで、そのほかには何の意思もないことになっている。だから権力者は、天皇にさまざまなことを要求するし、民衆には「天皇と同じように国国家権力の<生贄>になれ」と迫ってくる。であれば、そこでわれわれ民衆の取るべき態度は、天皇と同じように世界や他者の「生贄」になろうとしつつ、権力者とは同じにならないことにある。だからわれわれは、天皇に何も要求しない。天皇天皇であってくれれば、それ以上の望むことなど何もない。天皇が男であろうと女であろうとどちらでもいいし、もともと天皇は女だったのだし、もともとどちらでもよかったから途中で男に変わっていったにすぎない。

大事なことは、天皇がこの世界の「生贄」であるということだ。

「生贄」とは「滅びゆく(=死んでゆく)もの」であり、「もう死んでもいい」という勢いをこの世でもっとも豊かにそなえているのは「処女」である。だから処女が「生贄」に選ばれるし、だから処女は「もう死んでもいい」という勢いで処女喪失をすることができる。処女喪失をすることができることにこそ処女の「純潔」がある。

「処女」は守らねばならないことでもなんでもない。守らねばならないのなら、セックスをして子を産み育てる生きものの世界なんか成り立たない。

 

 

「処女の自己否定」にこそ処女の存在の尊厳と純潔がある。処女とは「滅びゆくもの」であり、「滅びゆく」とをみずから抱きすくめてゆくことができるものである。そういう「処女性」にこそ、この世界の「生贄」である天皇という存在の本質と尊厳がある。

日本列島の民衆の心の奥に宿る「歴史の無意識」には、天皇がこの世界の「生贄」としていてくださる、という思いがある。そしてそれは民衆の中の「魂の純潔に対する遠いあこがれ」であり、天皇制を否定することはその心映えを否定することなのだ。だから戦後左翼のインテリたちがどんなにしつこく天皇制を否定しようと、多くの民衆はそのプロパガンダに洗脳されることはなかった。

「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を抱いて生きるのはいけないことなのか?それは、世界中のだれの心の中にも宿っているではないか。天皇制を否定することは、それを否定することなのだ。

戦後左翼が否定するべきだったのは、明治以来の右翼たちというか帝国主義天皇観であって、天皇制それ自体だったのではない。

70年代の高度計座成長で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「一億総中流」などといわれていたころ、その伝統的な相互扶助の集団性によって「日本は世界でもっとも成功した共産制の国である」などともいわれていた。そのころは大企業の社長といえども年収は2~3千万円くらいで、そんな平等に近いかたちの社会を維持できたことの基礎には戦後の「象徴天皇制」が機能していたはずだ。それは、西洋的な「平等」という概念=観念よりも、だれの中にも「天皇制のもとでの世界の<生贄>になろうとする歴史の無意識」がはたらいていたからではないかと思える。

日本列島の伝統としてのほんらいの天皇制は、けっして「差別の温床」ではない。明治以来の帝国主義がそのように変えてしまっただけなのだ。そして現在の右翼政権が新自由主義のもとでの「差別」や「分断」や「格差」を生み出しているのも、彼らの生来の支配欲が、天皇を民衆支配の道具にしてきた明治以来の帝国主義を信奉しているからだし、この国の民衆はもともと権力に対して無防備で支配されやすいメンタリティを持っている。そこに付け込んで今、あの醜悪な右翼たちがのさばっている。今や彼らはもう、「差別」や「分断」や「格差」を生み出すことが正義だと思っている。90年代後半から2000年代はじめにかけて一気に盛り上がってきた東京新大久保や大阪西成や朝鮮学校前での過激であからさまなヘイトデモは、右翼の権力者や知識人によって扇動されているものでもあった。

それらはけっきょく、戦後左翼が民衆の天皇を慕う気持ちを無視して天皇制そのものを否定してきたことのツケがここにきて一気に噴出してしまっている、という現象ではないかとも思える。

 

 

90年代初頭のバブル経済崩壊後の一時期は、テレビドラマやテレビアニメ等で、最後は「滅亡」に向かうというストーリーが大流行した。

日本列島の精神風土には、「滅亡」に対する親和性がある。「死=滅亡」を抱きすくめてゆく「処女=生贄」の心、まあそれだって天皇制の問題であり、そこからだれもがわが身を捨てて他者に献身しようとし合う集団性が生まれてくる。

セックスをするときの女は、どうしてあんなにも潔く「無防備」になれるのだろう。それはたぶん、処女が処女喪失をする「滅び」の体験のときからはじまっている。

天皇制の上に成り立つ日本列島の集団性の伝統は、その「潔さ=無防備」を共有してゆくことにあり、バブル崩壊の「滅び」の体験よってその伝統が一時的によみがえった。と同時に、そこに付け込んだ「右翼」のレイシズムや「新自由主義」のエゴイズムが野放しになっていった。

バブル崩壊によってこの国では、伝統の復活と崩壊の両方が起きた。そのとき「ジャパンクール」と呼ばれる「滅びの美学=処女性=かわいい」を基礎としたポップカルチャーが世界に発信されていったと同時に、国内では、皮肉なことに伝統を破壊する右翼が伝統主義を唱えて台頭してきたのだった。

つまり、バブル景気によっていったん生まれた「自己利益の追求」という流れはもう押しとどめることはできなかった、ということだろうか。そのときはみんなが競って「自己利益の追求」に走ることがひとまず社会のダイナミズムになっていたが、不景気になれば、それによってさまざまな「差別」や「分断」や「格差」が生まれてくる。民衆から搾取しなければ資本家の富は守れなくなったし、天皇制を否定してきた左翼は、右翼としての自己益を追求するものたちの攻撃によってどんどん衰退していった。そのころ平成天皇の人気が高まっていったこともあり、天皇を信奉することはひとつの正義だった。そうして右翼は、その正義をかさに着て徹底的に左翼を貶め辱めていった。

現在のネトウヨの態度でもわかるように、彼らはもう、どんなにあからさまな差別用語でも平気でこれでもかこれでもかと吐き散らしてくる。日本人としての「つつしみ」とか「はにかみ」というようなものはまるでない。この国の「伝統」はいったいどこに行ってしまったのか?

まあ今どきの右翼なんか、伝統の破壊者でしかない。戦後左翼が天皇制を否定したことによって、彼らをのさばらせてしまった。しかし起源としての天皇制は、大和朝廷の発生よりももっと遠い遠い昔の「原始共産制」から生まれてきたのであり、そこにこそこの国ならではの民衆の集団性の本質がある。

そして今や左翼だって天皇制を肯定しはじめており、もはや右翼とか左翼とかというカテゴリーは成り立たないのかもしれない。

日本列島の住民であるかぎり、「天皇制」も「共産制」も否定することはできない。日本列島1万年の伝統においては、「共産制」のよりどころとして「天皇制」が機能している。「共産制」とは「人と人が他愛なくときめき合い助け合う集団性」のことであり、そのためのよりどころとして遠い遠い昔に「天皇制」が生まれてきた。

この国に「天皇制」が存在するということは、民衆の心の中には歴史の無意識として「原始共産制」の関係性や集団性が今なお息づいているということを意味する。

 

 

「男系男子」にこだわることこそ、伝統の破壊なのだ。

民衆の中の歴史の無意識においては、すでに「愛子天皇」を歓迎している。それは、今どき流行りの「フェミニズム」などというものとは何の関係もない。それは民衆の中の「原初の記憶」であり、人類700万年の歴史の99・9パーセントは「女系社会」だったのだ。

今どきの右翼のインテリたちは「民衆は何もわかっていないからそんな愚かしいことを考える」などというが、だったらそれをきちんと説得してみせればよい。おそらく、戦後左翼が天皇制の否定をついに説得できなかったのと同じ結果になるにちがいない。「男系男子」にこだわるその錯誤が、この先の右翼の退潮をもたらすことだろう。

伊藤詩織レイプ事件で山口敬之が敗訴したことだって、右翼の退潮のきっかけのひとつとなる現象かもしれない。彼は「どうかやらせてくれ」とひざまずいて懇願するべきだったのだ。女に「赦される」ことこそ、男という生きものの普遍的な願いである。生きもののオスは、必死に「求愛行動」をするではないか。生きものの世界に「レイプ」などという行為は存在しないし、必死に「求愛行動」をすればメスが赦してくれるような仕組みになっている。

まあ、女に赦してもらったことのない男が伊藤詩織をレイプした。

天皇は「男系男子」であらねばならないだなんて、天皇に対しても民衆に対しても「レイプ」を仕掛けてゆくようなものである,し、明治以来の帝国主義天皇制それ自体がそうした「レイプ」を正当化する制度だった。

現在の政権は民衆を「レイプ」する政策をためらうことも恥じることもなく繰り返しているし、上は総理大臣から下層のネトウヨまで「レイプ」の衝動が渦巻いている。彼らにとっては「レイプ」をすることが正義の証明だというような思い込みがある。

伊藤詩織勝訴の判決は、高裁でひっくり返されるのだろうか?素人の僕にはわかる由もないが、現在の社会システムそのものが人々の心を「レイプ」する仕組みになっている。

「レイプされない」ことは、「拒否する」ことではなく、「赦す」ことだ。拒否するからレイプされるし、レイプしようとするから拒否される。支配することだってひとつの「レイプ」だし、現代社会はこのような「関係の不可能性」に覆われてしまっている。

「セルフリスペクト」という近代の病……自分には生きている価値があり、生き延びたいと思う……それ自体が病なのだ。それは、人間の本能ではない。原始人は、そんなことは思わなかった。生きてあるのはしんどいことであり、自分のことなど忘れて世界や他者の輝きにときめいていった。そうやって他者に対して「生きていてくれ」と願い、他者からは「生きていてくれ」と願われている。原始時代は、そういう関係性の上に集団が成り立ち、生きてあることが可能になっていたわけで、だれも自分の命のことなんか考えなかったし、だから死ぬのも怖くなかった。

われを忘れて何かに熱中してゆくこと、それが人間性の自然・本質であり、それによって人類の歴史は目覚ましい進化発展を遂げてきた。

つまり、原始時代はだれもが「赦されていた」ということだ。人と人の関係は「赦す」ということの上に成り立っている。

この世界のすべては許されている……それが、この世界が存在することの前提であり、人が生きてあることの前提であり、べつに「生き延びたい」と思うからでも「自分には生きている価値がある」と思うからでもない。

自分なんか生きる値打ちもない人間のクズだ、と思って何が悪い?それが人間性の自然・本質なのだもの。そう思うから自分を忘れて何か熱中できるのだし、他者には「生きていてくれ」と願ってしまうし、この世界のすべてを赦すこともときめくこともできる。

 

 

だれもが「赦し合う」社会にならなければ「レイプ」はなくならない。だれもがときめき合い赦し合う社会なんか永遠に実現するはずもないのかもしれないが、そういう社会を思い描くことは今すぐできる。それがここでいう「魂の純潔に対する遠いあこがれ」であり、そのための形見として天皇が存在している。今どきの右翼はそういう「想像力」や「思考力」や「人恋しさ」が欠落しているわけで、それは彼らの天皇観や歴史観そのものがまちがっているからだ。彼らは、深層心理において「レイプ」を肯定している。右翼思想とは「レイプ」の論理だ、ともいえる。だから、伊藤詩織事件が持ち上がったときに、こぞって山口敬之を支持した。彼らは、みずからの「レイプ」の衝動を満たすために、天皇を崇拝し利用している。そうやって天皇を「レイプ」しているし、その衝動によって戦時中は東アジアの諸国を侵略していった。

今どきの右翼たちは、天皇は「男系男子」であらねばならないという、その天皇に対するレイプ衝動とともに山口敬之を擁護していった。

まあ、そのレイプ事件のなりゆきがどうのこうのという以前に、「女に赦してもらえなかった」という時点で、すでに「レイプ」は成立している。「レイプ」であるか否かの境目の判定は難しい。けっきょく「女が赦したかどうか」なのだ。

原初、すべての男は女に赦されていたし、女が赦してくれなければセックスをしようとしなかった。「女に赦されない男」が現れてきたということは、「支配」という関係に取りつかれた文明社会の病である。人類社会の歴史は、すべての男が赦されている社会としてはじまり、すべての男が赦されている社会を究極の未来の理想として思い描いている。

その理想を、現在のこの国の民衆は「愛子天皇」に託している。

「愛子天皇待望論」には、今どきの右翼が考えるよりもずっと深い歴史意識がはたらいている。

僕は、三島由紀夫だろうと江藤淳だろうと小林秀雄だろうと西部邁だろうと、そうした有名知識人のさかしらな天皇論よりも、名もない民衆の心の奥に潜む純粋無垢(プリミティブ)な歴史の無意識から学びたいと思っている。

 

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