「ねこランド」と「色ごとの文化」

正月はめでたい、といいたくもあり、いえそうもなし、おらが春。

去年の暮れの主な関心事は、伊藤詩織レイプ事件の判決と、安富歩氏のツイッターでちょっとした炎上騒ぎが起きたことだった。

安富氏のツイッターはもともと荒れ模様のところがあり、れいわ新選組の支持者からも批判的な書き込みをされており、それに対してもつねに憎まれ口のような調子でやり返していたわけだが、とうとう堪忍袋の緒が切れたといわんばかりに「そんなに私のことが気に入らないのなら、もう選挙には出ない、政治活動もしない」というような意味のことを宣言してしまった。

発端は、どうやら安富氏が猫が自由に外を歩き回ることができる「ねこランド」の構想をツイートしたことにあるらしいのだが、もともと安富氏に反感を抱いていた連中がここぞとばかりにとびかかかってきた。

べつにそれくらいの軽口をたたいたっていいではないか。どうして大げさに騒ぎ立てるのか。安富氏は、それが実現可能な政策かどうかということ以前に、人としての根本的な精神=心映えの問題を語っているわけで、鹿がたくさん群れている奈良公園などはまさに「鹿ランド」だろうし、野生化したたくさんのウサギが観光客のまわりに集まって来るという瀬戸内海の小島は「ウサギランド」で、長野県には猿が集団で温泉につかっている「猿ランド」がある。もしも原宿のオープンカフェのテーブルに雀が飛んで来てお客の女の子がクッキーのかけらを与えてやるというような景色があれば、それはとても素敵なことではないか。そうやって人間と動物が、支配と被支配の関係ではなく、もっと自然な「無主・無縁」の共生関係をはぐくんでゆく精神や社会のことを安富氏は言いたかったのだろう。

まあオールド左翼の支持者がストーカーのように候補者につきまとって支配しにかかるというのは、よく聞く話だ。それはもちろん第一義的にはこの社会のシステムの問題だが、戦後以来ずっと敗北続きの左翼勢力の積年の恨みや唯我独尊的過剰な自意識ということもあるのだろう。彼らは、民衆よりもずっと知識や教養が高いつもりなのに、少しも民衆を説得できないし尊敬されることもない。そしてその苛立ちが、自分よりもっと知識や教養が高いものに対するコンプレックスや嫉妬になってゆく。

ともあれ安富氏は一流エリートの世界で生きてきた人で、そういう「システムの暴力性」を脳にしみこませた人間たちがこの社会を動かしているということに対するやりきれなさが骨身に染みついている。だから、「勝手にやってくれ」とやり過ごしてしまうことができないし、「嫌われ者」になってでもそういう連中を蹴散らすのが自分の役目だとも思っているのだろう。

安富氏だって山本太郎からぜひにと請われて選挙に出ただけで、積極的に出たがっていたわけではない。出れば自分の研究を中断しなければならないのだから、政治活動を続けることに対する迷いは最初からずっと抱えていたにちがいない。それでも乗り掛かった舟だからという義侠心で自分の意思を脇に置いて続けていたのに、よりによって身内から「支持してほしかったら俺のいうことを聞け」といわんばかりの恩着せがましいいちゃもんが集中砲火のように殺到してきた。

で、ほとほと嫌になってしまったらしい。

その気持ちは、わからなくもない。

敵に対しては戦意を掻き立てられても、身内のそんな態度にはうんざりして途方に暮れてしまうばかりだろう。必死にこらえていた気持ちの糸が、ぷつんと切れてしまった。

今回安富氏に攻撃を仕掛けていったオールド左翼の中にはそんな唯我独尊的な傾向を持った者が多く、自分こそ選ばれるべきであるのに頭の上を越されてしまった、という嫉妬を抱いていたりする。

そうやって「支持者」が「候補者」に命令し支配しようとする……この構図に、安富氏はうんざりしてしまった。このことを彼は「個人のうちに埋め込まれたシステム的暴力性」というような言い方をしていた。この文明社会というか近代社会の「支配のシステム」が個人の内面に埋め込まれてしまっている、ということだろうか。そうやって彼らは、「権力と戦う」という大義名分のもと、内面的にはけっきょくのところ時代に踊らされ社会のシステムに組み込まれて生きているだけなのだ。今どきの右翼はもちろんのこと、そういう左翼も吐いて捨てるほどいる。

右も左もうんざりだ、ということだろうか。そしてそれはまた、政治の世界にかかわっているだけではどうにもならない、ということだろうか。もっと根源的なところで変わっていかないことには新しい時代は生まれてこない、ということだろうか。

それが、安富氏のいう「子供を守る」ということだろうか。それはもう、その通りだと思う。

僕はもともと政治オンチだし、政治の実際的なことは自分が魅力的だとか信頼できると思った人にまるごと託して見守りたいと思っているだけだ。

僕は安富氏のことを、自分よりもはるかに清純で聡明で感受性の豊かな人だと思っている。ただ、「貨幣の起源と本質」のこととか「論語の解釈」のことには大いに異論がある。だから研究者としての安富氏により大きな興味といささかの不満があり、できることなら政治よりも研究のほうを優先してほしい。そうしてできることならいつか、自分の中でもやもやしているこの疑問・異論を問いただしてみたいと思ったりしている。

ともあれ安富氏は、学問の研究には熱心だが、自分のホームグラウンドである東大という「研究者の世界」にも大きな幻滅を抱えている。行くも地獄、帰るも地獄……そのようにして彼は「政治の世界」と「研究者の世界」のはざまに立って立ち往生しており、そこで思い描いたのが、「子供を守る」という世界であり、「ねこランド」という世界だ。すなわち支配と被支配の関係のない「無主・無縁」の世界、その他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」の世界こそがこの国伝統である「色ごとの文化」であり、おそらく彼は今、その「祭りの賑わい」が起きるきっかけをこの世の中に対してどのように仕掛けてゆくかと思案しているのだろう。

今どきの右翼や左翼が振りかざすような、何が正しいかとか間違っているかとかというようなことではない。みんなで「新しい時代」を夢見ながら盛り上がってゆくことができればそれでよいのだし、それが「色ごとの文化」の伝統なのだ。

 

 

 

そして伊藤詩織レイプ事件のことには、日本列島の男と女の関係の伝統について考えさせられた。何しろ「色ごとの文化」の伝統の国なのだ。西洋のほうがレイプに対する司法の考え方が進んでいるといっても、それだけレイプが起きやすい歴史を持っているからだし、また、だからこそレイプを厳しく禁止する宗教的な土壌に深く根を下ろしてもいる。それに対して日本列島は、もともと「色ごと」に対しておおらかな歴史を歩んできたし、そのぶんレイプも少なかった。

レイプが少ない国だから、司法の裁きも遅れているのだろう。しかし、今やそういう伝統も怪しくなってきていることの象徴として、伊藤詩織レイプ事件が起きたのかもしれない。考え方も生活スタイルも、何かと洋風になってきた。

レイプに対する「禁制」の意識が強いからレイプが起きやすくなる、ということもある。

日本列島の伝統においては、女は男に従順であるのではなく、男を「赦している」のだ。また、「赦している」から、従順になる習慣も生まれてくるのだし、それは宗教的な「戒律=禁忌」が緩やかな土地柄だからだ。

この国のフーゾク産業では、女はかんたんに裸になってくれるが、それでも最後の一線は越えてはいけないというようなルールがあったりして、それが守られているのは女が「赦している」という気配を持っているからだろう。つまり、「太陽と北風」の話のようなことで、これもまた安富氏のいう「ねこランド」のように、男と女が支配と被支配の関係ではなく、たがいに裸一貫の「無主・無縁」の関係になろうとする「色ごとの文化」の伝統の問題だ。

女に「赦されている」からレイプをしない。「赦されていない」からレイプをしてしまう。

あの山口敬之という男はきっと、女に「赦されていない」人生を生きてきたのだろう。それは、女性体験が多いとか少ないとかというような問題ではない。あくまで「感覚的」にだが、「女に赦されている」という視線を感じたことがなく、そういうルサンチマンで、心の底にいつも女に対する攻撃的戦闘的な緊張感がくすぶっているのだろう。そうして、とくに美人を前にするとそれが一気に吹き上がる。なぜなら美人は、この世でもっとも自分を「赦していない」存在だからだ。

男は自然の本能として「やりたくてたまらない」存在であり、女は根源においてそれを許している。生きものの世界はそのようにして成り立っている。それが、文明制度とともにどのようにゆがんでいったか、それでもどのように維持されてきたか、そういう問題があるように思える。

生きもののメスの本能は、オスを赦している。四方を荒海に囲まれた日本列島の「色ごとの文化」の伝統はそういう自然をより豊かに残してきたからこそ、たくさんのレイプの被害者の女が泣き寝入りをするほかない歴史を歩んできてしまった。

この国の司法がレイプの裁きを厳しくしてこなかったのは、女の「赦す」という本能に甘え、さらにはそこに付け込んできたからだ。

そしてこれは、レイプ事件だけの話ではない。われわれ民衆が明治以来の大日本帝国にレイプのように支配されてきたのも、この国の民衆社会には権力社会を本能的に「赦してしまう」歴史の無意識が流れており、そこに付け込まれてしまったのだし、現在もまた付け込まれながらあの醜悪極まりない政権の支配のもとに置かれ続けている。

伊藤詩織レイプ事件の判決は、われわれ民衆が、だれも「赦されていない」この状況からだれもが「赦されている」新しい時代状況に向けて解き放たれるきっかけになるだろうか?

そういう「無主・無縁」の「祭りの賑わい」が盛り上がってくることが待たれる。

 

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