桜と天皇と右翼と

桜を見る会」の買収疑惑は、ロッキード疑惑のような政治権力の変わり目になるのだろうか。ロッキード疑惑よりもスケールは小さいが、なんといっても桜は日本人にもっとも愛されている花であり、そんな桜の清らかな美しさを汚されたという思いはだれの中にもあるのかもしれない。それは、日本人にとって桜の花とは何か、ということを改めて考えさせられる問題でもある。

この世でもっとも清らかで美しい桜の花の下で、この上なく醜悪な俗物たちの浮かれ騒ぎがなされていた。

買収という行為はたしかに犯罪だが、因果なことに人はそれをしんそこ否定してしまうことはできない。良くも悪くも「贈与=ギフト」の心というか生態はひとつの人間性の本質であるのだから、醜いとは思っても、「許せない」というほどの怒りはわいてこない。われわれは、怒るのではなく、その醜さにしんそこうんざりすることができるだろうか。

今どきの右翼は、天皇制をはじめとするこの国の伝統をことごとく汚してくれている。「万世一系」も「男系男子」も「神武東征」も権力社会が勝手に捏造したどうでもいい話で、民衆のあずかり知らぬことだ。

もともと起源としての天皇は、女すなわち処女の巫女だった。

おそらく天皇は、大和朝廷が生まれるよりもずっと前の弥生時代後期の奈良盆地にすでに存在していた。そのころは乱婚社会で、子供の父親がだれであるかということなどわからなかった。したがって、「男系男子」などという概念は存在しなかったし、ただもう美しくあでやかな「処女=思春期の少女」が集団運営のための象徴的存在として祀り上げられていただけであり、そういう伝統があったからみんなで桜を愛でるという習俗も生まれてきたのかもしれない。

桜の花は、はかなく美しくあでやかな「処女=思春期の少女」のようだ。

 

 

猿の社会は、もっとも力の強いものがボスとして集団の頂点に君臨している。しかし猿から分かたれた人類の原始社会においては、力の強い支配者ではなく、人と人のときめき合い助け合う関係を活性化させてくれる存在がリーダーとして祀り上げられていった。それが、「原始共産性」の集団をいとなむときにもっとも有効だった。すなわち原始人は、強い力にひれ伏すことによって集団を成り立たせていたのではなく、「ときめき」の対象としてのあでやかに美しく輝いている存在(=女)をリーダーにしていったのだ。

戦争と呪術と権力支配の上に成り立った文明国家が生まれるまでは、世界中どこでも「女」がリーダーだった。そして四方を荒海に囲まれた日本列島では、いつまでも文明国家が生まれることなく、ずっと「原始共産制」の社会をそのまま洗練させて歴史を歩んできた。大和朝廷というひとまず文明国家らしき政治支配が生まれてきたのは、大陸よりも数千年後のことだった。

起源としての天皇大和朝廷成立以前の「原始共産制」の社会において存在していたのであり、とうぜん女がリーダーとして祀り上げられる時代だった。そのころの乱婚社会においてはだれが子供の父親かということなどわかるはずもなかった。したがって父親のいる「家族」などというものはなく、「母子関係」があっただけだ。つまり「家」は女のものだったわけで、すべての男は女=母に支配される存在だった。であれば、女以外に集団のリーダーになるべき存在はいないではないか。そんな時代から起源としての天皇は存在していたにちがいなく、であれば「男系男子」などということは、まったく意味がない。

小林秀雄は、天皇制を肯定する理由として「誰だって天皇に対しては心の底の深いところにある種の<懐かしさ>のようなものを抱いているではないか」といったが、しかしそれは、大和朝廷発生以来の歴史の無意識としての「懐かしさ」ではない。だれかが「原初、女は太陽であった」といったように、原初以来の人類の集団性の原型に対する、さらに遠く根源的な「なつかしさ」なのだ。

「男系男子」なんて、ほんとにくだらない。天皇は、原始的な「母系社会」から生まれてきたのだ。

 

 

やまとことばでは、「処女=思春期の少女」のことを「たをやめ」という。「たをやかな女」ということだろうか。「やまとごころ」とは「たをやめぶり」のことだといったのは本居宣長で、桜の花のあでやかな美しさを「たをやか」=「たをやめぶり」ということもできる。それが日本列島の美意識の伝統であり、天皇制の伝統でもある。

 

敷島のやまとごころを人問わば朝日ににほふ山桜花(本居宣長

 

「朝日ににほふ山桜花」なんて、まさに「処女=思春期の少女」のあでやかさというか「たをやかさ」だろう。

天皇とは「たをやかな人」のことであり、「男系男子」というレッテルなどどうでもいい。歴史的には、天皇はまず「女」としてはじまり、そのあとどちらでもよくなっていった。それだけのことで、天皇天皇であればそれでよい。

「たをやかな人」という形容は、男にも女にも当てはめることができる。まあ「清らかで優雅なたたずまいをそなえた人」というようなニュアンスだろうか。

とにかく、天皇に対して「万世一系」とか「男系男子」というような「レッテル=権威」を張り付けてしまうことによって、かえって天皇であることの本質から乖離してしまう。

天皇は、存在そのものにおいて「たをやかな人」である。「レッテル=権威」などどうでもいい、世界や他者の存在そのものを祝福してゆく、その「たをやめぶり」こそが日本列島の伝統精神(=やまとごころ)なのだ。

であれば、明治以来の天皇制や国家神道がいかに日本列島の伝統から遠いかがわかる。

醜い総理大臣が、「たをやかな」桜の花の下で浮かれ騒いでいる……そうやって彼らはこの国の伝統を汚している。

森友疑惑の籠池なんとかという人物も現在の総理大臣もどうしようもなくインチキで醜悪な右翼であり、それでも日本人かといいたくなるのだけれど、そういう人間たちが跳梁跋扈できる時代状況があるらしい。醜悪であるのは、彼らだけではない。少なくとも権力社会においてはそれが伝統であり、いつだってそういうものたちが多数派であったのだろう。そしてその傾向が今や民衆社会にも及んできているとしても、民衆社会の伝統はあくまで、「たをやかな人に対する遠いあこがれ」を共有しつつ他愛なくときめき合ってゆく、その「たをやめぶり」にあり、そのようにして起源としての天皇が遠い昔の奈良盆地から生まれてきたのだ。

 

 

前回のこの記事では、「原始共産制」は人類の集団性の起源であると同時に究極のかたちでもある、と書いた。「伝統」とは過去を記憶してゆくことであると同時に、究極の未来を目指すことでもある。すなわち「伝統」とは「普遍的」であろうとすることであって、ただ過去を懐かしんだり地域の独自性を守るというようなことではない。

天皇制の伝統とは天皇が存在するということにあるのであって、「万世一系」も「男系男子」もどうでもいい。なぜならそれはたんなる「たてまえ」であって、「事実」ではない。「天皇制を守ってきた」というその「事実」だけが「伝統」であるし、それ以上に守るべきものもない。

人類700万年の歴史の99・9パーセントは父親がだれかということなどわからない社会をつくってきたのであり、それでどうして「男系男子」が「伝統」になりうるのか。

天皇制は「原始共産制」の形見として生まれてきたのであり、永遠の未来の「共産制=民主主義」の形見でもある。人類の集団性の歴史が「共産制」としてはじまったということは、人類の集団性の歴史はつねに「共産制」から照射されている、ということであり、その継続性を「伝統」という。

ソ連崩壊とともに共産主義は資本主義によって淘汰された、などという意見も多いが、現在は資本主義の弊害がさまざまに現れ、新しい共産主義としての「社会民主主義」の潮流が生まれてきており、人類は「共産制」を忘れてしまったわけではなく、たかだか300年の資本主義が普遍的な人間の集団性だと決めつけることはできない。

人類700万年の歴史の、699万年以上が「共産制」だったのだ。たとえ現在が資本主義全盛の世の中だとしても、人間の集団性の根源には、だれもがときめき合い助け合う「共産制」が息づいている。

この話をはじめると長くなってしまうから結論だけを言えば、貨幣の本質は資本主義的な「交換」の道具としてあるのではなく、ただもう一方的な「贈与=ギフト」の形見であることにある。すなわちその「贈与=ギフト」の精神が「原始共産制」を成り立たせていたのであり、それはもう、この国の民衆が桜の花のあでやかな美しさを祝福する心映えや天皇を祀り上げる心映えとも根源においては同じである。またそれが一方的な「贈与=ギフト」の形見だからこそ、贈収賄のようなやっかいなことも起きてくる。

桜の花は、ひとり部屋の中で見るような対象ではない。外に出てみんなで眺め、みんなの心が華やいでゆくことを起こさせる花である。「原始共産制」だって、そういうみんなの心が華やいでゆくという体験がなければ成り立たない。桜の花もまた、天皇制と同様に、「原始共産制」を成り立たせるための形見なのだ。

日本人は、けっして2000年前の「原始共産制」を捨てていない。それは、縄文時代以来長く維持され洗練されてきた集団性であったわけで、今なお日本列島の歴史の通奏低音として民衆社会に残されている。

まあこんなややこしい問題を僕ごときが語るのはまことに分不相応なことではあるのだが、あえて言ってしまえば、人類にとって共産主義は捨て去られたものではなく、「再救出」されようとしているものであるらしく、そうやって世界では今、「社会民主主義」の潮流が生まれてきているのではないだろうか。

断っておくが僕は左翼ではないし、今どきのレイシズム丸出しの右翼だってそれ以上に醜悪きわまりないと思っている。ただもう、この国の真の伝統としての天皇制のかたちを取り戻せないものかと願っているだけだ。

おそらく人類は、人類史の集団性の「伝統」として永遠に「共産制」を意識し続けてゆくのだろうし、天皇制もまた、起源であり究極でもあるところの「原始共産制」の問題にほかならない。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

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