天皇を民衆のもとに取り戻す

現在のワイドショーの中心的な話題は、安倍晋三による「桜を見る会」の買収疑惑と沢尻エリカの薬物使用疑惑の二本立てであるらしいが、まあ一般的な視聴者の関心は沢尻エリカのほうにより多く集まっていることだろう。

そりゃあ「桜を見る会」疑惑だって大きなスキャンダルには違いないが、安倍晋三がそれくらいのことをする人間であるのはすでにだれもがわかっていることで、それによって与野党逆転政権交代が起きるとは考えられない。最悪でも総理大臣が交代すればいいだけのことだろうし、このまま総選挙になって野党が勝てるほど世の中は甘くはない。

次期総理大臣候補が枝野幸男では、民衆の気持ちは盛り上がらないし、したがって投票率も上がらない。彼には、それにふさわしい「華=セックスアピール」がなさすぎる。民衆はそれによって投票に行くのであり、政策が正しいかどうかはたいした問題ではない。

もしも与野党逆転の機運が盛り上がるとしたら、山本太郎野党共闘のリーダーになったときだけだろうし、そんなことを旧民主党勢力が納得するはずがない。

というわけで、このまま自民党政権が崩壊する可能性は限りなくゼロに等しいし、総理大臣が変わっても現在の世の中のひどい状況というかしくみはほとんど変わらない。いぜんとして対米従属と大企業優先と弱者切り捨ての新自由主義とやらの政策が維持されてゆくのだろう。

現在の野党に必要なものは、正しい政策でも自民党の失政でもなく、みずからが「華=セックスアピール」を持つことなのだ。

また、「市民連合」という左翼的な学者を中心とするグループが現在の野党共闘の接着剤になっているらしいが、彼らがほんとうに「市民」の代表になりえているかといえば、必ずしもそうではない。彼らがこだわるのは学術的な「政策」のことばかりで、「市民=民衆」を結束させるためには何が必要かということをわかっていない。学問オタクたちの正義・正論だけで民衆の心を動かせるわけではない。彼らは、「市民」を名乗りつつ「市民の心」から乖離してしまっている。だからそこから置き去りにされた無党派層の「市民」がたくさんいて、そういう人たちが今、山本太郎率いるれいわ新選組に熱い思いを寄せている。とくに今、庶民の女たちの心をもっとも熱く揺さぶっているのは山本太郎とれいわ新選組なのだ。

 

 

現在、「市民=民衆」の心にはたらきかけることができる政治家は、山本太郎をおいてほかにはいない。政治家としての安倍晋三を「ヒール」役のプロレスラーに例えるなら、山本太郎は正統的なストロングスタイルであり、彼の政治家としての資質の鮮やかさは、アメリカのニュース雑誌の表紙になったりもして、今や世界中からも注目されつつある。

われわれ人類の希望は、そうした熱い心を持った正統的な政治家を同様の熱い心で支持する民衆がこの地球上にまだ存在しているということにある。すなわちそれは、だれもがときめき合い助け合う社会であればと願う熱い心がこの世界にまだ息づいている、ということで、それなしには民主主義の未来もない。

民衆にとっては、共産主義と資本主義のどちらがいいかということなどわからない。今どき「共産党アレルギー」などというのは、知ったかぶりの右翼的政治オタクやそれに洗脳された連中ばかりで、民衆社会におけるそんな反応はどんどん薄れつつある。戦後の進駐軍によってそうした洗脳工作もなされ、「共産党」という名称のイメージはずいぶん貶められてきたが、それでも共産党の活動とそれに対する支持は一定数定着していった。

マルクスが歴史的に偉大な哲学者であることは今や世界中で合意されており、そのへんの凡庸でちんけな右翼思想家よりもマルクスのほうを信用するという人がこの世にいくらでもいるのは当然のことだろう。

今や共産党アレルギーは、右翼の連中がいうほど強くはない。現在の腐りきった自民党より共産党のほうがずっとましではないか……と多くの民衆が思いはじめている。

そもそも日本列島の伝統的な精神においては、共産主義にアレルギーを起こすような要素はない。右翼が好きな本居宣長だって「民衆の窮状は自己責任ではなく為政者の責任であり過ちである」といっている。

まあ人類の歴史は「原始共産制」としてはじまったのであれば、それが人類の本質的な集団のかたちだとイメージされるのは当然のことだし、そもそもこの国の天皇制は「原始共産制」の集団から生まれてきたのではないかということをだれも考えようとしていないのは、僕としては大いに不満である。

 

 

社会民主主義の「大きな政府」論と新自由主義の「小さな政府」論……30年前のソ連共産主義の崩壊とともに東西冷戦が終結し、資本主義社会の正当性が謳歌される時代になって、資本主義がグローバル化新自由主義へと暴走してゆき、現在は経済格差等のさまざまな弊害が生まれてきている。そうして世界は、ふたたび共産主義的な「社会民主主義」が見直されるようになってきている。

資本主義を全面的に肯定し、「金儲け=利潤追求」が善か正義のようになってしまうと、とうぜんそれに邁進できる者とできない者との間に格差が生まれてくるというか格差が大きくなってしまう。

そりゃあだれだってお金は欲しいが、「金儲け=利潤追求」が「人間の本能=人間性の本質」だというわけではない。下層の庶民は金欲しさにいやいや仕事をしているだけで、その金儲けの仕事が生きがいやよろこびであるわけではない。できることなら酒を飲んだりセックスしたり遊び呆けて暮らしたいわけで、それこそが「人間の本能=人間性の本質」だといえる。金を稼がないと生きていけないから、いやいや金を稼ぐ仕事をしているだけだ。

金儲けをしたければすればいいのだけれど、それに邁進することが善だとか正義だとか人間性の本質だといわれると困るわけで、新自由主義の社会ではそれが善であり正義であり人間性の本質だということになっている。

サッチャーレーガン以来の新自由主義の流れをせき止めて社会民主主義をとりも同そうとする現在の動きは、人間性を取り戻そうとする動きでもある。

未来がどうなるかということなどわからない。しかし人間が人間であるかぎり、人間性に添った動きは必ず生まれてくる。それが、「経済格差の是正は国家が責任を負わねばならない問題である」という社会民主主義の動きであり、その動きの中で山本太郎とれいわ新選組が登場してきたわけで、それはまた「人間は世界の輝きを祝福している存在である」という認識の上に成り立ったこの国の天皇制の問題でもある。

 

 

今どきは右翼も左翼も、天皇制の問題を、肯定するにせよ否定するにせよ知らず知らず明治維新から昭和の敗戦までのこととして考えてしまっている。しかしそれは、ほんとうの天皇制が機能していなかった時代なのだ。

天皇制の本質を問うなら、その「起源」にまでさかのぼって考える必要があるし、もちろんそれは「神武東征」がどうのという問題ではない。あんなものはただの作り話にすぎないことを、みんな知っている。

起源としての天皇は、大和朝廷という権力組織が生まれるずっと前から存在していた。それはもう古代の大和朝廷だって自覚していたわけで、だから「神武東征」という話を捏造した。清和源氏とか桓武平氏とか落人伝説とか、家系を捏造するのはこの国の伝統なのだ。

というわけで、天皇の起源を弥生時代にまでさかのぼって考えようとするようになり、「卑弥呼」がその人だといわれることもあるが、「卑弥呼」なんて実在したかどうかわからないし、「呪術師」だったという説も、魏志倭人伝に書かれたたんなる憶測というかまた聞きの話にすぎない。

みんな嘘だ。

起源としての天皇は、いったいどんな人だったのだろうか?右翼も左翼も、もっと虚心になって弥生時代奈良盆地に推参するということを試みなければならない。

弥生時時代の始まりがいつからかということはいろいろと議論があるが、どう長く見積もっても2500年前以上ということはない。そして日本列島最初の大規模都市集落を奈良盆地纏向遺跡だとすれば、そこはいつからそんな規模になったのだろうか。

縄文時代奈良盆地はほとんどが湿地帯で、都市集落が生まれてくるような場所ではなかったし、弥生時代を通してもそこが完全に干上がることはなかった。すっかり干上がったのは、気候の寒冷乾燥化や干拓事業等が進んだ古墳時代後期になってからのことだ。したがって纏向遺跡はできて間もない都市集落で、王朝という権力組織が生まれてくるような歴史を持っていなかったはずだ。つまり「原始共産制」の都市集落であり、そこから起源としての天皇が生まれてきた。そのとき天皇は、「原始共産制」の都市集落をいとなむための「形見=象徴」として人々から祀り上げられていったのだ。

まあ纏向遺跡はまだ集落跡が発見されていないわけで、そこに都市集落があったかどうかもわからない。そこは山裾の大きな川の三角州のような場所で、もしかしたら「祭り」や「市」などのイベントが常時催されているだけの場所で、人々はまだまわりの山の上に集落をいとなんでいた可能性もある。

弥生時代奈良盆地は、ほとんどの場所がいったん川が氾濫すればたちまち水浸しになってしまうような状態で、おそらくまだまだ都市集落をつくれる場所ではなかった。つまり、まわりの山々にたくさんの集落が点在し、そこから中央の平地に人々が集まってきて「祭り」や「市」を催していたのかもしれない。そこに配置された大きな高床式の建物を歴史家は王朝跡だというのだが、まわりに支配の対象としての集落のない、そんな非効率的な支配の仕方があるのだろうか。それでは監視することも束縛することも君臨することもできないではないか。その建物が高床式であるのは水に浸かってもいいようにしているのだろうし、居住者は、おそらく支配者ではなく「祭り」や「市」を運営する者たちで、「倉庫」の役割も兼ねていたにちがいない。

纏向遺跡にある奈良盆地最古の巨大前方後円墳といわれている「箸墓古墳」の外濠は、氾濫した水を一か所に集める溜め池の機能も持っていたと考えられる。

とにかくそこは「原始共産制」なのだから、支配者などいなかったし、王朝もなかった。まあたくさんの小集落が広い地域に点在している状態であるのなら、ひとつの王朝が支配し監視するということは不可能だ。ただ、その中心の平地で「祭り」や「市」が催されれば人々の連携の関係が育ち、原始的な共産システムが生まれてくる。

その連携の集団というかネットワークには「支配者」がいなかったからこそ、その連携=ネットワークの「形見=象徴」として、祭りの主役である「処女=巫女」が祀り上げられ、それが「起源としての天皇」になった。

原始共産制」はひとつの「民衆自治=民主主義」であり、そこに「王=支配者」はいなかった。そしてその集団のかたちは、みんなが王の家のまわりの一か所に集まり「結束」してゆくのではなく、広い範囲の小集団どうしが「連携=ネットワーク」をつくってゆくことにあった。これは、世界中どこでも、都市国家が生まれる前の段階の共通した集団のかたちであった。

 

 

日本列島では、縄文時代が1万年続いた。この時代は、大きな都市集落がつくられることはついになく、小集落が広く点在したままだった。しかし、小集落どうしのネットワークはつくられており、それが広がって列島中がひとつの文化圏になっていた。これは、ネアンデルタール人がヨーロッパ中で同じかたちの石器を使っていたことにも当てはまる。

縄文時代は、国家共同体をつくるための「結束」の集団性は育たなかったが、1万年かけてひたすら「連携=ネットワーク」の集団性を洗練させていた。おそらくその伝統習俗の上に、弥生時代奈良盆地のまわりの山に点在する集落どうしの「連携=ネットワーク」がつくられ、みんなして盆地の一か所に集まって「祭り」や「市」を催すようになっていったのだろう。

 

 

民主主義とは、ナショナリズムによって国民が「結束」してゆくことではなく、「国民」という意識が希薄な無主・無縁の存在のままで「連携」してゆくことにある。すなわち「連携」とは、「ときめき合い助け合う」ことであり、「祭りの賑わい」として盛り上がってゆくことにある。

「国民」と「非国民」を分けて、「非国民」を憎悪し排除してゆけば、「国民」どうしが「結束」できる。その「結束」は、「非国民」にされることの恐怖や不安と「非国民」に対する憎悪の上に成り立っている。まあ今どきの「いじめ」や「ハラスメント」もこれと同じ心理なのだろう。

「恐怖・不安」と「憎悪」を培養しながら集団を「結束」させてゆく……おそらく最初の文明国家はそうやって生まれてきたのだろうし、現在でもそれが人を支配するということの本質であるのだろう。明治以来のこの国の右翼思想はそのように培養されてきたし、それが人類の集団性の本質であるかのようにいう左翼思想家もいる。

まあ今どきは、右翼も左翼も知らず知らずその思考が近代合理主義に毒されて、「人間観」が病んでしまっている。

たとえば左翼の大物思想家である吉本隆明は『共同幻想論』で村落の集団原理を「恐怖の共同性」というパラダイムで説明していたが、それは国家権力の支配システムをそのまま短絡的に当てはめたもので、彼は、国家権力とは別の民衆社会独自の集団性の本質=伝統があるということをちゃんと考えることができなかった。つまり彼もまた、明治以降の日本人の頭に植え付けられた近代合理主義的思考の範疇を超えることができなかった。

民衆社会の集団運営のパダイムというか心映えは、「恐怖の共同性」だけで説明がつくものではない。

そこで吉本氏は、理想のというか真に人間的なときめき合い助け合う「関係性=集団性」を「対幻想=家族のエロス」という概念で説明しているわけだが、これもまたじつに短絡的な思考で、「家族」は「エロスの場」ではない。家族だって世の中の集団の「共同幻想」と同じように「順位制」という「権力」がはたらいている場であり、純粋に裸一貫の人と人の関係でいとなまれているのではない。夫と妻、親と子、兄弟姉妹、それぞれに順位関係が避けがたく生まれてくる。

裸一貫のときめき合い助け合う関係は、無主・無縁の「祭りの賑わい」における「もう死んでもいい」という勢いの快楽とともに生まれてくる。そこでこそ、吉本のいうもっとも豊かな「エロスの場」が生成している。「家族=夫婦」だって、「家族」であることから離れて肌一貫の男と女になることによってセックスがいとなまれる。本質的には、「夫と妻のセックス」などというものはない、「男と女のセックス」があるだけなのだ。そこのところを、吉本は何も考えていない。「家族」は「エロスの場」ではない。

つまり吉本のいう「対幻想」は、家族の中ではなく、見ず知らずの者どうしにおける無主・無縁の関係において生成しているのであり、そこでこそもっとも高度に洗練された「連携」が生まれてくる。

共同幻想論』は、柳田国男の『遠野物語』をテクストにした批評文なのだが、そのわりに日本列島の伝統の「色ごとの文化」というものが何もわかっていない。だからそういう薄っぺらでステレオタイプな思考になってしまうのだし、それは吉本思想の根幹である「大衆の原像」という概念を追求したものでもあるらしいのだが、いうほどには「大衆」のことが何もわかっていない。

 

 

左翼は、天皇制を否定する。それは明治以来の天皇制がきわめて歪んだものであったからで、ほんらいの天皇制の伝統とはまた別のものだ。したがって、彼らのようにそうかんたんには否定できない。僕は、明治以来の権力者たちによって歪められてしまった天皇制に対する認識を、ほんらいの伝統に添って再救出したいと考えている。なぜならそこには、人類の集団性の起源と究極の問題が潜んでいるにちがいないからだ。

根源的な問題から考えてみよう。

現象学の哲学においては、「意識」のはたらきの本質を「志向性」という言葉で説明したりしているのだが、そういうことをいうと、原初において環境世界よりも先に生物が存在していたことになってしまう。しかしじっさいには環境世界から生物が生まれてきたのだから、命のはたらきは環境世界に対する「受動性」の上に成り立っているはずだ。つまり、環境世界に対する「反応」として意識が発生してきた。

「志向性」とはあらかじめ対象が存在することを前提としていることであり、そうではなく対象に「気づく」ことによって意識が発生したのだ。

生物の命のはたらきは、環境世界に対する「反応」として成り立っている。したがって根源的には、生物には「生きようとする」衝動というか本能というか目的などというものはない。

そして文明社会は「生きようとする」目的=観念の上に成り立っているのであれば、それは自然の摂理から逸脱していることになり、文明人はその目的=観念に縛られていることによって意識のはたらきの活性化が阻まれている。その閉塞状況から逃げるようにして「もう死んでもいい」という心の勢いが起きるわけで、そのときにこそ意識のはたらきは解き放たれ、「快楽」が汲み上げられる。

まあ文明人だけでなく、そもそもこの生のさなかにあるということは、永遠の前世と永遠の後世のあいだの限定的な時空に置かれているということで、「どうして生まれてきてしまったのだろう」とか「どうして死んでしまうのだろう」という、その閉塞感はもう原初以来の人類普遍の心模様なのだ。

われわれはどこからやってきてどこに去ってゆくのだろうか……と誰かがいっていた。

人類にとっての根源的な心の解放=自由は、生まれる前と死んだ後にある。すなわちそれは「異次元の世界」のことで、この生のさなかに置かれていることの閉塞感の中で人は、原初以来「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」を抱いて歴史を歩んできた。

人は、この世界の「出現」と「消滅」という現象によって「異次元の世界」の存在に気づく。生まれて死んでゆくこと、太陽が現れ出て隠れてゆくこと、嵐がやってきて去ってゆくこと、旅人がやってきてまた去ってゆくこと、「出現と消滅」の現象はこの世界のあらゆるところで起きている。

そうした「異次元の世界」を象徴するもっとも鮮やかで魅力的な対象として、人類は、現れ出ては消え去ってゆく「光」を発見した。太陽や月がまさにそうであるように、「光」は「異次元の世界」からやってきて「異次元の世界」に去ってゆく。その「遠いあこがれ」ととともに人類は、太陽や月と同じく「きらきら光る」貝殻や石粒を愛し、やがてそれを「貨幣」にしていった。ほかの動物が怖がり忌み嫌う「火」に深い関心を寄せていったのも、まあそういうことだ。

 

 

猿とは違う人間的な心(=知能)の真骨頂は、「未来」を計画するとか予測するというようなことではなく、「今ここ」の「反応」の豊かさと深さにある。その「受動性」こそが生きものの「意識」のはたらきの本質であると同時に人間性の本質でもあるのだ。

たとえば、あの山の向こうに向かって旅してゆくことは、「未来を計画する」ことではない。なぜなら「あの山の向こうにもうひとつの世界がある」ということは「今ここ」の「現実」であって「未来」のことではない。そのとき人は、「今ここ」に追いつこうとするかのように旅をしている。「意識」とは、世界の存在に「気づく」はたらきである。世界が先に存在する。「意識」のはたらきは、つねに世界の存在から「一瞬遅れて」発生する。「意識」は、根源的実存的に、つねに「今ここ」の「世界の存在」に対する「一瞬の遅れ」を自覚し、つねにその「今ここ」に追いつこうとしている。追いつこうとすることが「意識」のはたらきだともいえる。

種をまけば、やがて実がなる。農民が種をまくことは、すでに「今ここ」においてイメージしてしまった「実がなる」という事態に追いつこうとしているのであって、厳密には「未来を計画する」という心理ではない。実がなることなんかすでに分かっているのであって、「計画する」必要なんかない。また、苗がどこまで育ったのか毎日確かめるのも、育ち具合を追いかけているのであり、基本的には自分がどうこうできることではない。それは、太陽と土と水によって育ってゆく。

子供を育てることだって、どのように育ってゆくのかということを後追いし見守るのが楽しいのであって、どんな大人にするかという計画など、たんなる邪心にすぎない。

「いまここ」の世界の輝きに驚きときめく「反応=受動性」こそ「意識」のはたらきの本質であり、そこにこそ人間的な「知能」の源泉も、この国の天皇制の伝統もある。

 

 

国家共同体の権力社会は、民衆を支配してゆくために未来を計画する。それに対して今なお「原始共産制」の心を残している民衆社会の伝統においては、「今ここ」に対する「反応」として世界や他者の輝きにときめいてゆくことが集団性の伝統になっている。つまり起源としての天皇は、権力者などいなかった時代の民衆社会において、そうしたときめき合い助け合う関係性が豊かに生成するためのよりどころとして祀り上げられていったのだ。

天皇という存在であれ、民衆社会の集団性であれ、その本質は「反応」の豊かさとしての「受動性」にある。

古代以前の奈良盆地において起源としての天皇が祀り上げられていったとき、集団の活性化にとってもっとも大切なことは人々の「世界の輝きにときめく」という「反応=受動性」の体験だったのであり、そういう心映えをもっとも豊かにそなえた存在として、かつまた人々がそういう「心映え=ときめき」を向けられる対象として「処女=巫女」が祀り上げられていった。そうしてやがて生まれてきた大和朝廷という権力社会が、その「処女=巫女」のカリスマを民衆社会を支配するための道具としての「天皇」にしていった。

だからわれわれ民衆は、天皇を権力社会の手から取り戻さねばならない。なぜなら天皇は、古代以前のこの国に「原始共産制」の社会集団があったことの重要な考古学的証拠であると同時に、人類の民主主義の未来を約束する「形見=象徴」の存在でもあるのだ。

というわけで、今どき右翼たちが合唱する「男系男子」などということはまったく無意味であり、そういう醜悪な権威主義権力主義に幽閉された天皇を救出し解き放って差し上げねばならない。天皇はむしろ女であることのほうが「正統」なのだし、現在の天皇家がいかに窮屈な立場に置かれているかは、だれにだってわかることだ。それはまあ、右翼の連中が「万世一系」だの「男系男子」だの「国家の家長」だのとしゃらくさいことばかり言ってくるからだ。天皇家に指図しようなんて、いったい何様のつもりか。天皇天皇であるというそのことにおいて尊いのであり、天皇の「権威」などというものはどうでもいい、無条件に天皇の存在そのものを祝福してゆくということをなぜできないのか。

起源としての天皇は、現在よりもはるかに自由であったにちがいない。ただもう毎日、この世界の輝きを祝福しつつ、仲間と一緒に歌ったり踊ったりしていただけだろう。その「他愛なさ」こそが人々にとっての「この世の宝」だったのであり、その「他愛なさ」を共有しようとして起源としての天皇を祀り上げていった。

 

 

10

原始共産制」の社会に「呪術」などというものはなかった。「呪術」とはその本質において人間や自然を支配するための道具であり、文明国家の出現と相前後して生まれてきた。というか、呪術が文明国家を生み出した、ともいえる。したがって、呪術=支配が存在する原始共産制の社会、などというのは論理的に成り立たない。

原初の天皇に「呪術師」という仕事などなかった。ただもう他愛なく遊び呆けていただけであり、民衆はそこにこそ人としての「輝き=異次元性」を見ていた。

高貴な人は、呪術も政治も経済も、そういう現世的な利益を求めることは何もしない。それが「けがれなき」ということで、ただただ世界の輝きを祝福している。そうやって起源としての天皇(処女=巫女)は、ひたすら歌ったり踊ったりしていた。

人が歌ったり踊ったりすることの本質は、世界を祝福することにある。そんな心映えの「形見=象徴」である天皇を祀り上げながら、明治以来のこの国はどうして戦争ばかりするようになっていったのだろう。おそらく、権力社会のエゴイズムによって、天皇の存在のかたちをそれまでの伝統とは真逆の、世界を「呪う」ための「形見=象徴」にしてしまったからだ。彼らの帝国主義は、たんなる祝祭の儀礼であったほんらいの神道を、国家神道という「呪術」に変えてしまった。

右翼とは、「呪い」の思想のことか。

天皇を「呪い」の「形見=象徴」にしてはいけない。

現在のこの国はいまだに明治から敗戦までの「呪いの思想=恐怖の共同性」を引きずっているのかもしれないが、それはけっして民衆社会の伝統ではないし、この国に天皇が存在することのほんらいの姿でもない。

天皇の存在は、もともと民衆を支配するための「呪い」の装置ではなく、世界の輝きを「祝福」するための装置だった。そういうかたちで、天皇をわれわれ民衆の手に取り戻さねばならない。そのためのさしあたりの課題としては、「愛子天皇」を右翼や権力社会に認めさせることができるかどうか、ということだろうか。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。