「セクシー」に行こう?

今回は日本列島の伝としての「華=花」という美意識について考えてみます。

総理大臣をはじめとする政権与党一味が「桜を見る会」を私物化していて許せないと野党の政治家たちが騒いでいるらしいが、そういうことが許される社会状況があるのだからそうするのは当たり前のことだし、民衆からしたら「それくらいのことはしょうがない」とか「ああまたか」という程度のしらけた反応しかない。森友加計事件以来、もう慣れっこになってしまっている。だれだって自分の立場を利用して甘い汁を吸おうという気持ちくらいあるだろう。政治家が薄汚い人種だということなんか今に始まったことではないし、自分だって清廉潔白に生きているわけではない。こんな世の中で、清廉潔白に生きることなんかできない。清廉潔白のふりをしていれば、清廉潔白でなくてもかまわない。それが現代のこの世の中を生きる流儀だ、という暗黙の了解が出来上がっているらしい。

安倍晋三という醜悪極まりない人間がこの国の権力の頂点にいるなんてまったくひどい状況だが、彼と精神的人格的に共犯関係にある人間が上から下までたくさんいるのもこの国の現実で、そういう社会の構造はどのように変えることができるのだろうか。

このまま政治権力の腐敗が進めばいつか香港の100万人デモような暴動が起きるだろうといわれたりするが、たぶんそうはならない。日本列島の「無常感」の伝統は、基本的には政治に対して無関心であり、権力の悪を許してしまう。この状況を変えるために必要なのは、おそらく民衆どうしのときめき合い助け合う関係が盛り上がって権力を置き去りにしてしまうことだろう。そうやって投票率が上がれば、選ばれる権力も別のものになる。

とにかくひどい世の中になってしまったもので、絶望するしかないような気分になってしまうのだが、それでもまあ人の世に「清廉潔白であってはならない」「という合意があるわけではない。だれだって心の底では清廉潔白にあこがれているのだが、今どきの清廉潔白なんてただのひとりよがりのナルシズムだったり、自分のことを棚に上げて他人に押し付けてくるただのハラスメントにすぎなかったりする。

「野党だってそんなことをいえる資格があるのか」という意見もある。政治なんて、もともと自分の支援者に利益を誘導するシステムであり、そうやって近代国家の「議会」というものがはじまった。

政治家の利益誘導が悪だとはいえない。それが許せないのなら政権交代する以外に方法はないわけで、与党批判をする以上に、野党という政治集団がいかに魅力的でセクシーかということを国民に示さねばならない。

ここまで来たらもう、与党と野党がきちんと議論をして議会を正しく運営してゆく、ということなどありえない。そして選挙はあくまで「お祭り」であり、正しいかどうかということ以前に、魅力的でセクシーでカリスマ性のあるリーダーが野党の集団にいなければ投票率は上がらないし、勝ち目もない。で、今のところそういう野党政治家は、山本太郎をおいてほかにいない。

もしも解散して総選挙になったとき、山本太郎を野党連合のリーダーに押し立てるなら勝てるかもしれない。しかしまあ、きっともたもたと駆け引きしているばかりでそうはならないだろう。

桜を見る会」疑惑だけで与党を倒せると思っているのだとしたら、見通しが甘すぎる。民衆は、それくらいの不正など許してしまう。たいして「華=セックスアピール」のない政治家がどんなにご立派な正義・正論を吐いたって民衆はついてこない。そうして立憲民主党も国民民主党もきっと現有議席を減らすことだろう。政策云々の問題ではない、どちらも党首に人間としての「華=セックスアピール」すなわち魅力がなさすぎるからだ。そして因果なことに、人はこのことを自覚できないようにできている。なぜなら人は、だれもが「華=セックスアピール」にあこがれ、だれもがそれを持ちたいと願い、だれもが持っていると思いたがっているからだ。

 

 

選挙は「お祭り」であり、民衆に興味があるのは正義・正論ではなく、「華=セックスアピール」なのだ。

因果なことに、自民党貧困層や在日外国人をはじめとするマイノリティを苛め抜いている悪役(ヒール)ぶりだって、多くの人の反感を買いながらも、支持者たちにとっては、それはそれでひとつの「華=セックスアピール」になっている。

いっときN国党がバブリーな注目を浴びたのも、「悪役=ヒール」としての「華=セックスアピール」があって、一定数の人間がおもしろがったからだろう。それが大きなムーブメントになることはあり得ないが、たとえばホリエモンのようなニヒリスティックな享楽主義者の関心の対象にはなるわけで、そういうものたちが少なからずいるのが今の世の中だろう。

女にもてなくて女に恨みがある男は、女を罠にかけて捕まえようとする……まあそのようなことだ。現在の総理大臣やN国党の党首と同様、彼らにとって女は、享楽のためのただの「モノ」にすぎない。彼らにとってのセックスはたんなる「性交」であり、「情交」という関係のイメージはない。功利主義者というのか、コストパフォーマンス主義というのか、そういう世の中の風潮が自民党経団連の横暴を許しているのだし、そういう状況を押し返そうとして山本太郎という「情の人」が登場してきた。

彼はこういう、「捨て身にならないと政権はひっくり返せない」と。

「捨て身」とは「死んでもいい」という勢いのことであり、それこそがもっとも本格的な人の世の「華=セックスアピール」なのだ。

しかし、現在の野党にそういう心意気を持ったリーダーなどほとんどいない。とくに立憲民主党枝野幸男や国民民主党玉木雄一郎にいたっては、二人とも目立てば目立つほど人間的な魅力の限界があらわになってきた。枝野はただのマイホームパパで、玉木はただの軽薄才子、けっきょく二人ともわが身可愛さで生きているだけで、彼らに「捨て身」の態度なぞ望むべくもない。

逆に山本太郎は、政治シーンの表面に浮上してきたことによって、その人間的な豊かさとしてのセックスアピールを人々がようやく気づき始めている。こんなにも純粋でひたむきで、こんなにも深く政治について考えている人間だったのか、たしかに彼は自分の人生などかなぐり捨てて政治の世界に挑んでいる、と。

 

 

立憲民主党や国民民主党の議員数は多いが、彼らが中心になって総選挙を戦っても自公政権に勝てるはずはない。なぜならどちらも党首に「華=セックスアピール」がなさすぎて党としてのブランドイメージが下がるばかりになっているからで、政策がどうのという問題ではない。まさに「セクシー」かどうかということなのだ。

立憲民主党や国民民主党が存続するかどうかということなど、どうでもいいのだ。大切なことは、現政権を倒して民衆の窮乏を救おうとする気概があるかどうかということだろう。そのためには自分たちの党を解体してでも「華=セックスアピール」を持った山本太郎を押し立てて野党連合をつくるしかないのだが、そういう「捨て身」の自覚がこの二人の党首にはまるでない。まあ、「まるでない」から「華=セックスアピール」がないわけで、それは顔かたちの見栄えがいいとか悪いとかという問題ではないし、政策が正しいかどうかという問題でもない。

現政権が、「安保法」や「入管法」等の国民が賛同しているわけでもない「トンデモ法」を次々にごり押ししながらそれでも選挙で勝ち続けているのは、選挙の勝ち負けは政策の問題ではない、ということを証明している。因果なことに、ヒール(悪)に徹すれば、それはそれでひとつの「華=セックスアピール」になる。

日本列島の民衆は、正義・正論だけで集団が大きく盛り上がるということはない。それがまあ1500年の天皇制の構造であり伝統であり、正義・正論よりも、人と人のときめき合い助け合う関係を生み出す「情」と「華=セックスアピール」による「祭りの賑わい」として盛り上がってゆく。中世の「一揆」や幕末の「ええじゃないか騒動」や大正の「米騒動」だって、けっきょくそういうことだったのだ。

何が正しいかどうかということなど議論していても、現在の政権は倒せない。「祭り=選挙」を盛り上げるためには「華=セックスアピール」はどうしても必要だ。

 

 

日本列島においては、「世直し」は政治の問題ではなく「お祭り」なのだ。そしてそれこそがじつは天皇の起源と本質の問題でもあり、天皇は政治の主役(=支配者)として古代以前の奈良盆地に登場してきたのではなく、人々がときめき合い助け合いながら集団を運営してゆくための「形見=象徴」として祀り上げられていったのであり、そういう「華=セックスアピール」を持った存在だったのだ。

そのとき奈良盆地の民衆は、集団の運営は自分たちでする、あなたはただ見守っていてくれればいい……そう考えて起源としての天皇を祀り上げていったのだし、これが日本的なリーダー選びの伝統であり、集団運営の流儀なのだ。それはまさに「民主主義」であり、そのためには支配権力を持たない「集団の象徴」としてのリーダーを必要とする。

人類社会はもともと「民主主義」だった。それを「原始共産制」といったりするが、それを成り立たせるためには、支配権力を持たない「集団の象徴」としてのリーダーを必要とした。

原初の人類の集団は、サル社会のような支配権力を持った「ボス」を持たなかった。まあそうやってサルの生態から分かたれていったわけだが、リーダーの存在はやはり必要だった。なぜなら集団を運営するためには「集団である」という自覚を共有してゆく必要があったし、そのためにはやはり「集団のシンボル」としての存在は必要だった。また人類は、そのために必要な「他者の存在を祝福し祀り上げる」という心を持っていた。すなわち「ときめく」ということ、この心を持ったがゆえにサルのレベルをはるかに超えた「喜怒哀楽」の情感を持ち、それが表情となってあらわれるようにもなっていった。

サルは、ボスを筆頭にして人間よりも支配欲が強い。人間はサルよりも世界や他者の輝きにときめき祝福してゆく心が豊かで深い。その心で原始人は集団のリーダーを祀り上げていったのだし、リーダーもまた集団のみんなを祝福し見守っていた。

「見守る」とは「祝福する」ことだ。そのようにして起源としての天皇が生まれてきたのだし、今だってそれが天皇の仕事なのだ。

象徴天皇制」は、起源であり究極でもある天皇制のかたちであると同時に、民主主義の起源であり究極でもある。

人間性とは「ときめき」であり、世界や他者の輝きを祝福し祀り上げる心の動きのことである。人間性の根源においては、そうやってリーダーが選ばれる。

山本太郎が、一部で「新しいこの国のリーダー」としてもてはやされ始めているのは、一過性のたんなるポピュリズム現象というより、普遍的な人間性の本質の問題であり、天皇制の本質にかかわる問題でもある。そしてこのことを、れいわ新選組の候補者や支援者たちはみな知っているし、山本太郎を批判する者たちは、このことから目を背けて見るまいとしているわけで、彼らは山本太郎のことを「ただのポピュリスト」だといいながらも、本心ではとても怖がっている。

現代人の多くは本質的なものを怖がり、目を背けようとする。目を背けながら作為的に生きたほうが得する世の中だ。しかし何はともあれ人間の世の中なのだから、直感的に「本質=華=セックスアピール」を察知しあこがれる心はだれの中にもある。ことに日本列島の民衆は、観念的な正義・正論だけでは動かない。その「華=セックスアピール」に対して、人類普遍の「歴史の無意識」というか「人情」というか「人間性」が揺さぶられて動くわけで、それが日本列島の伝統としての「色ごと」の文化である。

 

 

やまとことばの「いろごと」とは、「性交」ではなく「情交」のこと。

人類史の集団性の基礎は、「食料生産=経済」ではなく「セックス=情交」にある。そういうことを歴史家はちゃんと認識していない。そして今どきは既存の右翼も左翼も「性交」の集団性の思想ばかりで、そこに山本太郎が「情交の(集団性の)思想」を掲げて登場してきた。

まあ近代合理主義とは「性交の思想」のことで、そこから現在のコストパフォーマンス偏重の状況が生まれてくる。「近代の超克」とか「ポストモダン」などという合言葉が叫ばれて久しいが、そういう問題を切実にとらえているのはヨーロッパのことで、日本列島はまだまだ能天気に近代の病に冒されている。

今どきの右翼思想なんて、総理大臣をはじめとして「性交」しかできない連中が考えていることで、女を「性交」の道具としてしか理解できない彼らの語る「伝統」がいったい何ほどのものか。彼らこそ、「伝統」とは無縁な「近代の病」にどっぷり浸っている者たちなのだ。

「伝統」とはもともとコスパの悪いことであり、コスパが悪いからこそ集団の無意識によって大切にされてきたのだ。なぜならそれによってもっとも集団が活性化するからだ。

たとえば人類は、なぜ「葬式」というあんなにもコスパの悪いことを大げさにしたがるのか。死んだ人間なんか邪魔なだけのただの「モノ」にすぎないのだから、さっさと捨ててしまえばいいだけではないか。しかしそうすることができない「かなしみ」という「情」が深く豊かにわいてきてしまうし、その「情」を共有してゆくことによってより集団は活性化してゆく。

人類の集団性の本格化は、ネアンデルタール人の埋葬からはじまっている、ともいえる。と同時に彼らは、人間的な「情交」としてのセックスを本格化させた人たちでもあった。なぜなら氷河期の極寒の地で暮らしていれば、たくさんセックスしてたくさん子を産まないと集団を維持できなかったからだ。彼らだってもともと熱帯種である人間という生きものなのだから、寒さが好きでそこに住み着いたのではない。苦しく辛くてもそこに住み着いていったのであり、なぜならそこには、人と人がときめき合い助け合いたくさんセックスする状況があったからだ。

「性交」とは、もっともコスパのいいセックスのこと。しかしもともと人類にとってのセックスは、もっともコスパの悪い「エネルギーの浪費」であり、いろんな意味で「悲劇的な行為」なのだ。そしてその「悲劇=情交」においてこそもっとも深い快楽が汲み上げられるのだし、そこから生まれる関係を起点にして集団が活性化してゆく。人類の集団が猿よりもはるかに大きな規模になっていったのはそういうことであり、食糧をたくさん得るようになったからではない。集団の規模が大きくなった「結果」として食糧生産が発展したのであり、それまでに人類は、何度も飢餓の恐怖の時代を潜り抜けねばならなかった。

ただの知能の発達だけで食糧生産の技術が進化するはずがないし、セックスをやりまくらなければ人口が増えるはずもない。

現在でも、アフリカ等の南の飢餓地帯でどんどん人口が増えてゆくということが起きているではないか。食糧生産のめどが立たなくてもセックスをやりまくるのが人間であり、終戦後のこの国だって、そういう食糧危機の中で爆発的なベビーブームを起こしたのだ。

原初の人類は、セックスを「情交」にまで昇華させたことによって、一年中発情するようになった。その結果としてたくさん子を産み、人と人の関係を活性化させてゆきながら集団の人口を増やしていった。そうしてその集団の規模を維持するために、食糧生産をはじめとする経済活動も進化発展させてくることができた。

人類史の伝統は、どこの国においても、人と人がときめき合い集団が活性化してゆくための作法として引き継がれてきた。

 

 

近代を超克するためには「伝統に帰れ」などといわれたりもするが、「伝統」とは起源であり究極でもあるところの「普遍性」のことであり、厳密には「日本だけの伝統」とか「ヨーロッパだけの伝統」などというものはなく、すべての国の伝統に通底する「アナロジー=普遍」というものがある。

世界中どこに行っても、人間は人間でしかない。

原初以来、人と人はときめき合う心でセックスをしてきた。それが「情交」であり、「種族維持の本能」などというのは嘘だ。そんな本能=目的でペニスは勃起できるはずがない。ときめくから勃起するのであり、ときめきは不意の出来事としての「反応」であって、計画や目的を持った「作為」ではない。そういう「関係性」がセックスを成り立たせているのであり、ときめく心の豊かさが人類の歴史を進化発展させてきた。

男は女が女であるというそのことにときめいているし、女は、男がそんなにやりたいのなら「やらせてあげてもいい」と思う。女の性欲は、男のような「やりたい」というより「やらせてあげたい」ということらしい。女は「情」でセックスをする。女は正義・正論では動かない、「情」で動く。そしてそれは、日本人全体の歴史の無意識(=伝統)でもある。

「色ごと」の文化の国では、「情」で選挙に行く。

僕のような貧乏人でも、この世のだれかに手を差しのべたいし、この世のだれかの輝きにときめいていたい……日本人はそういう思いで選挙に行く。自分のためじゃない、自分も選挙に行かないとこの世のだれかが困ることになる……おそらくそういう想いが広がって投票率が上がるのだろう。そしてそれは、「民の安寧を祈る」という仕事に精進している天皇と「想い=情」を共有してゆくことにもなる。今どきの右翼にはそういう「情」がないし、そういう「情」こそがこの国の伝統であり、人類史の普遍的な伝統でもある。

 

 

桜の下で浮かれ騒いでいるだけが伝統主義者の資格ではない。桜は、左翼だって大好きだ。

「花」といえば「桜」、この国は、どうして桜が伝統になっているのだろう?

新古今和歌集には桜の花と死のイメージを重ね合わせた歌が多く、それ以来「あはれ・はかなし」の美意識の象徴ように扱われてきたが、満開の桜は豪華そのもので、何か「光の散乱」のようなあでやかさがある。起源としての天皇も、おそらくそうした気配を漂わせた「処女=巫女」だったのだろう。

あでやかな桜の花は世界の輝きの象徴であり、そうした「光」こそ原初以来の人類普遍の「遠いあこがれ」にほかならない。

この世の「光」は「異次元の世界」から現れ出てきて、またそこに向かって消え去ってゆく。その「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」が桜の花の「死」のイメージにもなるし、もっとも豊かな「華=セックスアピール」の象徴にもなっている。

桜の花は「セクシー」なのだ。それはもう、「武士道」や「大和魂」がどうのということより、もっと日本列島の伝統の本質にかなっていることであり、そこにこそ天皇という存在の本質もある。天皇は、通俗的な政治権力や武士道や大和魂とは無縁の「異次元の世界の人」であるがゆえに「セクシー」なのだ。

近ごろ脳みそが薄っぺらな環境大臣が「環境問題はセクシーに取り組む」といい「セクシーとは<前向きに>という意味だ」といったそうだが、なんとなくおしゃれでかっこよさげだからそういってみただけのことで、この言葉の意味も環境問題のことも立ち止まって深く考えたことなどないにちがいない。環境問題に対する確かな知見や哲学やビジョンを持っていることを「セクシー」というのであり、どう取り組むかはきわめて現実的で地道な作業の積み重ねが待っているだけで、この大臣に、環境を破壊して平気なさまざまな既得権益層と戦う気概があるのだろうか。「セクシーに行こう!」という能天気な掛け声だけで済む問題でもあるまい。

「セクシー」とは「心意気」のこと、すなわち「異次元の世界に超出してゆこうとする心意気」のこと。そういう「異次元性=非日常性」のことで、人の心は根源において「異次元の世界」に対する「遠いあこがれ」を抱いている。その形見=象徴としてこの国に天皇が存在し、桜の花がだれからも愛されている。

 

 

桜の花は光の散乱のようにあでやかだ。本質的にはその異次元的な「華=セックスアピール」が長く愛されてきたわけで、散り際の「潔さ」とか「はかなさ」というようなことは後付けの観念にすぎない。

この国が真の伝統を守るためには、あの薄っぺらで通俗極まりない今どきの右翼たちこそ邪魔な存在なのだ。この国の真の伝統は、明治以来の帝国思想というか近代国家主義によってぶち壊しにされてしまった。「万世一系」だとか「男系男子」とか「武士道」とか「大和魂」とか、ほんとにアホじゃないかと思う。

天皇天皇であることそれ自体の、存在そのものの輝きというものがあるわけで、それが天皇の「華=セックスアピール」になっている。人々がそれを感じることができれば、「万世一系」も「男系男子」もどうでもよい。

天皇は、世の凡庸な右翼たちがすがりついている「権威」などというものではなく、その「異次元的」な気配を漂わせた存在そのものの「輝き」であり「美」であり「華=セックスアピール」なのだ。

天皇制のこの国においては、選挙の投票率だって、人々がそういう「華=セックスアピール」を感じて盛り上がっていかないことにはどうにもならない。

投票率が低くないと勝てない政権なんて、「右翼」や「保守」とはいえない。「国を愛する」のならみんな投票に行くはずで、投票率が90パーセント以上において支持されているときに、はじめて「右翼」や「保守」を名乗る資格を持つ。低い投票率で政権を維持しようなんて、ただ意地汚くこすっからいだけではないか。右翼なんて、近代合理主義にかぶれたコスパ野郎(=功利主義者)ばかりなのか。

この国の民衆は、伝統的に「国家」などというものに興味がないから投票率が50パーセント以下になる。

現在の右翼の権力者たちは熱心に「愛国教育」を進めているらしいが、はたしてその効果は上がっているのだろうか。自民党の得票数は、この10年少しも増えていない。今どき自民党を支持しているなんて、右翼だろうと高齢者だろうと若者だろうと男だろうと女だろうと、けっきょく近代合理主義にかぶれてしまった者たちばかりで、彼らが「伝統」を生きているとはけっしていえない。

言い換えれば「伝統」は右翼の専売特許でもなんでもなく、だれにだって伝統を生きている瞬間はある。それが「華=セックスアピール」にときめき祝福してゆくということで、そういう人間的な心模様によって人と人の関係が結ばれ、集団が活性化してゆく。この国では、そうやって天皇制が生まれ育ってきた。

僕は右翼も左翼も嫌いだ。今どきの右翼なんか意地汚いだけだし、今どきの左翼は華がなさすぎる。僕は、右翼でも左翼でもないところの、今どきの投票に行かない50パーセントの人たちとのそこはかとない連帯を願っている。そうしてみんなで投票に行くようになれればいいのだが、現在において、そういう状況が生まれつあるのかないのか、それが問題だ。

現在のこの醜悪な政権と戦うのではない、置きざりにしてしまうくらいのときめき合い助け合う連帯・連携が生まれてくればいいのになあ、と思う。

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。