政治なんか知らない・初音ミクの日本文化論(22)

まあ日本文化とは何かということはさんざん語り尽くされているわけだが、それでも日本人の誰もがいまだにそれを問わずにいられない思いをぬぐい切れずにいる。
日本人とは、永遠に「日本人とは何か」と問い続けてゆく民族であるのかもしれない。
それはきっと、日本人が自我の薄い民族だからでしょう。自分ときちんと向き合えないし、向き合えないことの不安を抱えたまま生きている。
では向き合えばその不安は解消されるのかといえば、そういう問題でもない。向き合わないことが、日本人の生きる流儀なのだもの。それをやめたら日本人ではなくなってしまうし、向き合わない習性を今さら変えることもできない。自分なんか忘れて世界の輝きに体ごと反応しときめいてゆく、それが日本文化の日本文化たるゆえんにほかならない。
他愛なくときめいてゆく、ということ。その他愛なさが「かわいい」の文化を生み出している。
この国の歴史は、氷河期においてアジアのあちこちから集まってきた種々雑多な人たちがさしあたりすべてを許し合いときめき合って集団をいとなんでゆこうとしたところからはじまっている。
だから、「神(ゴッド)」から裁かれている国の人々のような「罪の文化」にはならなかったわけだが、しかし許されているから何をしてもいいかといえば、許されているからこそ自己規制する。これが「恥の文化」といわれるゆえんでしょうか。誰からも裁かれないが、自分で自分を裁いている、というか。それがもともとの「けがれ」の文化で、そうやって自分で自分を消去してしまう。世界の輝きに他愛なくときめきながら、自分を消去してしまう。
許されているのなら、自分に執着する必要なんかない。
戦後はアメリカナイズされたせいか、「罪の文化」を生きる自意識過剰の人が増えた。それに対していつまでも自分を忘れた他愛ないときめきを持っている人は周囲から許されて育ってきたからだろうか。この国の伝統の人と人の関係や集団性の文化は、裁き合うのではなく、許し合うことの上に成り立っている。
この国の歴史は、自分を追求してきたのではない、自分を忘れる作法を追求してきたのです。だからいつまでたっても「日本文化とは何か」と問い続けねばならない。そういう自意識の薄さがこの国の可能性と限界になっている。

ともあれヨーロッパだって氷河期までは人類拡散の行き止まりの地として「許し合う」文化生きていたのであり、歴史のはじめは日本列島と同じだったのです。それがキリスト教の洗礼を受けて「罪の文化」に変質していったわけだが、彼らだっていまだに、ときにはわれわれ日本人以上に他愛なくときめいてゆく感性を持っている。
だからヨーロッパは、「かわいい」の文化のよき理解者になっている。
「かわいい」の文化がこの国の伝統に深く根差していることを確認してもなお、それが世界から支持されているということは、共有している部分があるということでしょう。
たぶん、この国よりも世界のほうが特異であるのだろうと思えます。この国はただ、人類の原始的な文化をそのまま洗練発達させてきただけなのに、世界のほうは文明制度によってパンドラの箱を開けてその原初的な世界観や生命観を変質させてしまった。
日本列島に中国大陸の漢字や仏教や国家制度が入ってきたのは1500年前のことで、そのときはすでにもう、それに対抗できるだけの成熟した文化を持っていた。だからそれ以後もつねに、宗教や国家制度に対抗するカウンターカルチャーを成り立たせてきたし、そのカウンターカルチャーの伝統から現在の「かわいい」の文化が生まれてきた。
最近は右翼だけでなく左翼までも「ナショナリズム」を肯定する発言をしているが、民衆には国家意識などないのが日本列島の歴史であり、明治になるまで国旗も国歌もなかった。民衆はつねに国家制度に対するカウンターカルチャーを生きてきた。
日本人にとって「国(くに)」とは「故郷」の山や川や家族のことで、「お上」が運営するそうした集団や制度のことは意識してこなかった。
民衆はいつの時代もそういう支配階級に対する民衆だけのカウンターカルチャーで歴史を歩んできたし、そこのところを問わないと「かわいい」の文化のかたちは見えてこない。

権力社会と民衆社会、この国の歴史においてそれは文明制度と原始文化の対比であり、さらには競争して生き延びようとする社会とみんなで助け合おうとする社会、と言い換えてもよい。競争原理が希薄であるのは日本列島の民衆社会の伝統で、だから大震災のときに粛々とみんなで助け合う集団性を見せ、世界中を驚かせた。それは、文明制度のもとでは育つことが難しい集団性であり、原始的な集団性だといえる。
略奪や暴動が起きるのを「原始的な獣性」だというような言い方をするのは間違っている。人類は、文明制度のもとで略奪や暴動や人殺しを覚えていったのですよ。世界中の歴代の権力者に凶悪な獣性がないとでもいうのですか。インテリほど、人間の本質は凶悪な獣性にあるといいたがる。それは、自分の中にそういうものがあるからでしょう。文明社会の競争原理・闘争原理で生きてくれば、どうしてもそういう認識になってしまう。
人間の心の中に凶悪な獣性が潜んでいるということなどわからない、と思っている民衆はいくらでもいるし、そういう人としてのあたりまえの感慨のよりどころとして初音ミクが祀り上げられていった。
文明社会に略奪や暴動や人殺しが起きてきたから「法律」が必要になってきただけのことで、法律を持っていることなんかえらくもなんともない。宗教に「人殺しをするな」という戒律があるのは、宗教者は人殺しをする人種だというだけのことです。
人類の脳は、原始時代からまったく進化していない。
日本列島の民衆の、たとえば村の「寄り合い」というような自治組織は、一切の「法=規範」を持たないところでさまざまなトラブルの調停をしてきた。それは、原始文化をそのまま洗練発展させていった集団性です。
文明制度の秩序をつくるのではなく、原始的な混沌をそのまま収拾してゆく文化、それが日本列島の民衆の集団運営の流儀であり、それはそのまま混沌を止揚してゆく「かわいい」の文化でもある。千変万化・百花繚乱、初音ミクの『千本桜』は、まさにそういうコンセプトの歌です。
現代社会は、文明制度の秩序に支配されているから、略奪や暴動のエネルギーが湧いてくる。ミーイズムが歴史の伝統であるアフリカ系の人たちは集団の規範に従うメンタリティが希薄だから、そういうことも起きやすくなる。しかし日本列島の民衆はすでにそれに対抗する民衆自身の「かわいい=混沌の文化」を「助け合う文化」として持っているから、「自我存続の危機」に耐えることができるというか、それこそがカタルシスである文化を持っている。
たとえば、アフリカの飢餓地帯に食糧を配布したとき、子供より先にお母さんが食べてしまうことがよく起きる。だからそれが人間の本性だというのだが、そうじゃない、それは文化の問題です。日本列島のお母さんなら、あたりまえのように子供に先に食べさせる。日本列島の民衆は、そういう競争原理とは無縁の自我の薄い文化の伝統を持っているし、じつは日本列島のほうがずっと原始的なのです。日本列島は死に対する親密な感慨の文化を持っているし、それは、原始人の感慨でもある。原初の人類は、死に対する親密な感慨を抱きすくめながら二本の足で立ち上がっていったのです。それは、猿よりも弱い猿になることであり、生き延びることができなくなることだったのです。しかしその「喪失感」を共有しながら他愛なくときめき合い一年中発情してゆくことによって圧倒的な繁殖力を獲得し、生き残ってきたのです。
人は、「死」を知っている生きものです。死に対する親密な感慨すなわちその「喪失感=かなしみ」こそが人類の知能を進化発展させてきたのであり、人の知性や感性はそこにおいて活性化する。そこにおいて人と人は他愛なくときめき合ってゆく。
「法=正義=神の教え」によって秩序をつくるのではなく、そんなことをすべて忘れた「混沌」の中で人と人が他愛なくときめき合うことによって集団を成り立たせてゆく文化。それが日本列島の民衆の伝統であると同時に、人類史における原始社会のかたちでもある。
「かわいい」の文化は日本列島の伝統の上に成り立っていると同時にとても原始的であり、だからこそ世界的な普遍性を持っている。
日本列島の文化は、特異であると同時に普遍的でもある。「かわいい」の文化は、人類が歴史の無意識として心の底に共有しているものでもある。

日本列島の民衆は、世界の民衆社会と同様に、権力社会からそれなりにひどい支配を受けて歴史を歩んできた。しかし、つねに権力社会に対するカウンターカルチャーとしての民衆自身の集団性の文化を守ってきたのであり、それは、日本列島だけが原始文化を引き継ぎ洗練発達させてきた、ということです。
万葉集は文字を知っている権力社会で編纂されたものであるにもかかわらず、「詠み人知らず」として文字を知らない民衆の歌が4割を占めています。編纂するがわは大伴家持柿本人麻呂のようにひとりでたくさんの歌を載せている人も少なからずいるから、作者の数そのものは民衆のほうが圧倒的に多いのです。
それはつまり、歌を詠むという習俗は民衆のあいだから生まれ権力社会に伝わっていった、ということを意味します。
そのころの権力社会の中心的な教養は漢字・漢文を扱うことで、それによって国家制度の運営をしていたのであり、やまとことばで歌を詠むことはあくまで二次的なカウンターカルチャーであった。しかし今でも「宮中歌会始」が催されているように、民衆に祀り上げられていた天皇家もそれを大切な教養のひとつにしていたから、権力社会も無視することができなかったのです。
そしてそれはなんだか現在のこの国の支配層の社会が英語の教養がエリートの資格のようになっているのと同じで、やまとことばの伝統はあくまで民衆と天皇によって守られてきたのであり、古事記の編纂だって、天皇と民衆によるやまとことばの伝統を守ろうとする試みでもあったのです。
民衆によるカウンターカルチャーの伝統。この国の民衆は、革命なんか目指さない。すでに民衆だけの集団性による社会を持っている。民衆だけの文化を死守しようとする。だから若者たちも、大人社会に対する反抗なんかしない。ひたすら若者だけの集団性の文化を盛り上げてゆく。
日本列島の民衆は、支配を受けることの「かなしみ」の上に民衆だけの文化を育ててゆく。現在の「かわいい」の文化はそのような伝統の上に起こり、その究極の地平を目指すよりどころとして「初音ミク」が登場してきた。