終わりに(夢見る女神)・初音ミクの日本文化論(29)

日本列島の文化は処女性にある。
この国の伝統において神は処女であり、「処女=思春期の少女」の本質は「悲劇性」にある。彼女らは、無垢な幼子のままでいたいのに体はさまざまな穢れを負いながら大人の女になってゆかねばならない段階にさしかかっている。せめて心だけは幼子のままでいたい。彼女らは、幼子よりももっと幼子でいたいと願っている。幼子にはそんな願いはない。そういう意味で、心は幼子よりももっと無垢だともいえる。その「喪失感=悲劇性」が彼女らの「姿」を美しいものにしている。
人がこの世に生まれ出てくることはひとつの悲劇であり、生きることもまた死によって終わるひとつの悲劇にほかならない。その悲劇性を受け入れることの上にこの生が成り立っている。だから人は、「処女」という存在を祀り上げる。
日本列島の文化の伝統が原始性を洗練発達させたものだということは、心は幼子のままでいたい処女性を体現している、ともいえる。
処女性とは、失って二度と手に入らないものに対する遠い憧れを抱きすくめていること、その悲劇性、それを古いやまとことばでは「かなし」といい、今は「かわいい」といっている。処女の舞を祀り上げる人類普遍の習俗(=歴史の無意識)を、たんなる俗っぽい性的嗜好のレベルで語ってもらっては困る。
それは、女も一緒になって祀り上げてきたのだし、女のほうがむしろもっと切実に祀り上げている。
「処女=思春期の少女」の舞姿が漂わせているひんやりとして透明な気配は、上手いか下手かということ以前の誰もまねできないことだ。
今どきのクラブやパーティで踊るときも、若い娘は、どんなに下手でも踊っているというそのことだけで独特の愛らしさを漂わせている。ときには上手な娘の踊りよりももっと魅力的に映ったりするし、男の下手な踊りなんかブサイクなだけだろう。
踊りが上手い下手以前に、「姿」そのものの美しさを持っているところにその魅力がある。
それは、この世の外にいるような「異次元性=悲劇性」にある。その「姿」は、「心のかたち」でもある。

そりゃあ政治運動や政治的な発言こそが直接的に社会を変える力になるのだろうが、人の世の基礎においては政治とは別の人と人の関係性や集団性が機能しているわけで、そこのところが変わらなければ政治も変わらないということもある。つまり、人々の生きてあることの「気分」こそがこの社会の様相を決定している、という側面がある。
世界経済の動向だって、けっきょくは人々の「気分」の動向の問題だったりする。
人と人の関係や集団性の「気分=意識」は、国家の政治とは別の次元の問題だ。人と友情をはぐくんだり恋愛をしたりスタジアムに大勢が集まってきたりする人間的な生態を成り立たせている「気分」は、べつに政治とは関係ないだろう。だから日本列島では、権力社会とは別次元の民衆だけの文化が守られてきた。
いまよりもっとましな人と人の関係や集団性にならないことには、世界は変わらない。世界中の人々のそういう「気分=意識」が変わらなければ。そしてそれは、「この生とは何か」とか「人間とは何か」ということの認識が変わってくることではないだろうか。もちろん「日本人とは何か」ということの認識も含めて。
人と人の関係や集団が盛り上がるとき、すなわち恋愛をしたりスタジアムのイベントに出かけてゆくとき、「非日常的な気分」が共有されている。それがなければ人と人の関係は盛り上がらない。だから、現実の政治とは別次元の問題なのだ。
「かわいい」の文化は、人々の「非日常的な気分」を豊かにしてくれる。それによってこの世の人と人の関係や集団性も豊かに盛り上がるだろうし、政治の世界も変わってくるかもしれない。
人と人が他愛なくときめき合うことができる世界、たったそれだけのことだが、そんな世界がやってくることはもしかしたら永久にやってこないのかもしれない。しかし同時に人は、誰もが心の底でそんな世界を永久に夢見てゆくのだし、夢見ずにいられない嘆きを抱えて人は存在している。誰だって生きていればときめく体験をするのだし、ときめく体験があることを知っている。

生きてあるのは、いたたまれないことだ。そして支配されることは、さらにいたたまれないことだ。
日本人は、支配されることに対するいたたまれなさが骨身にしみている。しかしそれでも革命を目指すこともなく、支配に従順な歴史を歩んできた。それは、民衆自身による支配が存在しない「無主・無縁」の集団性の文化を持っていたからだ。そういう支配の「秩序」が存在しない「混沌」の中でときめき合いたわむれ合い助け合う文化を、歴史のはじめ以来ずっと育ててきたのであり、その伝統の上に「かわいい」の文化が生まれてきた。
日本列島の歴史は、「もうみんなで仲良くしてゆくしかない」と思い定めたところからはじまっている。そういう「無主・無縁」の伝統が、支配されることに対する拒否反応になっている。日本人は支配を「拒絶」することはしても、「支配し返す」ということはしない。日本列島の民衆は、「労働者独裁」など夢見ない。だから、「革命」はしない。支配しないし、されない……それが「無主・無縁」の伝統だ。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、たしかに日本文化論の名著だ。しかしそこでは、日本人はこんな思考や行動の習性があるということはそれなりに綿密に調査されているが、「それはなぜか?」ということの解答としてはいまいち物足りないところがある。まあ日本に来たこともないアメリカ人が書いたのだからしょうがないといえばしょうがないのだけれど、だからここでは彼女の「日本人の心には支配に対する従順さと拒否反応が混在している」という問題設定をさらに深く分け入って考えてみようと試みた。彼女は、人の心の底に息づく「喪失感」というものを、どのように考えていたのだろう。
日本人は捕虜になるまいとして死ぬまで戦いきるが、いったん捕虜になってしまえば、これほど従順で模範的な捕虜もいない。戦国時代の武士だってそうだった。
なんのかのといっても、「人はなぜ支配に従順であるのか」ということは、人類最大の問題のひとつに違いない。
そこで、民衆が反抗・反逆して革命を起こせばよい、というような思想が近代に生まれ革命国家が登場したりしたのだけれど、けっきょく支配者が変わっただけでなんの解決にもならなかった。マルクス主義者のいう「労働者独裁」なんて、理想でもなんでもなかった。
現在の中国共産党は、民衆に愛されているだろうか。
この国の権力者だって民衆に愛されているかといえば、大いに疑問だ。
でも天皇はきっと愛されているのだろうし、天皇は支配者ではない。民衆が勝手に祀り上げているだけの存在だ。天皇自身も、好きで天皇をやっているんじゃない。だから、退位を申し出た。天皇からすれば、俺だってパン屋のオヤジとして一生を送りたかった、と思っているかもしれない。
天皇は、この国の「生贄」だ。「生贄」だから愛される。人と人が助け合う文化、すなわち「献身」の象徴として天皇が存在する。天皇は何もしないが、存在そのものにおいてすでに民衆に「献身」している。
天皇は、支配者ではないから愛される。この国の伝統においては、支配者が愛されるはずがないのだ。だから歴代の支配者は天皇を必要としてきたのだし、初代の天皇奈良盆地に支配者としてやってきたという話なんか、史実であるはずがない。その話は、そのときの支配者が天皇に支配者であることの「けがれ」を押し被せただけであり、この国の支配者は現在までずっとそうしてきた。天皇は、支配者の「けがれ」の「不在証明(アリバイ)」なのだ。支配者はつねに天皇が支配者であるかのように偽装する。
日本人の支配に対する拒否反応が、天皇制を存続させてきた。
支配することの「けがれ」、これこそがこの国の伝統だ。日本列島の民衆は、その歴史のはじめから「無主・無縁」で他愛なくときめき合い助け合う集団性の文化を絶えることなく紡いできた。
献身の文化。
天皇と民衆も、初音ミクとファンも、たがいに献身し合っている。

現在の若者たちは、引きこもりとか発達障害とかワーキングプアとか、程度の差こそあれ、多くがこの生のいたたまれなさからも社会的な政治経済の状況からも追いつめられて生きている。
「閉塞感」というか、「追いつめられている」という気分が社会に蔓延している。
文明発祥以来、世界中の民衆が支配者から追いつめられて歴史を歩んできた。そうして大陸の多くの国では「革命(=支配し返すこと)」が構想されていったが、この国では民衆自身による、支配が存在しない原始的な集団性を死守しようとしてきた。大和朝廷という文明制度が登場してきたときにはすでに死守できるレベルまでに成熟していたからだが、その集団性はまた、支配されている(=追いつめられている)状況においてさらに成熟してゆくことができた。つまり、支配に対するカウンターカルチャーになることによってより成熟していった。
民衆が支配されてしまうのは、水の中では生きられない生きもののくせにわざわざ海水浴に行きたがるようなもので、人は知らず知らず生きられない場に身を置いてしまう。そして、そこから命も心も活性化してゆく。人は「世界の終わり」から生きはじめる、ということ。
まあ、母親の胎内からこの世に生まれ出てきたこと自体がひとつの「世界の終わり」としての追いつめられている状況であり、そのことと和解しなければ生きられないし、和解していったところからこの生が活性化してくる。人は追いつめられている状況を生きようとする存在であるらしい。
追いつめられて、生と死のはざまに立たされている。そこから生きはじめる。
まあこれは、人間だけではなく、生物進化論の原理原則の問題でもある。なぜこの地球の「生物多様性」が成り立っているかといえば、すべての生物がみずからの生を拡張するのではなく、「死んでゆく」というこの生を縮小してゆくかたちで生きているからだ。「死んでゆく」いとなみこそ、この生をもっとも活性化させる……すべての生きものの生のいとなみがそういう逆説の上に成り立っている。
支配されることによってこの生を縮小し、消えてゆこうとする……そこからこの生が活性化してくる。因果なことに、この生はそういう仕組みになっている。
支配される(=追いつめられる)ことは、民衆自身が選択していることでもある。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは猿よりも弱い猿になって追いつめられることだったのであり、追いつめられることによってこの生は活性化していった。
みんな追いつめられて生きている。そして民衆は、追いつめられていることを共有しながら他愛なくときめき合い助け合う集団をいとなんでいる。それに対して支配者は、追いつめる場に立つことによってそれを忘れてゆく。そうして、他愛ないときめきを失ってゆく。極端にいえばそういう分類が成り立つわけだが、まあ支配者だろうと民衆だろうと人の心はこういう二つのベクトルがはたらいていて、この二つの兼ね合いで人それぞれいろんなキャラクターになっているし、個人においても相手や場面によってさまざまなキャラクターに変化する。
そりゃあ、人を支配してお気楽に生きられるならそうすればいいのだけれど、それでも誰だって心の底では追いつめられていますよ。人は、存在そのものにおいて追いつめられている。あなたが醜くなるのも魅力的になるのも、追いつめられているからだろう。
人を支配して生きている政治家や会社の社長が、どうしてSMごっこをして女王様に鞭で打たれたがるのか。彼らは、そうしないとちんちんが勃起(=この生が活性化)しないのですよ。
若者なんか、街角で女とすれ違っただけで勃起したりするというのに。人の性衝動は、追いつめられているものほど活性化してはたらいている。だから昔の人は、「貧乏人の子だくさん」といった。

人は、生まれたときからすでに喪失感に浸されている存在なのだ。
さんざんひどい戦争を繰り返してきた果ての70年前のあの戦後世界は、始まったときからすでに「核による第三次世界大戦」という「世界の終わり」を想像していた。その解放感の背中にぴったりと「世界の終わり」という喪失感が貼りついていた。
渚にて』という核戦争で世界が終わる小説が発表されたのが1957年で、その二年後には映画化された。そして1962年にはキューバ危機が起こり、米ソによる全面核戦争の一歩手前まで行った。で、70年代にはこの国でも『アキラ』という核戦争後の世界を描いたマンガが大ヒットしたし、80年代のチェルノブイリからフクシマ、さらには直近の北朝鮮問題へと、「世界の終わり」の話題が絶えることはなかった。
福島の原発事故のときの、あの国内外の過剰反応は、いったいなんだったのだろう。平気な人はまるで平気だったし、「世界の終わり」を抱きすくめてゆくことができるかできないかの違いだったのかもしれない。
ともあれ原初以来、人はいつの時代も追いつめられて生きてきた。この生は追いつめられることと和解してゆくいとなみであり、そこからこの生が活性化してゆくのだし、そこに立ってわれわれは初音ミクと出会った。
この世に生まれ出てくることは「世界の終わり」のはじまりであり、人は思春期になってそのことに気づく。今どきの能天気な大人たちと違って、いつの時代も若者たちはそういうことを意識している。
初音ミクとの出会いによって人類の世界に何がもたらされるかは、もしかしたらこれから先のことかもしれない。
「かわいいの文化」は。民主主義の希望になることができるか?
民主主義は、人を裁く「正義」ではなく、この世界のすべてを許す「魂の純潔」を夢見ることの上に成り立っている。なぜなら、日本列島であれ大陸諸国であれ、民衆の文化とは本質的にそういうものだから。
何を許さないとかというのは支配者の発想で、支配されるものとしての民衆はつねに「許されてある」ことを夢見ているし、許そうとしている。
まあわれわれは、人としての与件に支配されて存在している。まったくこの世界は、初音ミクのいうように「鋼(はがね)の檻(=牢獄)」だ。
人は環境に支配されて生きている存在でもあり、世界中で言葉が違うように国や民族で分かれているのは仕方のないことだが、それでも人として、世界中で共有できることがある。
それが、「かわいい」の文化ではないだろうか。
「かわいい」の文化は、この世のもっとも他愛ないことであると同時に、もっとも高邁な理想でもある。たとえば「赤ん坊はかわいいなあ」とか、まあそのていどのことであるのだが、人類はそれ以外のいったい何が共有できるだろうか。キリスト教の神がどうとか、アラーの神がどうとか、そんなことを世界中の人が共有できる日なんか永久にやってこない。アメリカが大事だとか中国が大事だとか日本が大事だとかフランスが大事だとか、この世界に大事な国などどこにもないのですよ。ただ避けがたく国が存在するという「事実」があるだけだし、国家支配に追いつめられている人は世界中のどこにでもいる。国のことなど忘れて目の前の人と他愛なくときめき合っている状態がいけないわけでも不幸なわけでもない。

まあ、国家支配から離れた民衆だけの文化を持とうとするのは世界中の民衆の本能のようなもので、そうやって今、世界中で「かわいい」の文化が共有されている。
民衆は、よりよい国家など目指さない。国家に支配されながらも、国家のいとなみから離れた民衆だけの世界観や生命観の上に成り立った民衆だけのコミュニティを目指す。
神に支配された教団だろうと権力者に支配された国家だろうと、そんな世界が民衆の望むものであるはずがない。支配されることに対する拒否反応は、誰にだってある。平気で民衆や若者や子供たちを支配しにかかる世の中の大人たちは、どうしてそのことに思いを致すことができないのだろう。きっと、自分自身が支配されることに慣れきっているからだろう。現代人の心は、すでに神や国家制度の「規範=法」に支配されてしまっている。そうしてそれに慣れきるよって自分が他者を支配しにかかることの免罪符を得たつもりになっている。彼らは、支配したりされたりする関係に慣れきっている。そうやってナルシズム(自己撞着)が培養される。そういう現在の世界の状況からの解放をめざしたところから初音ミクが登場してきた。
文明社会は、人をして支配されることに慣れさせてしまう。それは、人を支配することに慣れさせることと同義であり、そうやって神や国家という概念から支配されている権力者は民衆を支配し、民衆の大人たちは子供や若者たちを支配しにかかる。
そこで大人と子供のはざまに立っている若者たちは、支配と被支配のはざまに立って、支配と被支配の関係のない世界を夢見ている。大人だって、夢見ている人はたくさんいる。まあ思春期というのはそういうことに目覚める時期で、この時期の通過の仕方で、夢見ることを死ぬまで携えて生きてゆくことができるかどうかが決定される。夢見ていなければ、心は活性化しないし、「ときめく」という体験ができない。
それがこの社会の仕組みなのだから支配と被支配の関係に慣れろといわれても、それでもいやなものはいやなのですよ。人の心は、根源において支配されることにいやがっている。なぜなら、根源において他愛なくときめき合っている生きものだから。
自意識を持たない初音ミクは、ナルシズムなんか歌わない。つねに人と人の関係を志向している。人と人が他愛なくときめき合う支配のない世界を夢見ている。
その「夢見る」ということを手放したら、民主主義に未来はない。

見上げる青い空が胸にしみる。青い空の向こうには何があるのか?天国や極楽浄土があるのではない。ほんとうは、誰もそんなことなど思っていない。ただもう「異次元の世界」や「死」に対して思いを馳せているだけのこと。それは「わからない」という「喪失感=かなしみ」に浸される体験であり、その途方に暮れた感慨が、その生きてあることの「喪失感=かなしみ」が、初音ミクと出会い祀り上げていった。
人の心は、生きれば生きるほど、生まれたばかりの赤ん坊が持っている「魂の純潔」を失って汚れてゆく。
では、失ったからそれでもういいのかといえば、そうはいかない。死者に対する感慨と同じように、失って二度と手に入らないものであるからこそ、さらに愛おしくなる。そうやって思春期の少女たちは、赤ん坊にときめきかわいがる。
死を知ってしまった存在である人の心はもう、「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆくようにできている。そのようにして見上げる青い空が胸にしみる。
人は、心の底で「魂の純潔に対する遠い憧れ(あるいは遠い懐かしさ)」を抱きながら生きている。そしてそのことに気づくのが思春期であり、とくに「処女=思春期の少女」はそれを誰よりも深く切実にかみしめている(子供はまだ気づいていないし、大人たちはすでに忘れ去って居直っている)。
初音ミクは究極の「処女=思春期の少女」像としての「魂の純潔」の化身であり、若者たちの「魂の純潔に対する遠い憧れ」を癒すアイコン(偶像)として祀り上げられている。
初音ミクのバーチャル映像はこの国の伝統芸能として育ってゆくことができるか?
日本列島の伝統としての民衆文化は、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱きすくめてゆくようにして生まれ育ってきた。しかもそれは、世界中の人の心の底で共有されている人類普遍の感慨でもある。