下流思考宣言、あるいは反知性主義宣言・神道と天皇(160)

僕は、政治経済であれ、学問芸術であれ、この世界の上流の動きにはあまり興味がない。下流の民衆の思考や行動が気になるだけだし、そこのところを歴史の真実として掬い取りたいと試みている。そこのところの動向がこの国全体の歴史の流れを生み出してきた、という部分もあるに違いないわけで。
人の心は、この生からはぐれてゆく。人間的な知性や感性は、そこでこそ活性化する。したがって時代をリードしているのはこの世の真っただ中にいる市民でも支配者でもなく、この世からはぐれていったものたちだし、誰の中にもこの世からはぐれた心が息づいている。
時代が変わるとは、そういうことだ。時代は、時代の外に向かって変わってゆく。
時代にフィットして生きている市民に、時代を変えることができるはずがない。市民にとって時代が変わることは、市民でいられなくなることだ。
現在のこの国には安心して暮らすことができている市民が半数以上いるのであれば、そうかんたんには時代は変わらないのだろう。
立憲民主党枝野幸男は「おたがいさまで助け合う社会をつくりたい」というが、しかしそれは,安全な立場の「市民」が弱いものを助けるのではなく、弱いものどうしが助け合うかたちでしか実現しない。であれば、誰もがこの生からはぐれてしまった「弱いもの」になることによって、そういう「おたがいさま」の社会が生まれてくる。
社会にフィットして「市民」のつもりになってしまったら、支配者の思うつぼなのだ。それは、「社会にフィットできないものは排除すればいい」という支配者の論理に洗脳されてしまうことである。まあ、そのようにして「ネトウヨ」が生まれてくるのだし、「自己責任」論ばかりが横行して「おたがいさま」から遠い社会になってゆく。
ネトウヨが社会にフィットしている人たちかはわからないが、フィットしたがっていることはたしかだろう。そういうかたちで追いつめられている人たちも少なくないのかもしれないし、そういうかたちで追いつめられるということは、それだけ社会的な気運が停滞衰弱していることのあらわれでもある。彼らは、新しい時代など待ち望んでいない。今ここの社会の動きから置き去りにされたくないと焦っている。
ともあれ近ごろは、自分のことをあまり幸せではないと思っている人がふえてきているらしい。しかしそれでいいのであり、それでこそ「おたがいさま」の社会になる。幸せだと思ってしまったら、幸せを守るために、強いものに媚を売りつつ、弱いものをどんどん排除しにかかる。
日本列島の民衆社会の伝統としての「おたがいさまで助け合う社会」は、誰もが生きてあることの「嘆き=かなしみ」を共有していることの上に成り立ってきた。
あのバブル景気のころ、「一億総中流」のわが世の春を謳歌していたおじさんおばさんたちは、それでもカラオケに行けば美空ひばりの『乱れ髪』とか石川さゆりの『天城越え』とかの暗い暗い泣き節演歌を愛唱していた。彼らは、それでもときには、この生やこの社会からはぐれてしまっている気分に浸りたかった。そうやって「おたがいさま」で助け合いときめき合う気分を残しておきたかったのだろう。もともとそういう気分で生きてきたし、それが日本列島の民衆社会の伝統だったのだから。
彼らは、あきれるくらいそういう歌をよく知っている。演歌は衰退したといわれているが、今でも中高年が集まるカラオケスナックでは、演歌ばかりが歌われている。
民衆には民衆の心の世界があり、それは支配者とは違う。そういう伝統なのだし、支配者の心の世界もいずれは民衆のそれに近づいてゆく。近づかなければ支配できないのだから、とうぜんそうなる。。

たとえば弥生時代奈良盆地の集落が大規模に都市化していったことは、民衆の混沌とした集団性によってなされたのであって、支配者の統制支配によってではない。で、その「無主・無縁」の混沌とした都市化の集団性をいとなむためのよりどころとして、天皇の前身となる存在である神社の「巫女」が民衆によって大切に育てられていった。そうして都市化したことの結果として、貴族や豪族等の支配者が天皇と民衆の関係の中間に寄生するように登場してきたのだ。
日本列島でなぜ天皇制が1500年以上続いたのかという問題は誰しも大いに気になるところだが、誰もうまく説明できない。
それは世界的に見ればおおいに異例のことで、世界的な物差しでは説明がつかない。
世界的に見れば王権はいつか必ず倒され交代してゆくわけで、その物差しを天皇制に当てはめることはできない。であれば、当てはまらないのは王権ではないからだ、と考えるしかない。
天皇制は、日本列島で最初にあらわれた「王権のようなもの」で、それがそのまま現在まで続いている。「王権」そのものではない。そのつどのときの権力者によって「王権」であるかのように偽装されてきただけだ。
古代だって、天皇が最高の権力者であるかのように偽装するシステムがつくらていただけだし、権力社会によってそのように記述された歴史文書が残されているだけのことなのに、多くの歴史家がそれを鵜呑みにして古代史を語っている。
この1500年のあいだに実際の権力者はさまざまに交代してきたし、それはもう世界史の法則そのままだといえる。
天皇が滅ぼされなかったのは、最初から実際の権力者ではなかったからだ。まあそれで、世界史の法則と符合する。
権力者は、民衆を異民族の侵略から守ることと引き換えに権力を行使してゆく。しかし海に囲まれたこの島国にはそういう心配がなく、権力社会が発生する必然性がなかった。そのために大和朝廷という最初の権力社会の登場が大陸よりも何千年も遅れたし、その登場の仕方も大陸と同じだったとはいえない。
大和朝廷は、異民族の侵略から守るためにつくられていったのではない。だから、世界的には異例なことに「城砦」がなかった。
弥生時代奈良盆地だって、戦争があったという考古学の遺跡などない。そのころの「環濠集落」は侵略から守るためにつくられたという説もあるが、前記のような「世界基準」を勝手に当てはめているだけで、今ではそうではないという説の方が有力になってきている。もともと水害の多い土地柄で、集落が水浸しになることを防ぐためだった。だから奈良盆地の集落は、農村でも多くの家が一カ所に寄り集まっている。

奈良盆地大和朝廷という権力組織が生まれてきたのは、軍隊を組織して異民族の侵略から守るためではなく、人口が増えすぎて集落運営が煩雑化し、それを担うための組織として生まれてきたのだろう。
古事記に書かれているような「神武天皇が新しい支配者として二千数百年前の奈良盆地に登場してきた」というような話は権力社会が勝手につくり出したまるっきり嘘の物語であって、そんな考古学的証拠があるわけではもちろんないのだが、それが文書として残っているかぎり、歴史家はどうしてもそこから類推できる史実を探ろうとしてしまう。
しかしそこに類推できる史実など一切ないのであり、そういうことにしてときの権力の正当性を誇示したかっただけなのだ。
まあ科学的な知見が乏しかった古代には、どうしてもそういう物語というか迷信が受け入れられてゆく土壌はある。たとえば、古事記に書かれてあるような「この世界のはじまりは神だけがいた」ということはほんとに信じられていたのだろうし、日本人はもともと未来のことも過去のことにもあまりこだわりがないから、それが面白ければそれをそのまま信じてゆくという無邪気なメンタリティを持っている。
まあその無邪気さで、神武東征の話も、そういうことにしておこうということになっていったのだろう。
日本人においては、過去や未来は嘘でもかまわないし、嘘の世界で遊ぶということも伝統になっている。天皇の祖先はアマテラスだし、村の住民全体が平家の落人の子孫だと名乗ったり、日本人の上から下まで家系を偽るということはわりと平気でなされてきた。また「あの長者の家では昔、泊めてやった旅人を殺して金を奪った」という捏造された村の噂が何代にもわたって受け継がれていたりする。
いずれにせよ、嘘の話がほんとうであるかのように信じられてゆくということなど、べつに珍しいことでもなんでもない。
神武東征の話だって、そのときすでに1000年前のこととして語られはじめたのだから、いくらでも嘘をつくることができる。史実に基づいて脚色したというような話ではない、権力社会の権力を正当化するために捏造されたまるっきり嘘の話にすぎないのであり、そこにもし史実が類推できるとしたら、そのときの権力闘争の構図がどうなっていたかということくらいだろう。
そのころの人々だって神武東征の話を面白がっていたのだが、それは、そのころの奈良盆地でどのようにして天皇という存在が生まれてきたかということとはまた別の問題だ。それは、権力社会の問題ではなく、あくまで民衆の歴史の問題であり、そうでなければかくも長く天皇が民衆に愛されてきたということはありえない。
基本的に日本列島の民衆は権力社会に対して従順ではあるが、関心はない。なぜなら民衆は、民衆だけの集団性の文化を持っており、しかもそれは、裁く=許さないことが基本の権力社会とは逆に、裁かない=許すことの上に成り立っている。
遠い昔に神武天皇奈良盆地にやってきて大和朝廷を打ち立てたということでもかまわない、それは許す。しかしそれは民衆が天皇を愛する理由ではない。許すから愛するのではない、愛するから許すのだ。

日本列島の伝統としての「許す」文化、現在の政治経済の状況をややこしいものにしているのもこのことにあるのではないだろうか。「裁く」のではなく、「許す」文化。良くも悪くも民衆とは無防備な存在であり、そのために上のほうの階層のやりたい放題が許されてしまっている。彼らは、民衆のそうしたメンタリティに付け込んでやりたい放題をする。それはもう、政治権力だけじゃなく、ブラック企業とか非正規雇用の蔓延ということも、その上に成り立っている。
日本人は権力に従順だということは、そうかんたんには改まらないし、そのことによるいいことも悪いこともある。民衆には民衆だけの集団性の文化があるということが、そういう理不尽を許してしまっている。
ネトウヨたちは無節操に権力にすり寄ってゆくし、その他の民衆もさしあたり「しょうがない」と許してしまっている。それにはまあ、民衆には民衆だけの文化があるということをちゃんと自覚していないからだろう。
こんなにもあからさまでたくさんのスキャンダルが噴出している安倍政権だが、それでもまだ一定数の支持があるし、とはいえそうはいっても、「安倍政権がいい」と思っている層と「安倍政権でもかまわない」と思っている層がいる。
現在のこの国にだって伝統としての民衆だけの集団性の文化はちゃんと機能しているのだが、機能しているがゆえに権力の側から付け込まれてしまっている。
伝統が滅びたわけではないし、それを再発見しようとする動きが起きてきているかこそらやっかいなのだ。
民衆社会のそうした伝統は、権力社会に自制を促す力を持ち得ているか。それが問題だ。
民衆が政治の世界にあれこれ首を突っ込んでいって権力者と同じ土俵に立ってしまうと、かえって権力者はやりたい放題やってくる。かつて無謀な太平洋戦争に突入していったことだって、まあそういうなりゆきだったのだろう。
民衆には民衆の集団性の文化がある、とちゃんと示さねばならない。それができないかぎり、世の政治家であれ会社の経営者であれ学校の教師であれ家庭の親であれ、そうした権力者たちが自制することはない。
憲法第九条のことにしても、無防備にこの世界のすべてを許すということをどこかの国が示さないかぎり、この世界から戦争がなくなるという希望は見えてこない。
そんな無防備な態度では文明社会で生きてゆけないのだが、そこから何かを学びそんな存在を生かそうとするところに、日本列島の民衆の集団性の伝統がある。
もしもこの世界に「無防備で正直であることこそもっとも有効な交渉術である」ということが成り立つ可能性があるとすれば、それはきっと美意識の問題であり文学の問題である。日本列島の民衆の集団性の伝統は、そういういわば、ナイーブな「ポエム」として成り立っている。そしてそれは近代合理主義の正義・正論とは逆立しているのであり、それに対抗することができるか、それとも押し流されるのか、現在の世界で日本人は、そういうことを試されているのかもしれない。
日本人は、憲法第九条を守ることができるのか、それとも破棄するのか。それは、日本列島の伝統が守られるかどうかという問題でもある。それが不合理な条文であることくらい誰でもわかっている。この国には、それを承知でそれでもそれを守りたいという人が一定数いるわけで、それがなぜかということを問うてみることも無駄でもあるまい。
現在の右翼たちの多くが、核を持つことがこの国を守るためのもっとも有効な方法だというが、たとえそれが正義であり正論であるにせよ、彼らはこの国の伝統というものが何もわかっていない。日本列島の住民は、国であれ個人であれ、「滅びる」ということと向き合って歴史を歩んできたのだし、心はそこから華やぎ活性化してゆく。
まあ、生きられなさを生きる下流のもたちはそこから目を背けることはできないし、それは、西行や一遍や親鸞道元鴨長明や兼好や本居宣長小林秀雄などの、この国の歴史におけるもっとも高度な知性が問い続けてきた問題でもある。
どこかのバカな評論家が「下流志向」などとさげすんでいい気になっているが、この国の伝統文化は、この生やこの社会からはぐれていった「下流」のもたちによってリードされてきたということもあるのですよ。