非合理なもの・神道と天皇(161)

ポピュリズム(=反知性主義)がダメだといっても、今どきのインテリのいったい誰が信用できるというのか。左翼のインテリも右翼のインテリも、いまいちピンとこない。僕は、日本列島の下層の民衆として、政治意識に目覚めるということ自体に拒否反応がある。「人間とは何か」とか「日本人とは何か」というようなことは大いに気になるのだが、それは歴史や哲学の問題であって、政治の問題ではない。とくに天皇制の起源を、政治史として説明してしまうことには大いに不満がある。
いきなり奈良盆地に権力者として登場してきた天皇がその後の千数百年のあいだずっと民衆に慕われ続けてきた、ということが、人類史の普遍的な原理としてありえるだろうか。まあそういう話を捏造するということは世界中で普遍的に見られることであるが、それはまあ、そういうことにしておけば奈良盆地の歴史の途中から登場してきた大和朝廷という権力社会に正当性を与えることができるからではないのか。
じっさいの奈良盆地の歴史は、最初に民衆と天皇の直接的で親密な関係があった。そのときはまだ天皇は権力者でもなんでもなく、民衆から祀り上げられ守られているだけの存在だったのであり、集団の運営そのものは民衆だけの自治でやっていた。しかし奈良盆地の人口がふくらみすぎ、集落の範囲も広がってくれば、慣習だけの自治運営もスムーズにはいかなくなってくる。いろいろいさかいも起きてくる。で、そこに権力社会が寄生してきて、天皇を最高の権力者であるかのように偽装しつつみずからの権力の隠れ蓑にしていった。つまり、そうやって税の取り立てを拡大しようとしていった。それだけのことであって、天皇は、大和朝廷が生まれる以前から、民衆によって祀り上げられ守られながら存在していたのだ。
天皇を生み出したのは民衆の集団性の文化であって、権力社会ではない。

ポピュリズムがどうのといっても、反知性主義の民衆の集団性の文化のほうが、知性を標榜して正義・正論を競っているインテリの思考よりもずっと高度に知性的であったりする。
まあ、知性か反知性かということよりも、権力=秩序を志向して人や世界を「裁く」か、それとも無主・無縁の混沌のままにこの世界のすべてを「許す」ところから生きはじめるか、という問題かもしれない。前者は文明社会の共同体の文化であり、後者の民衆社会の集団性の文化においては、誰もがこの社会からはぐれた存在として立ちながら、あらためてときめき合い連携してゆく。まあ原始人は世界中どこでもそのようにして集団をいとなんでいたのであり、日本列島ではそれを、文明に対するカウンターカルチャーとしてどこまでも洗練・発達させていった。
日本列島においては、権力社会の集団性の文化と民衆社会のそれとが、ことに際立って乖離している。それは、江戸時代までは「異民族」という共通の敵を持たなかったために、両者に明確な契約関係や信頼関係が成り立たない歴史を歩んできたからだろう。
集団のアイデンティティを掲げて「結束」してゆく集団性と、誰もが無主・無縁の裸一貫の存在としてときめき合い「連携」してゆく集団性、日本人の集団性にはそういう二面性がある。その二面性は、権力者の中にも民衆の中にもある。そうして異民族との軋轢をはじめて本格的に体験した明治以降は、権力社会のそうした「結束」の集団性が、「啓蒙」の名のもとに民衆社会をどんどん洗脳し侵蝕していった。

最近の右翼のあいだでは明治の啓蒙家としての福沢諭吉に対する評価が高くなっているらしいが、僕は明治のインテリなんか信用していない、おろかな民衆のほうを信用する。
そのころに日本列島にやってきた外国人が感動した日本人は、民衆であって政治家やインテリなどの権力社会のものたちに対してではない。彼らが民衆の何に感動したかといえば、その集団性の文化であり、そこに人としての品性の高さとか美しさというようなものを見ていた。
日本人は歴史的に異民族との軋轢を体験してこなかったから、人としてすれていなかったのであり、外国人はそこに感動した。つまり、近代合理主義的な損得勘定で生きていなかったわけで、その作法がとても清潔で洗練されているところが新鮮だったらしい。
まあ僕は福沢諭吉の書いたものなど何も読んでいないのだからえらそうなことはいえないのだが、今さら読もうとも思わない。もしも右翼の人と議論する機会が与えられるならとりあえず読んでみようかとは思うが、今のところそんな機会もないし、とにかく明治の啓蒙家のいうことや人格よりも、明治になってもなお残されていた民衆社会の伝統のほうが知りたい。そしてその資料は、そのころに日本列島にやってきたモースとかアーネスト・サトウとか、イザベラ・バードとかラフカディオ・ハーンとかの欧米のインテリによって書かれたものに見出すことができる。彼らは、日本列島の上層権力社会ではなく、下層の民衆と出会って、はじめて日本人にときめき感動したのであり、それは、ただ「素朴」だというようなことではなく、何かとても洗練(ソフィストケイト)された人間性を感じたのだ。

明治11年に日本列島にやってきたイギリス人女性旅行家であるイザベラ・バードは、「ここは女が一人でも旅行できる世界で唯一の国だ」といっている。彼女は行く先々の村や町で外国人を一目見ようと集まってきたたくさんの群衆に囲まれながら、しかし危害をこうむることも法外な金を要求されることも一度もなく、馬子や人力車の車夫ですら、彼女が差し出すチップを断ることが多かった、下層の民衆ほどそういうところは清潔だった、と述懐している。
日本人の、この物見高さというかおっちょこちょいぶりは進取の気性でもあり、それにともなうこの潔さは、たんなる「素朴さ」という言葉では片付かない集団性の文化の洗練度が潜んでいるわけで、それは民衆社会独自に洗練していったものでもある。
まあ武家社会にもそういう潔さがあるとすれば、民衆社会から上がっていったものだろう。なぜなら権力社会とははもともと抜け目のないものが勝利する権力闘争の上に成り立っているのであり、そこでこのような潔さの文化が生まれてくることは論理的にありえない。
現在の権力社会にすり寄っているネトウヨたちだって、体制側の政治家や官僚の抜け目のなさをひとつの合理性として大いに肯定している。
この生の不合理や理不尽を受け入れる潔さは、民衆社会から生まれ育ってきたメンタリティであり、権力社会の本質は、民衆に不合理や理不尽を押し付け正当化してゆくことの上に成り立っている。
もしもこの国の権力社会に清廉潔白というような潔さの文化の伝統があるとするなら、それは民衆社会から上がってきたものだ。
言い換えれば、もしもこの国の権力社会に腐敗が横行しているとすれば、民衆社会の腐敗が反映している。というか、時代そのものが、腐敗し疲弊してしまっているのかもしれない。まあ、まともな顔をしてまともなことをいっている大人やインテリが、ほんとに少ない。それはつまり、世の中が権力社会の論理で動いてしまっている、ということだ。
戦後の日本人の多くが、政治かぶれしていった。

海に囲まれた島国で「異民族」という敵がいなかった日本列島の権力社会は、伝統的に権力の正当性の根拠を持っていない。だから天皇の存在を必要としてきたのだし、民衆にとっても天皇が民衆自身の集団性の文化を引き継ぐ根拠になってきた。
権力社会が天皇の権威に依拠しているということは、彼らは精神的にも民衆社会に寄生しているということを意味する。
無邪気で物見高く清浄であることに憧れる……良くも悪くも日本列島の民衆のそういうメンタリティの伝統は天皇の存在によって担保されてきたし、それが、明治の近代化や戦後復興のダイナミズムの原動力にもなってきた。いやもう、それこそが日本文化の伝統の根本的なかたちであり、つまり日本文化の伝統は民衆社会が担ってきた、ということだ。
今どきのインテリは、民衆社会を「ポピュリズム」とか「反知性主義」という名のもとに批判したり啓蒙しリードしようとしたりするが、それこそが倒錯的な思考であり、この国の知性の役割は民衆社会から何を学ぶかということにある。民衆の無意識は、インテリの知性よりももっと高度に知的なのだ。
「人間とは何か」とか「日本人とは何か」という問題の解答を、僕はインテリ階級から学ぼうとは思わない。それは、民衆の無意識のもとに宿っている。
右翼であれ左翼であれ、たとえば内田樹とか宮台真司とか西部邁とか、無造作に正義・正論を吐いているだけの知識人が、あまりにもかんたんにもてはやされゆく。もしかしたらその支持者は中高年に多いのだろうか。オールド右翼と、オールド左翼。
ただ、現在の若い評論家は、右翼でも左翼でもないようなタイプが増えてきているようにも見える。悪くいえば、日和見主義で時代や政治を語ろうとしているということになるのだが、それが正義・正論になる時代になってきている、ということだろうか。そうでなければ現在のマジョリティである「無党派層」を説得することはできない。
ネット社会ではとうぜんネトウヨの発言が目立ったりするのだが、目立つほどには仲間や同志が多くいるわけではないし、その発言の説得力も彼らの口ぶりほどには高くない。
いずれにせよ合理的に正義・正論を語ろうとするのがインテリで、その人格によってカリスマ的な人気になっているインテリは今のところ見当たらないし、じつは天皇の人気はその人格の気配にこそある。

日本列島の民衆の伝統においては、正義・正論よりも「人格の気配」を見ているのだし、今どきはその伝統を見失っているから安直な正義・正論がもてはやされる。
合理的な正義・正論が大事であるのなら、「非正規雇用」も「非婚化」も「階層化」も「セクハラ・パワハラ」もぜんぶ肯定されてしまうし、人間的な「連携」の集団性は成り立たなくなる。
非合理で美しく清らかなものに対する憧れがないのなら、日本列島の民衆社会の文化の伝統は滅びるほかないし、原初以来の人類が今日まで引き継いできた人としての命や心の活性化もない。
非合理であるとは、現世の論理には当てはまらないということであり、非合理に憧れることは「他界=異次元の世界」に憧れるということだ。なんのかのといっても日本列島の民衆は、現世を「憂き世」と嘆きつつ、「異次元的な魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いて歴史を歩んできたのであり、それを基礎にして「潔さ」とか「清浄」というようなことを大切にする習俗が育ってきた。
民衆には、人間の良心とは何だろう、ということを問う心映えがある。少なくとも無意識においては、そのことを切実に問いながら歴史を歩んできたのではないだろうか。まあ、世界中の民衆がそうだともいえるわけだが。なぜなら誰もが生きにくい生を生きているのなら、そのことを問わなければ集団は成り立たない。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、生きにくさを生きることだった。
たぶん日本列島だけのことではない。人類世界における普遍的な民衆社会の無意識というか、その生の作法の伝統には、驚くほど純潔な問いが息づいている。
この社会に「法」が機能しているということは、法に触れなければ何をしてもいいということになるわけだが、民衆社会の非合理な思考や行動の原理は、法=現世を超えたところで生成している。つまり、政治家やインテリよりも知的に一段高いステージに立っている、ということだ。そしてそれはまた、愚かな若者や子供の思考や行動の原理は、訳知り顔の大人よりもずっと知的にレベルが高い、ということでもある。彼らのほうが、「魂の純潔に対する遠い憧れ」がずっと切実で深い。
大人になって「生き延びる」ことが最優先の思考や行動になれば、政治経済とは対極にある非合理なものすなわち「魂の純潔に対する遠い憧れ」は、どんどん希薄になってゆく。

余談ではあるが、今、日大のアメフト部の悪質タックル問題がマスコミで大きく騒がれていて、政治的なさまざまな問題に対する報道がなおざりにされている、というような意見もあるわけだが、民衆の関心が大きくそちらのほうに傾いているのなら、それはもうしょうがない。
それは、現世的な政治経済の問題ではなく、人としての「魂の純潔に対する憧れ」の問題であり、そこに民衆の無意識は注目している。
悪質なタックルをしたということは、選手の人格や心が問われたということだろう。そしてそのあと、そのことに対する監督コーチの責任の所在をひたすら隠蔽しようとする態度があらわれてきた。それは、人としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」はいったいどこに行ってしまったのか、という問題だ。
そうして、反則を犯した当該選手が個人で名乗り出てきて、記者会見をした。で、そのときのこの選手の態度が、一般の予想とは違ってあまりにも誠実で潔かったので、世間は大いに驚くと同時に、日大の監督やコーチをはじめとする関係者の卑劣さがなお浮き彫りになっていった。
彼はまったく普通の若者で、しかも「魂の純潔に対する遠い憧れ」があった。そのやさしさと率直さに、世間は感動した。これは、ジェネレーションギャップの問題でもあり、日大側の態度は今どきの大人社会の縮図であり、彼もまた今どきの若者が共有しているメンタリティの持ち主だった。
彼は、監督やコーチから、どんなにプレーのレベルが高くてもおまえのそのやさしさがフットボール選手としてダメなのだ、それではほかの選手に示しがつかない、フットボール選手は「凶器」にならなければいけない、というような意味のことをいわれ、見せしめのようにレギュラーポジションから外されたりしながら追いつめられていった。
彼は「自分にはもうフットボールをする権利はないし、したいとも思わない」といった。高校時代はそのスポーツに熱中し、大学の一流選手にもなった彼のこの気持ちはほんとうか。
世間の同情を買うためにそういっているだけだ、ととらえるものもいるだろうが、きっと本心だろう。
今どきは、せっかく一流大学から一流企業に入ったのにあっさりとやめてしまう若者がいくらでもいる。大恋愛をして結婚したのに、あっさり離婚してしまう。それらと同じだろう。彼らは、大人や大人社会との出会いに深く幻滅し、そこから逃げ出そうとする。この場合の「幻滅する」とは、希望を「喪失する」ということでもある。その「喪失感」を抱きすくめてゆくことによって、人は、すべてを捨てて一から出直そうとする。
彼は、反則タックルを指示した監督やコーチに対する恨み言はいっさいいわなかった。
「すべてを水に流す」というのは日本列島の伝統だし、原初の人類は猿であることをやめて二本の足で立ち上がり、猿よりももっと弱い猿として生きはじめた。原始時代の人類拡散だって、すべてを捨てて新しい土地で生き直す行動だった。
人は、追いつめられたら「何もかもどうでもいい」という気持ちになってしまう。そうやって自殺する人もいる。それは、「この世に生まれ出てきたことは何かの間違いであり、生きてあることはいたたまれない」という思いが誰の中にもあるからだろう。
たとえフットボールの一流選手になっても、その結果としての大人たちとの関係がこんなにも息苦しいものであるのなら、もうフットボールなんかしたくない、と彼は思った。
今どき、世の中の愛することができる大人なんか天皇だけじゃないか……極端にいえばというか象徴的にいえばというか、若者たちはまあそういう情況に置かれている。
上手に生きてゆくための正義・正論を振り回してもしょうがない。あなたは若者に愛される大人であることができているか……そう問われている。
顔や実名を世間にさらしてでも相手に謝罪せよ、と諭した彼の親たちは彼から愛されているのだろうが、監督やコーチをはじめとするほとんどの日大関係者が愛される大人であることができなかった。正しいか間違っているかということは、この際どうでもいい。日本列島の民衆は、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有している。だからまあ、重要な政治問題よりも、こんな些細な問題が大きなニュースになってしまう。
民衆の無意識はたぶん、「正しい市民」であることを目指しているわけではない。正しいことがそのまま美しく魅力的なことになるわけではない。
正しい大人なんかいくらでもいるが、愛される大人がほんとに少なくなってしまった。
右翼であれ左翼であれ、つまらない物差しで人を裁くことばかりしていて、いったい誰があなたを愛してくれるというのか。まあ、あなた自身が誰も愛していないから、つまらない物差しで人を裁こうとするのだ。
初音ミクは「やさしさが明日を変える」と歌っている。この国の民衆は、政治意識も宗教意識も未熟だからこそ、そんな他愛ないフレーズが通用してしまう。他愛ないようでも、そこにはとても深い意味が隠されている。