時代の嘆き、嘆きの時代・神道と天皇(159)

はっきり言って、僕はダメ人間です。普通のことを普通にするということができない。どうしてもできない。居直るつもりはないけど、だめになってしまうことにも人間性の自然はあるわけで、世の中の人の全員がちゃんとした人間になれるはずがない。それは、滅びてゆくことへの誘惑であり、その弱さを僕は断ち切ることができない。年を取ってますますそうなってきたという傾向さえある。人間なのだもの、日本人なのだもの、そういう誘惑はたしかにあるし、人間性の自然を問うということはとりあえず現在の僕の主要テーマでもある。
正しく生きる能力を持った人こそがこの世界の真実を知っているとはかぎらない。正しい人間だからこそわかっていないのだ、ということも確かにある。なぜなら、正しく生きることは、真実よりも正義や幸せのほうが大切だということでもある。人は真実を隠ぺいして正義や幸せを獲得する。それが文明社会の普遍的な仕組みになっていたりする。
人間性の自然なんかにこだわっていたら幸せになれない。だから彼らは、人間性の自然を克服するのが人間性の自然だ、という。まあ「大人になる」とはそういうことで、その論理で大人たちは若者や子供を洗脳・教育しにかかる。

宮台真司は、現在もっともマスコミにおける露出度の高い社会学者のひとりにちがいない。いったい誰に人気があるのか知らないが、何事につけても自信満々に「こうだ」と決めつけていうのが彼の戦略で、そういってもらいたがっている庶民がたくさんいる。情報が溢れすぎてそのぶん不安や迷いも多い時代だからだろうか。しかしどうしてあんなうさんくさい態度と顔つきの人間がもてはやされるのだろう。そういう時代だということだろうか。時代そのものがそういう態度や顔つきになっていて、彼は人々のそういう欲望を体現している、ともいえそうだ。
この前、宮台真司と東裕紀が対談しているYOUTUBEを見た。
この二人の思想的立ち位置はひとまず左翼・リベラルの範疇に属しているが、その内容はかなり違っていて、東はときどき宮台を批判することを発言したりしている。
対談の内容は、社会学者である宮台がこのごろ「現在の郊外団地の家族には未来がない」という発言をしていて、宮台がそのわけを説明し東がそれには納得できないという感想を漏らす、というようなことだった。
現代社会の幸福論。現在の郊外団地は昔と違って住民の身分が誰もかれもただのサラリーマンであるという画一的な状況で、豊かなコミュニケーション能力が育つ環境になっていない。つまりこれからの社会は学歴だけでは通用せず、コミュニケーション能力がないと生き残れない、ということを今どきの親たちはなんにもわかっていない、と宮台はいう。
まあ、そうかもしれない。
しかし、生き残れなかったらいけないのか。幸せでない人生は人生ではないのか。宮台の言い分では人生ではないということになるし、東は「人それぞれだからいいじゃないですか」と答えている。
人生には落ちこぼれることの味わいというのもあり、それによって磨かれる心もあるわけで、そうやってこの国の中世には「隠遁」というライフスタイルが流行ったのだし、まあ幸せじゃない人生は人生じゃないという論理になってしまうのは宮台のいじましい市民根性的強迫観念であり、思考の貧困でもある。そしてそのことをおそらく東はちゃんと気づいているのだが、ひとまず先輩を立てるというかたちであまり過激な反論はしていない。
宮台は「な、そうだろう」と同意を促し、「いやいや僕としては賛成するわけにいきません」と答える東の気持ちもわからなくはないが、ちょっと生ぬるい。
なんといっても白熱した論争というのは、面と向かって即興の言葉を交し合う対談という形式では難しい。
できることなら往復書簡かなんかで、ガチの勝負をしてもらいたいものだ。彼らがそれをしないと、それに続く若手の評論家たちの態度はなお生ぬるくなる。東にしてみれば「俺は先輩の宮台に反論しているが、おまえたち若手は俺になんにもいってこない」といいたいだろうが、宮台がいうように「コミュニケーションが不毛の時代」であるのなら、けっきょくそのようになる。
もしも現在が時代の変わり目であるのなら、とうぜん激しいバトルは起きてくるに違いない。右翼か左翼かという問題ではなく、もっと深いところの「人間とは何か」というレベルでやってくれ。死ぬか生きるか、どちらが生き残るか、読者だってきっとそれを望んでいる。
とはいえ、宮台には愛がない。彼は「正しさ」とか「幸せ」というようなものにこだわっているだけで、「人間」を見ていない。その点東のほうが、よほど人恋しさの「情」を感じさせる。

最近の宮台は、「親はいかにあるべきか」というような発言をよくしている。よほど自分の子育てに自信があるのだろうか。
そこで東は「ようするにあなたは、古い歴史のある町や麻布や白金台のような閑静な住宅街でなければまともな子供は育たないといっているのですよ」といい、宮台は「いや、そうじゃなく、最近の親たちは子供に学歴をつけさせる事ばかりきゅうきゅうとして、これからはコミュニケーション能力がなければ仕事も恋愛もうまくいかなるということがまるでわかっていない」とはぐらかす。
まあ宮台はそうやって時流に乗って成功してきたのだろうが、しかしそんな処世術に長けた人間よりも最終的には魅力的な人間のほうが認められるのだし、魅力的な人間なら成功しなくてもかまわない、ということもある。
いつの時代もこの世に魅力的な人間が存在するということこそが人類の希望になっているのだし、コミュニケーション能力があって処世術に長けていることが魅力的であることの証しであるのではない。子供に対してそんな能力を願うことこそ、むしろ現代社会の病理だともいえる。
上手に生きてゆけなくてもいいでもいいではないか。人の子の親としては、心も体も健やかに育ってもらいたいという願いがあるだけだろう。
宮台は、若いころから現在までずいぶん女にもてて生きてきたような言い方をする。そうかもしれない。ただねえ、コミュニケーション能力で女をたらしこむこととセックスアピール(人間的魅力)とは違う。
彼は映画評論も数多く発表しているが、映画とはコミュニケーション能力を追求するツールだろうか。そうではあるまい。コミュニケーションに成功して幸せになる……そんなハッピーエンドの物語など、ひと昔前のハリウッド映画の話だろう。
たとえば現在の映画界の巨匠のひとりであるパトリス・ルコントが描く人間などは、『橋の上の娘』にしろ『仕立屋の恋』にしろ『髪結いの亭主』にしろ、つねにディスコミュニケーションの場におけるセックスアピール(人間的魅力)が第一のテーマになっている。
人と人の関係の基礎はコミュニケーションにあるのではない、ときめき合うことにある。それがルコントの思想というか人間観ではないだろうか。
つまり、子供は親の教える通りには育たない、みずからのときめきとともにみずから学び、みずから勝手に育ってゆく。したがって子供が育ってゆくにあたって親がどんな人間かということは大いに問題だが、親が勝手にいじくりまわしていいはずはない。子供をどのように育てるかという問題は、ほんらい存在しない。ほんらい的には、子供にときめいているか、子供からときめかれているか、という問題があるだけだろう。

まあどんな能力であれ、それは子供自身がその気になることによって豊かに身に付くのであって、親の教育の効果などたかが知れている。
人は「学ぶ」存在であって、「教える」ことに人間性の本質があるのではない。
教育者はどうしても「教える」ということを特権化したがるが、それこそが文明制度の病理なのだ。それが健康なことなら、権力者が民衆を洗脳し宗教者が子供を洗脳してしまうことだって否定できなくなる。
法を施行して税を取り立てる……これこそまさに「教える」という態度以外の何ものでもない。そうして言語学者は、言葉の本質は「伝達=教える=コミュニケーション」にある、という。また歴史家においては、文化の伝承は言葉で「教える」ことによってはじめて可能になる、などというが、たとえば土器や石器のつくり方なんか、教えられなくても見よう見まねで覚えられる。
人類史における言葉の発生は、教えるために頭の中に言葉が浮かんだ、というわけではあるまい。思わず発してしまった音声を聞くことによって、それが言葉になっていると学んでいっただけだ。「教える」力が言葉を生み出したのではない。「学ぶ」力から言葉が生まれてきたのだ。
赤ん坊は、言葉を「聞く」ことのときめきとともに勝手に言葉を覚えてゆく。親がどんなにがんばって教えようとしても、覚えない子はなかなか覚えない。
「教える」ことの不可能性と「学ぶ」ことの可能性、このことをちゃんと自覚していないとよき親や教師にはなれない。「教える」ことが人と人の関係を成り立たせているのではない。それは、「学ぶ=ときめく」ことなしには成り立たない。

「教える」ことはひとつの「権力」であり、それによってよりよい社会が生まれる、と宮台は考えているのだろうか。彼にとって「親」とは「教える=権力」の上に成り立っている存在で、まあ根っからの権力志向のお人であるらしい。
子供は親の計画通りに育つのか。
嘘つきの親から「正直であれ」と教えられれば正直な子供が育つかといえば、そうはいかない。子供は親の「嘘つき」をまねるし、学ぶ。
人は根源において他者にときめいている存在だから、「学ぶ」ということができるし、「学ぶ」ということしかできない。たとえ親子であっても、ときめき合えばいいだけのこと。言い換えれば、子供に何を教えるかという問題が最優先してしまうのは、「関係の衰弱」を意味しているだけのことかもしれない。近ごろはそんなハウツー本というか啓発本が流行しているらしくて、宮台もしっかりその波に乗っている。
現在の郊外団地の住民の身分や思考が画一化してしまっているとしても、昔の日本列島には日本人しかいなかったのだし、そこをやりくりしながら多様性を止揚してゆくのがこの国ならではの集団性の伝統になってきた。
もともと日本列島は、人類拡散の行き止まりの土地として、南方系北方系中国朝鮮系と、種々雑多な人間が流れてきた。
今どきの右翼は「日本人の同質性を守らねばならない」というが、同質性とは無縁の「混沌」とした関係の賑わいをつくってゆくことこそこの国の伝統の真骨頂なのだ。であれば住む所なんか郊外の団地だろうと橋の下だろうと白金台だろうとどこでもいいともいえるし、どこにだってそれなりの問題はあるのだろう。
まあ僕は社会学者ではないから、そのあたり問題のことはよくわからない。ただ宮台が、自分は正しく生きてきた正しい存在であるという前提でものをいっていることに小さくはない違和感を覚える。上野千鶴子も、そうやって自分を基準にして時代や社会を語りたがるところがある。宮台真司上野千鶴子のような人間になることがそんなに素晴らしいことなのか。彼らはどうしてそんなにも自分を肯定するのだろうか。そうやって彼らは「教える」ということを特権化してゆく。
この社会の魅力的な人は自分の「外部」にいるのだし、その人はこの社会の「外部」に立っているものでもある。社会学者は社会を研究する人だから、社会の「外部」に対する視線や憧れはあまりないのかもしれない。
情報化社会は、「伝達する」とか「教える」とか「啓蒙する」とか、さらには「洗脳する」というようなことが肯定される。何はともあれ彼らは、そういう時代の社会学者なのだ。

現在の郊外団地は、建物の外観も部屋の調度も暮らしぶりも、戦後間もない時代とは格段にレベルアップしている。だからこそ人々の意識も「生命賛歌」にどんどん傾いていってしまうし、それは現代社会全体の病理でもある。
この生の「外部」としての「死」に対する視線を喪失しているということ、それは、時代の「外部」に対する視線を喪失している、ということでもある。それでは時代は変わりようがないわけで、そうやって時代=社会が停滞してしまっている。
保守化、右傾化、の時代。
みんなが、自分の人生はよい人生だ、と思っているのだろうか。この生を嘆いてこの生の「外部」に対する遠い憧れを紡いでゆくことにこそこの国の伝統があるわけで、この生や日本人であることに執着・耽溺することなんか、ほんらい保守化でも右傾化でもなんでもない。ただ「時代に踊らされている」というだけのこと。
この生や日本人であることを嘆きつつ受け入れてゆくところから心が華やぎ飛躍し活性化してゆく。おそらく新しい時代=社会はそのような「ときめく心」によって切り拓かれてゆくわけで、宮台のいうようにコミュニケーション能力で相手をたらしこむことばかり競い合っていてもますます停滞するばかりで、けっして活性化しない。
今、時代=社会が変わりつつあることの胎動は起きているのか。それは、宮台や上野の自意識にリードされて変わってゆくのではない。時代=社会は、時代=社会によって変わってゆく。
現在は、保守化右傾化しているのではない、停滞してしまっているだけなのだ。しかし停滞していることの嘆きが湧いてくれば、そこから心は活性化し時代=社会は変わってゆく。
戦後のこの国の復興だって、喪失感の嘆きからはじまった。
満足してしまったら、時代=社会なんか変わらない。
確かに現在の郊外団地の心は荒廃してしまっているのかもしれない。しかしその宮台がダメだという、そこから時代=社会が変わってゆくのかもしれない。そこにこそ現在の社会問題が集約されていて、そこが再生しないことには、この国全体の少子化も、非婚化も、引きこもりのニートも、地方の過疎化も、先が見えてこないのかもしれない。