世界の終わりを味わい尽くす・神道と天皇(126)

日本人は、「非存在」を抱きすくめてゆく。日本人にとっては、生きることも死んでゆくことも、究極においては「消えてゆく」ことの「かなしみ(哀切)」を抱きすくめてゆくことにある。
誰だって、うれしくて泣くときはあるだろう。それだって、本質的には「かなしみ(哀切)」を抱きすくめている体験なのだ。女は、セックスのエクスタシーを汲み上げながら哀切きわまりない声を上げているではないか。
そのとき人は「非存在」を抱きすくめながら「消えてゆく」ことの「かなしみ(哀切)」に浸されているのであり、それはまた、ここで何度もいってきた「魂の純潔に対する遠い憧れ」に浸されてゆく体験でもあるし、そのようにして人類の「倫理」は生まれ育ってきた。
人は「かなしみ」に浸された存在であるからこそ豊かなときめきや感動を体験する。そしてそれこそがじつは「かわいい」の文化の通奏低音にほかならない。
その「かなしみ」は「処女=思春期の少女」においてもっとも深く切実に汲み上げられている。そこから「かわいい」の文化が生まれてきた。その「かなしみ」は、じつは人間なら誰の中にもある。
猿よりも弱い猿が二本の足で立っていることの「かなしみ」、というものがある。
人は、生きられないことの「かなしみ」とともに生きている。因果なことにそこにおいてこそこの生も心も活性化する。
この生は、「もう死んでもいい」という勢いで活性化する。「処女=思春期の少女」は、生と死のはざまのその勢いが生まれる地平に立っている。だから美しい。やまんばギャルのガングロ・ファッションにしろ今どきのコスプレ・ファッションにしろ、その社会の美の基準や規範から超出したさまには「もう死んでもいい」という勢いがあり、そのとき彼女らは、ビルの屋上のフェンスの上に立って振り返りにっこりと笑っているのだ。
その笑顔の輝きは、「信じる」ものを見失った「寄る辺ない」心から発している。
まあこういうことは、国家とか天皇とかの権威にひたすらしがみついて離そうとしない狂信的な右翼のものたちにはわかるまい。
彼らは「権威」が大事だというが、それこそがまさに宗教的な態度であり、そんなものどうでもいいじゃないか。
日本列島の伝統においては、「寄る辺ない心」のほうが美しいのであり、「寄る辺ない心」とともに日本列島ならではの文化が育ってきた。
そして文明の発展に疲れた世界中が今、「寄る辺ない心」に浸されながら、既成の権威を信じなくなってきている。そのようにして「かわいいの文化」が世界中に広がりはじめているのではないだろうか。

新しい時代、新しい世界は出現するだろうか。
そのためにはまず「終わり」がやってこなければならない。
現在の文明社会はもうすでに機能不全に陥っている、などといわれたりしているが、新しい世界は新しい世界を構想することによって出現するかといえば、おそらくそうではなく、その前にまず「世界の終わり」を味わい尽くすことが必要だろう。
日本列島の戦後復興は、途方に暮れて「寄る辺ない心」に浸りきったところからはじまっている。
たとえばトランプゲームでマイナスのカードを全部集めたらその瞬間にオールマイティになるというように、そんな体験を通過しなければ新しい世界はやってこないのではないだろうか。
絶望とともに「世界の終わり」を味わい尽くすこと、それがきっと新しい世界が出現する契機になる。
文化とは、人として生きてあることの「かなしみ」を味わい尽くすことだ。人は、根源においてそういう生きものであるのではないだろうか。
高度経済成長の復活を……などというのなら、それは新しい世界でもなんでもないし、アメリカや日本のような先進国でそれが叶うはずもないことは、みんな知っている。
民族紛争があちこちで起き、経済格差が広がり、そうやって世界がますます分断されていっている。であれば、とにかく現在の世界の人々がまず第一に思い描いている「新しい世界」は、「みんなが仲良くやっていける世界」だろう。それが、少なくとも世界中の「かわいいの文化」に熱中しているものたちの無意識の願いなのだ。そうやって彼らは、人として生きてあることの「かなしみ」を味わい尽くそうとしているのであり、それは「世界の終わり」を味わい尽くすことでもある。
初音ミクという「非存在=異次元の世界の女神」の登場は、「世界の終わりの出現」なのだ。

人類の文明社会は、政治経済の問題で集団をいとなむ歴史を歩んできた、そしてそれが、ここに至って行き詰まりを見せはじめている。
もう政治経済によっては問題は解決されないし、「文化」の問題が政治経済を変える、ともいえるのかもしれない。
今となっては、「新しい世界の出現」はもしかしたら文化の問題かもしれない。これまでだって人類の歴史は、つまるところ「文化の問題」を基礎にして流れてきたのではないだろうか。
一般的には、社会の政治経済の仕組みのことを「下部構造=基礎構造」といわれているが、人類社会の普遍的な「下部構造=基礎構造」とは、じつは今まで「上部構造」のようにいわれてきた「文化」のかたちのことをいうのではないだろうか。
世界中の地域で違う「社会の構造」は、政治経済の仕組みの違いではなく、「文化」の違いとして決定されている。そして「文化」というと、すぐに学問や芸術の問題が持ち出されるが、もっと基礎的な、社会の誰もが共有している世界観とか生命観等の「心のかたち」として問われるべきではないだろうか。
日本人は桜の花が好きだけど西洋人は薔薇が好きだとか、世界中で言葉や歌や踊りのさまが違うとか、まあそのようなことだ。そのようなことが、「社会の構造」を決定しているのではないだろうか。
そして、世界中の人々が花が好きで、どこでもそれぞれ大昔からの言葉や歌や踊りの歴史を持っていて、人間ならみんなそうだろうという普遍的な共通性もある。
というわけでここでは、人間ならみんな「かわいい」ものが好きだろう、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っているだろう、という問題について考えてきたわけで、文明社会における支配者による政治経済に対する欲望および構想はつねにこの「文化」の問題によって挫折させられてきた、という歴史があるのではないだろうか。
あえていっておこう。「新しい時代」は、世界中のおバカなギャルたちにリードされながら出現してくるのであって、政治経済のはんぱな正義・正論を振り回していい気になっている大人たちによってではない、と。
深く考える必要もない。世界中の人々が生きてあることの「かなしみ」を共有し「かわいい」ものにときめいているという、そのことが世界を変えるのだし、そのことによってしか世界は変わらない。これはもう、人類史の法則なのだ。二本の足で立ち上がって以来、ずっとそうやって歴史を歩んできた。

文明社会の歴史は、支配者が滅び交代してゆく歴史であり、とうとう「民主主義」という民衆が支配者になる段階にまで来た。で、最終的には何処に行き着くかといえば、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を支配者として仰ぐ時代がやってくる、ということだ。
メソポタミアの王にはじまって、なぜ支配者(支配階級)が滅んでゆくということがつねに起きてきたかというと、人間性の自然に「支配を否定する」という原理がはたらいているからだろう。文明社会(国家)は「支配」によって成り立っているが、同時に支配はつねに否定されている。支配を否定することが、新しい支配の登場を生む。人類の歴史はそんなことを果てしなく繰り返しながら、とうとう民主主義に行き着いた。
日本列島の天皇は、本質的には「生きられないこの世のもっとも弱いもの」という性格を持って存在しているのであり、それが究極の「王」としての性格にほかならない。なんのかのといっても究極の「王」としての性格をそなえていたから2000年続いたのかもしれない。その気配はもう、「集団幻想」として誰もがなんとなく無意識的に気づいてしまう。つまり、その前に立てば避けがたく「畏敬」の念を抱いてしまう。本居宣長が「神」の本質を指していうところの「畏(かしこ)き」ということ。天皇が漂わせているこの気配はもう、天皇に会いに来た現在の外国人にもわかるのだとか。「世界でいちばん長く続いている王家だから」ということが理由なのではない、人は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の気配にこそ最大限の畏敬の念を抱くのだ。
「支配者は倒される」というのが歴史の必然で、なぜ支配が否定されるのかといえば、人間性の自然に「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいているからだ。支配者は、「支配しない」ことに憧れつつ支配している。だから、支配することは被支配者である民衆に「献身」してゆくことだ、という思想が支配の変遷とともにつねに語られてきたわけだが、それは「支配しない」のが人間性の自然だからだ。
したがって最終的な支配者は、「支配されるもの=生きられないこの世のもっとも弱いもの」であらねばならない。もともと天皇は民衆に祀り上げられ民衆に支配されている存在だった。天皇は「魂の純潔」を表象している存在として祀り上げられてきたのであって、実質的な支配者としてではない。まあ天皇は、日本人が養い支配しているところの「支配されるもの」であり、じつはそれこそが永遠の支配者像なのだ。
誰だって生きられない赤ん坊は「かわいい」と思うし、生きさせてやろうと思うではないか。日本人は、そういう気持ちで天皇を祀り上げてきた。
「かわいいの文化」のムーブメントは、天皇制の問題でもある。