ややこしいことを考える・神道と天皇(127)

幼い女の子がお人形さん遊びをするように、猿だって子供のメスは、しきりに赤ん坊をかまいたがる。つまり、この世の「魂の純潔」の体現者は赤ん坊であり、その「魂の純潔に対する遠い憧れ」をもっと深く切実にそなえているのは「処女=思春期の少女」である、ということだ。
だから人類は、「処女=思春期の少女」を人間性の本質の根拠として祀り上げてゆこうとする。
起源としての天皇は「処女=思春期の少女=巫女」だった。そしてそれは「かわいいの文化」の起源でもあるというか、「かわいいの文化」によって天皇が生まれてきた、ということだ。
「かわいいの文化」とは、「魂の純潔」を祀り上げてゆく文化である。
日本列島の精神風土においては「存在」は「けがれ」であり、「存在」を脱ぎ捨てた純粋に魂だけのかたち、すなわち「魂の純潔」に浸されてゆく状態を「みそぎ」という。
この生は、「身体=存在」を消去してゆくことによって、もっとも活性化する。
身体は身体の危機において意識される対象であり、身体を忘れているときにこそ身体のはたらきはもっとも活性化する。息苦しければ身体をを意識するし、空気を吸い込んで息苦しくなくなれば、身体のことなど忘れている。つまり、「身体=存在」は消えている。
体を動かすことだって、基本的には身体がその場所から「消える」ことなのだ。そしてそれは、みずからの身体を中身がからっぽの「空間の輪郭」として取り扱うことによってよりスムーズになるのであって、物体であることを意識すればするほどうまく動かせなくなってしまう。
人はというか生きものは根源において身体を消去しようとしているのであり、それが、「身体が動く」という現象なのだ。それはカブトムシが体を動かすことだってそうだし、人が歩いたり踊ったりすることだって、本質的には身体を消去してゆく行為にほかならない。

おそらく日本列島の舞の文化の歴史は「処女=巫女の舞」を祀り上げたところからはじまっているのであり、それは「かわいいの文化」だろう。
「処女=思春期の少女」の踊りのしぐさが美しく愛らしいのは、成熟しはじめて丸みを帯びてきたり初潮がはじまったりしているみずからの鬱陶しい「身体の物性」を消してしまおうとする願いの切実さがこめられていることによる。彼女らは、この世でもっとも深く切実に我が身の「けがれ」を自覚しているものたちだからこそ、その踊りのしぐさに自分という存在を忘れている透明な気配が漂っている。
とにかくそのしぐさは、なんともいえずなやましく愛らしいのであり、その気配が見るものに伝わってゆく。原初においては、世界中どこでもそうやって処女の舞が祀り上げられていったのだ。
人は身体の物性に煩わされて生きている存在であり、体を動かすことには身体の物性を消去してゆくことのカタルシスがある。
というわけで初音ミクの立体映像は、究極の「物性を消去した身体」であり、究極の処女の舞である。
まあ身体の物性を消去することは、日本列島の「みそぎ」の伝統なのだ。であれば、日本列島の舞の歴史で最初に称賛されたというか祀り上げられたのは「処女の舞」であると考えなければつじつまが合わないし、その伝統から初音ミクが登場してきたことになる。
日本列島の文化の伝統そのものが、身体の物性を消去してゆくことにある。それは、この生のはたらきはこの生を消去してゆくことであるということで、「非存在」を止揚してゆく文化なのだ。
そして「非存在」を止揚してゆくことは、「喪失感」を抱きすくめてゆくことだ。
日本人であれ外国人であれ、「かわいいの文化」にときめいているものたちは、「喪失感」を抱きすくめて生きている。人は、「喪失感」を抱きすくめている存在だから、「ときめく」という体験をする。
むやみに欲しがるべきではないのだろう。現代人は、みずからの欲望に居直って生きている。それは、金や名誉だけのことではない。幸せや平和が欲しいということだって同じだし、何より「生き延びたい」とか「自分が生きてあることの正当性を確認したい」というその自意識の欲望がときめく心を塞いでしまっている。
つまり、そういう「生命賛歌」が人の心や命のはたらきを豊かにするわけではない、ということだ。現代人は、むしろそのことによって心を病んでゆき、命のはたらきを停滞させてしまっている。

「生命賛歌」は文明の病理なのだし、日本列島にはそのことに対するカウンターカルチャーとしての「喪失感=非存在」を止揚してゆく文化の伝統がある。
この生を消去することが、この生を活性化させるのだ。そうやって人は「喪失感」を抱きすくめてゆく。
「喪失感」を抱きすくめている人は、深く豊かな「ときめき」を知っている。
「かわいい」ものにときめいているものたちは、「喪失感」を抱きすくめているものたちだ。
グローバル資本主義等々、文明社会が爛熟しているということは、「喪失感」を抱きすくめているものたちが増えてきているということでもある。
大人たちの平和や繁栄を欲しがることに居直った正義・正論よりも、「喪失感」を抱きすくめているものたちによる他愛なく「かわいい」とときめいてゆく文化のほうがずっと尊い
人類なんか滅びてしまっていいのであり、滅びることを抱きすくめながら人類は進化発展してきた。
人類は、進化発展を欲望したのではない。欲望に居直るべきではない。そんなことばかりしていたら、この世の支配者という偏執狂たちの思うつぼだ。
われわれ民衆は、支配者とは別の民衆だけの文化の伝統を持っている。
支配者(=権力ゲームの勝者)の歴史ばかり語っていても、ほんとうの歴史に推参したことにはならない。
「かわいい」ものにときめいているものたちは、支配者に権力ゲームを挑んでゆくことも、支配者をまねて自分たちも権力ゲームの社会をつくろうとすることもしない。
支配者は勝手にこの世界の存続を構想するがいい、それでも「かわいい」の文化に熱中しているものたちは、「滅びる」ことの「喪失感」を共有しながら他愛なくときめき合ってゆく関係を模索し続ける民衆社会の伝統に身を浸して生きようとしている。
「かわいい」の文化こそ、民衆社会の歴史の正統というかメインストリームなのだ。

いったいいつからこんな自意識過剰の世の中になってしまったのだろうか。人々の脳髄が近代合理主義に冒されてしまっている、ということだろうか。安直で合理的な思考ばかりして、矛盾や混沌をやりくりしてゆく思考ができなくなってしまっている。
たとえば、人類は進化発展を欲望したから進化発展してきたということにすれば、安直に整合性がつくし、それは欲望した自意識の手柄だということになる。しかしじっさいは、べつに進化発展など望んでいなかったのに「結果」としてそうなってしまった歴史の「なりゆき」というものがあるわけで、そこのところを問わなければ考えたことにはならない。そして日本人は、そこのところを考える歴史を歩んできたのだ。
村の寄り合いには、合理的に裁くことのできる「法」も「正義・正論」もなかったし、「多数決」もとらなかった。それぞれのああでもないこうでもないという混沌とした語らいの中から、それでもなんとなくみんなが受け入れることのできる結論を見つけていった。
日本人の思考の伝統は、矛盾や混沌の中に飛び込んでゆき、けっして合理性でかたをつけるということをしない。そのとき、誰もが「法」も「正義・正論」も「自己の正当性」も捨てている(=喪失している)からこそ、そうしたけっして合理的ではないところの、ときにはややこしく曖昧模糊とした結論を受け入れてゆくことができる。
またその「ややこしく曖昧模糊とした結論」が、ときにはきわめてシンプルであったりする。「もういい、みんなでさっぱりと忘れてしまおう」といっても、それは、もつれにもつれた糸を解きほぐした複雑な思考の結果なのだ。そういう思考から、たとえば日本列島ならではの、きわめて複雑な仕組みのからくり人形とか寄せ木細工のようなものが生まれてきたりする。
江戸時代の町娘の一見乱雑なじゃらじゃらした髪飾りだって、ちゃんとこれ以上でもこれ以下でもないという「かわいい」の着地点を持っている。
その複雑怪奇な美意識は、いわば原始的な自分を忘れた他愛ない「ときめき」から生まれてくるのであり、近代の文明人のように自分という存在の整合性や正当性に執着した自意識を抱えていたら、けっして見つけられない。
つまりそうやって「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してゆくわけで、それはきわめて複雑な思考であると同時に、きわめてシンプルに他愛なく自分を忘れて(=喪失して)ときめいているだけの思考でもある。
「自分を確立する」のではなく、「自分を喪失する」ことによってこそ、この生がより活性化し、思考がより深く複雑ななってゆくこともできる。
現代人の思考は、自意識の整合と安定のための合理性ばかり求めて、自分捨てて矛盾と混沌に満ちた知の荒野に分け入ってゆく覚悟ができない。しかし「かわいいの文化」はそういう地平に分け入ってみせているし、それがここでいう「喪失感を抱きすくめる」ということだ。
ヤマンバ・ギャルは、この世界の規範からはぐれながら、自分を捨ててみごとに「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してみせた。それは「素顔=自分」を「捨てている=喪失している」姿であり、その他愛なく無意識的で原始的な「覚悟」と「かなしみ(喪失感)」と「魂の純潔に対する遠い憧れ」が、自分の存在の正当性に執着しきった世の自意識過剰な大人たちにわかるだろうか。