原初の嘆き・初音ミクの日本文化論(20)

「非存在の女神」である初音ミクは、生きものじみた肉や骨や内臓を持った存在ではない。人のようで、人ではない。人ではないようで、人である。その微妙な「裂け目」から現れ出て消えてゆく。
まず電子音であるその声は、音と声の「裂け目」から聞こえてくる。
電子音といっても、今やほんものの楽器とほとんど同じ音が出せる。では人の声と同じ音をつくり出すことができればそれでいいかといえば、同じならほんものの人のほうがいいに決まっている。音と声のその「裂け目」で遊ぶことができないといけない。それが「女神の声」になる。そこのところで発音がシンプルな日本語はアドバンテージがあるのかもしれないが、「これが女神の声だ」と察知する知性と感性はかんたんなようでかんたんではない。それなりに「女神」と「非存在の世界」に憧れてきた歴史の無意識を持っていなければならない。
その「裂け目」というピンポイントは、机上の計算で出せるわけではない。たぶん、ものすごく日本的な勘で微調整されている。センスの問題、というか、人の心を揺さぶる女神の「声=音」に対する関係者の探求があり、そして人々の揺さぶられる心があった。そういう歴史風土を持っている場所でなければ、その試行錯誤は進化してゆかない。
そうして初音ミクの顔や体型のモデリングや衣装や髪型に関しても、リアルに近づけながらリアルにはならないぎりぎりの按配が見事に調整されている。
初音ミクは異次元の世界から現れてくるあくまで「非存在」の映像なのだから、ほどよくマンガチックな嘘っぽさを持っていたほうがよい。しかし、その表情だってきちんと微細な感情のあやがあらわれているし、とにかく思春期の少女が醸し出す表情やしぐさの愛らしさに対する作者の観察のきめ細かさと愛情の深さは並大抵ではない。
非存在の女神である初音ミクは、その身体の中には心を持っていない。それは「自分」という意識がない、ということを意味する。心はもう、まるごと世界に向かって開け放たれている。だから、あんなにも目が大きい。
「魂の純潔」とは、自分なんか捨てて心がまるごと世界に向かって開け放たれていること。

生きてあることはいたたまれない。われわれはどうして生きものの宿命としての「生老病死」という問題を抱えて生きていなければならないのか。
もしもわれわれのこの体が肉も骨も内臓もないただの「輪郭」であったらどんなに良かったか、と思ったことはありませんか。
そうであるなら、死ぬことも病気をすることも歳を取ることもない。フランスのポール・ヴァレリーという批評家・哲学者は、この身体のことを「第四の身体」といい、この身体を持てば身体にまつわるすべての問題が一挙に解決される、といった。
生きてあることのいたたまれなさを抱えた存在である人類はもう、無意識のうちにそんな身体のイメージを持っている。だから、スポーツや冒険や自己犠牲や自傷行為や自殺や戦争など、とにかく死をも恐れないようなことをしてしまう。
死ぬことも歳を取ることもない身体があれば……そういう人類の普遍的な願いが、「初音ミク」というボーカロイドを生み出した。
それは、一過性の「オタク文化」、という解釈だけで済む問題ではない。
そして、人類のもっとも純粋で高貴な精神はこの身体に宿っている、という思考・思想もまた世界中で共有されており、そこから「哲学」とか「倫理」という学問が生まれてきたわけで、ここではそれをひとまず「魂の純潔」と呼んでみたわけです。

人の心の奥(=無意識)には、「非存在の身体」のイメージが息づいている。われわれにとっての身体は、肉も骨も内臓も失ってしまうことこそ究極の願いであり、その「喪失感」を抱きすくめてゆくことの上にこの「非存在の身体」という身体意識が成り立っている。それは、この生を喪失することであると同時に、この生を活性化させることでもある。
すなわち、生きることも死んでゆくことも究極においては「消えてゆく」ことの「かなしみ=喪失感」を抱きすくめてゆくことにある、ということです。
誰だって、うれしくて泣くときはあるでしょう。それだって本質的には「かなしみ=喪失感」を抱きすくめている体験なのです。女は、セックスのエクスタシーを汲み上げながら哀切きわまりない声を上げているではないですか。
初音ミクのコンサートの観客だってそういうエクスタシーを体験しているし、エクスタシーを共有していることの集団性がそこに生まれている。
カタルシス=カタストロフィ……そのとき彼らは「世界の終わり」に立っている。エクスタシー(=快楽)とは「世界の終わり」を抱きすくめてゆくことです。
そのとき人は「非存在」を抱きすくめながら「消えてゆく」ことの「かなしみ(喪失感)」に浸されているのであり、それはまた、ここで何度もいってきた「魂の純潔に対する遠い憧れ」に浸されてゆく体験でもあるし、そのようにして人類の「倫理」は生まれ育ってきた。
人は「かなしみ」に浸された存在であるからこそ豊かなときめきや感動を体験する。そしてそれこそがじつは「かわいい」の文化の通奏低音にほかならない。
その「かなしみ」は「処女=思春期の少女」においてもっとも深く切実に汲み上げられており、そこから「かわいい」の文化が生まれてきた。その「かなしみ」は、じつは人間なら誰の中にもある。

猿よりも弱い猿が二本の足で立っていることの「かなしみ」、というものがある。原初の人類は二本の足で立ち上がることによって猿よりも弱い猿になった。
現在の古人類学には「棒を持って戦うために二本の足で立ち上がった」などという陳腐な俗論があるが、考えてみてください。棒を持って立っている猿と、相撲の仕切りのようにして低く構えている猿が戦ったら、どちらが強いでしょう。立ち上がれば胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうし、猿の直立なんて不安定そのもので俊敏に動き回ることなんかできないし、いったいどれほど上手に棒を振り回すことができるというのか。彼らの振り回し方なんか、赤ん坊レベルですよ。それで、どうやって相手を打ち負かすことができるというのか。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって相手を打ち負かすことができなくなると同時にかんたんに打ち負かされるほかない猿になったのであり、「もう死んでもいい」という勢いで立ち上がったのですよ。それが人類の原初的な無意識であり、人は生きられないことの「かなしみ」とともに生きている存在であり、しかし因果なことにそこにおいてこそこの生も心も活性化するのです。
この生は、「もう死んでもいい」という勢いで活性化する。「処女=思春期の少女」は、生と死のはざまのその勢いが生まれる地平に立っている。だから美しい。ヤマンバ・ギャルのガングロ・ファッションにしろ今どきのコスプレ・ファッションにしろ、その、社会の美の基準や規範から超え出たさまには「もう死んでもいい」という勢いがあり、そのとき彼女らはビルの屋上のフェンスの上に立って振り返りにっこりと笑っているのです。
その笑顔の輝きは、この生の価値を見失った「寄る辺ない」心から発している。
まあこういうことは、国家とか天皇とかの権威にひたすらしがみついて離そうとしない狂信的な右翼のものたちにも、安直な「生命賛歌」を錦の御旗のように信じている凡庸な左翼のものたちにも通じないことだろうが、おバカなコギャルには通じる。
右だろうと左だろうとそうやって「正義」のがわに立とうとすること、それこそがまさに宗教的な態度であり、そんなのどうでもいいじゃないですか。
日本列島の伝統においては、生き延びることを正当化する「正義」よりも、この生のはかなさとかなしみを抱きすくめてゆく「寄る辺ない心」のほうが美しいのであり、「寄る辺ない心」とともに日本列島ならではの文化が育ってきた。
そして文明の発展に疲れた世界中が今、「寄る辺ない心」に浸されながら、既成の権威を信じなくなってきている。「寄る辺ない心」を、世界は「クール」という。そのようにして「かわいいの文化」が世界中に広がりはじめているのではないでしょうか。

新しい時代、新しい世界は出現するでしょうか。初音ミクは、人々のその願いのよりどころとして出現してきた。
ともあれそのためにはまず「終わり」がやってこなければならないし、「終わり」を抱きすくめている人たちが初音ミクを祀り上げ育てていったのです。
現在の文明社会はもうすでに機能不全に陥っている、などといわれたりしているが、新しい世界は新しい世界を構想することによって出現するかといえば、おそらくそうではなく、その前にまず「世界の終わり」を味わい尽くすことが必要でしょう。
日本列島の戦後復興は、途方に暮れて「世界の終わり」の「寄る辺ない心」に浸りきったところからはじまっている。
たとえばトランプゲームでマイナスのカードを全部集めたらその瞬間にオールマイティになるというように、そんな体験を通過しなければ新しい世界はやってこないのではないでしょうか。
絶望とともに「世界の終わり」を味わい尽くすこと、それがきっと新しい世界が出現する契機になる。
文化とは、人として生きてあることの「かなしみ」を味わい尽くすことです。そのようにして人類の歴史がはじまったのだし、人は根源においてそういう生きものなのではないでしょうか。
高度経済成長の復活を……などというのなら、それは新しい世界でもなんでもないし、アメリカや日本のような先進国でそれが叶うはずもないことは、みんな知っている。
また民族紛争があちこちで起き、経済格差が広がり、そうやって世界がますます分断されていっている。であれば、とにかく現在の世界の人々がまず第一に思い描いている「新しい世界」は、「みんなが仲良くやっていける世界」でしょう。それが、少なくとも世界中の「かわいいの文化」に熱中しているものたちの無意識の願いなのです。そうやって彼らは、人として生きてあることの「かなしみ」を味わい尽くそうとしているのであり、それは「世界の終わり」を味わい尽くすことでもある。
初音ミクという「非存在=異次元の世界の女神」の登場は「世界の終わりの出現」であり、だからこそそれは「世界のはじまりの出現」になる。

文明社会の政治経済で集団をいとなむ歴史は、ここに至って行き詰まりを見せはじめている。
もう政治経済によっては問題は解決されないし、「文化」の問題が政治経済を変える、ともいえるのかもしれない。
バブル崩壊以後、「パラダイム・シフト(チェンジ)」などという言葉がさかんに叫ばれるようになってきたが、政治経済を変えるという以前に、文化としての人間性の自然に対する解釈が変更を迫られている時代であるのかもしれない。
現在の世界は、人間性の自然は競争原理や闘争原理の上に成り立っているという近代合理主義の考えのもとで、政治や経済の駆け引きをしながら動いている。
でも初音ミクのファンたちは、そんなことは信じない。人類の歴史は、競争も闘争もできない猿になってしまうところからはじまっているのです。そこから「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外に超出してゆくようにして進化発展してきた。人間性の自然というのならそういうところにあるわけで、そういうところで「かわいい」の文化が生成している。
人々は「新しい世界の出現」を待ち望んでいるというのなら、おそらくそれは文化の問題であり、人間性の自然としての世界観や生命観を問い直すという問題でしょう。これまでだって人類の歴史は、つまるところ「文化の問題」を基礎にして流れてきたのであり、政治や経済はつねにそれによって変更を余儀なくされてきた。

一般的には、社会の政治経済の仕組みのことを「下部構造=基礎構造」といわれているが、人類社会の普遍的な「下部構造=基礎構造」とは、じつは今まで「上部構造」のようにいわれてきた「文化」のかたちのことをいうのではないでしょうか。
世界中の地域で違う「社会の構造」は、政治経済の仕組みの違いではなく、「文化」の違いとして決定されている。そして「文化」というと、すぐに学問や芸術の問題が持ち出されるが、もっと基礎的な、社会の誰もが共有している世界観や生命観等の「心のかたち」として問われるべきではないでしょうか。
日本人は桜の花が好きだけど西洋人は薔薇が好きだとか、世界中で言葉や歌や踊りのさまが違うとか、まあそのようなことです。そのようなことが、「社会の構造」を決定しているのではないでしょうか。
言葉は、「意味の表出」が上部構造で、言葉の根本としての下部構造は「感慨の表出」にある。言葉は「感慨の表出」として生まれてきたのであって、はじめに「意味の表出」の機能があったのではない。とくに日本語(やまとことば)の本質は、「感慨の表出」の機能に支えられて成り立っている。
世界中の人々が花が好きで、どこでもそれぞれ大昔からの言葉や歌や踊りの歴史を持っていて、人間ならみんなそうだろうという普遍的な共通性がある。それは「感慨」の問題でしょう。
というわけでここでは、人間ならみんな「かわいい」ものが好きだろう、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を持っているだろう、という問題について考えてきたわけで、文明社会における支配者による政治経済に対する欲望および構想はつねにこの「文化」の問題によって挫折させられてきた、という歴史があるのではないでしょうか。
あえていっておこう。「新しい時代」は、世界中の思春期の少女たちの「魂の純潔に対する遠い憧れ」にリードされながら出現してくるのであって、政治経済のはんぱな正義・正論を振り回していい気になっている大人たちによってではない、と。
深く考える必要もない。世界中の人々が生きてあることの「かなしみ」を共有し「かわいい」ものにときめいているという、そのことが世界を変えるのだし、そのことによってしか世界は変わらない。これはもう、人類史の法則なのです。二本の足で立ち上がって以来、ずっとそうやって歴史を歩んできたのです。