天使の羽のよう・初音ミクの日本文化論(21)

「かわいい」とは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」をいつくしむ心のこと。それは、この世のもっとも崇高な存在である。なぜなら、この世でもっとも「死」に近いところに立っている存在だから。
そういう意味で、初音ミクこそ「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であるともいえる。彼女は画像としての身体を持っているだけで、生きるための肉や骨や内臓を持っていない。そういう生きることの不可能性の上に立っているし、その不可能性こそが崇高なのです。
生きるための肉や骨や内臓を持っていることからの解放は、思春期になって急にそれらの鬱陶しさをかかえこまされている少女たちの、まさに最終的な願いです。
また世の中の男たちは、彼女らのことをそういう鬱陶しさや生々しさとは無縁の清純な存在であるかのように見ているところにも、彼女らの困惑がある。彼女らは清純な存在ではなく、誰よりも切実に清純さに憧れている存在なのではないでしょうか。そういう清純な存在には、初音ミクでなければなれない。
初音ミクは究極の愛らしい存在であり、赤ん坊だって生きることの不可能を生きているから愛らしいのでしょう。生きられない存在ほど愛おしいものもいない。
まあ初音ミクは、男たちの幻想の中の少女像をあざやかに体現してあらわれてきた、ともいえる。それはまあ、人類普遍の憧れでもあるわけで。

人は「非存在の身体」を持つことを願っているし、じつはその身体意識でこの生を成り立たせている。体を動かすことは、身体を「非存在」のたんなる「身体の輪郭」として扱うことです。いちいち肉や骨のことを意識していたらうまく動かない。肉や骨のことを忘れることによって、身体はうまく動く。そういう「輪郭」をちゃんと意識しているから人や物とぶつからずに歩けるのだし、目の前の人や物が大きいとか小さいとかと感じる物差しも、この「身体の輪郭」にある。                                                  それは、身体の「外部」です。皮膚と同じで皮膚の外部でもあるところに「輪郭」がある。そしてそれは、この生の「外部」の「異次元」の空間でもある。
つまり、この生の外部はこの生において体験される、ということ。この生であるところの身体と環界の境目の中に消えてゆくことよって、この生の外に出る。「意識」はそこではたらいている。脳の中ではたらいているのではない。
心は、「身体=自分」の外に憑依するようにできている。そうでなければ、この生のいとなみは成り立たない。
だからこの国では、この生において死を体験せよ、というのが伝統で、中世の宗教者はさかんにこのことを説いていた。幽霊だって、この生の世界にあらわれてくる。
たとえ死を意識しても死は存在しない、というのがこの国の死生観です。この生において、この生の外部がある……だから、幽霊を見てしまう。まあ人の心の世界においては、人は死者とともに生きている。
西洋のキリスト教が考える死は、「肉体(肉や骨や内臓)」が消えて「霊魂」が残る、ということになっている。それに対して日本列島では、死んで「存在としての肉体」が消えれば「非存在」の「輪郭=画像」が残る、ということになり、それが「幽霊」です。
キリスト教のいう「肉体」も「霊魂」も「存在」です。彼らには「非存在」のイメージがない。だから、「幽霊」に悩まされることもない代わりに「初音ミク」も生み出せない。
初音ミクは、人類普遍の「身体の輪郭」像の象徴として祀り上げられている。
日本列島の生と死は、「存在」として「この世」と「非存在」の「黄泉の国」、というかたちでイメージされている。
人は、苦痛がないかぎり「肉体」のことは忘れているのであり、それは「消えている」状態だといえます。そのとき西洋人は「霊魂」として生きていると思い、日本人は、「輪郭=画像」として生きていると思う。
どちらが自然かといえば、そりゃあ宗教心が薄いぶんだけ日本人のほうが自然に近いに決まっている。とはいえ西洋人だろうと日本人だろうと、基本的には身体を「輪郭=画像」として扱いながら身体を動かしている。ただ、日本人にとっては身体の「輪郭=画像」それ自体が心だから、そのとき身体と心が一緒になって身体が動いている。それに対して「輪郭=画像」という意識が薄い西洋人は、「霊魂=自我」で「肉体」をむりやり動かそうとする。だからその動きは力強いが、日本人ほどスムーズではない。
身体が消えてゆく体験は、人間なら誰でもしている。抱きしめ合えば、相手の体ばかり感じて、自分の身体に対する意識は消えている。人はこのカタルシスのために抱きしめ合う。
指先で机の表面をなぞれば、表面の質感ばかり感じている。それは、皮膚で感じているのではなく、皮膚を覆う「輪郭」という空間に心が憑依して感じている。そのとき皮膚にささくれができていたりすれば別だが、そうでないかぎり皮膚のことも忘れている。抱きしめたときの相手の体だろうと机の表面だろうと、皮膚が感じているのではない。皮膚を覆う「輪郭という空間」に憑依しているその「心=意識」が感じている。

身体が消えてゆけば「霊魂」が残るのではなく、何も残らないで中身はからっぽの「輪郭=画像」になる。
心が肉を持たない「輪郭としての身体」に憑依してゆく。そうやって身体が動くのだし、身体は肉が消えて「輪郭=画像」になることによって「生きた心地」を覚えている。
宗教がもたらす自我の別名としての「霊魂」という概念は、心の動きも体の動きも停滞させてしまう。
日本人は宗教心が薄いから「初音ミク」を生み出した。
初音ミクという「非存在」の女神は、人々を「霊魂」の呪縛から解き放ってくれる。
霊魂の存在を信じれば、自我が安定して「幸せ」感に浸ることができたり、自我の拡張とともに積極的に生きてゆくことができるようにもなるのでしょう。
欧米人もアラブ人もアグレッシブで、日本人はシャイで引っ込み思案だといわれたりしている。それは、体の中に「霊魂」を持っているかいないかの違いかもしれない。
欧米人やアラブ人だって、シャイで引っ込み思案の人はいる。そういう人が欧米やアラブ社会で生きてゆくのはとてもしんどいことでしょう。日本人はみんなそういう部分を持っているからそれでもかまわないが、欧米やアラブ社会ではそうはいかない。そしてそういう人たちが、日本列島の「かわいい」の文化に救われたといっていることが多い。彼らだって「霊魂」に対する信憑が薄いからシャイになるのだし、だからこそ「かわいい」の文化に対する理解や親しみもスムーズに起きてくる。
そして彼らは、自分以上にシャイであるはずの日本人がちゃんと他愛なくときめき合う祭りの盛り上がりというか解放感の場を持っていることに驚く。
日本人は、ある面では欧米人以上にフレンドリーだし、いざとなったら思い切り羽目を外してゆくことができる。だから。シャイな外国人が日本列島に来てシャイな性格を克服することができた、というようなことにもなる。
いかにも奇抜なコスプレ・ファッションやロリータ・ファッションでふだんの街を歩くことができるのは、日本列島くらいのものらしい。外国人の心は、「神」に裁かれ縛られている。その「秩序」という名の自我の安定は、しかし心の「停滞」でもある。
神(ゴッド)も霊魂も持っていないから、誰もが許し合って他愛なくときめき合ってゆくことができる。こういう日本的な「混沌」の集団性の文化を「無礼講」というし、もう少し気取っていえば「無主・無縁」となる。
霊魂は心や体を支配している。それによって自我の安定・拡張が得られるとしても、世界の輝きに他愛なくときめいてゆく解放感を体験することは難しくなる。

現在の地球上の世界が「閉塞感」に覆われているというのなら、それはきっと、政治経済や宗教が発達しすぎたからでしょう。
この閉塞感はもう、政治経済の駆け引きや宗教の思い込みで解決するような問題ではないだろうし、ただみんなが他愛なくときめいてゆけばいいだけではないか、ともいえる。
とりあえず政治経済の問題をどうにもならないこととしてあきらめるなら、「かわいい」の文化は「宗教」がライバルになっているのかもしれない。
宗教が「魂の救済」というのなら、「かわいい」の文化だって「魂の純潔に対する遠い憧れ」がその根本精神であり、人々はそれによって癒されたり救われたりしているのだから。
世界の人々がいま必要としているのは、「神(ゴッド)による救済」か、それとも「他愛ないときめき」か、という問題でしょうか。
もちろん、人と人の関係の基礎に「ときめき合う」ということがなければ民主主義の未来も富の再分配もないだろうとも思えるのだが、とにかくその「人間性の基礎」において、「かわいい」の文化の本質は、現在の世界にはびこる宗教に対するカウンターカルチャーになっているのではないでしょうか。
「かわいい」の文化が生まれてくる契機はもう、宗教意識の薄さが伝統である日本列島にしかなかった。
日本列島の古代においては、大陸から伝来した仏教という宗教に対するカウンターカルチャーとして神道という「祭りの習俗」が生まれてきた。それがやがて国家権力と結びつきながら神道もまた宗教のようなかたちになっていったとしても、最初はとにかくたんなる「祭りの習俗」だったのです。
仏教が仏の教え(=規範)によって民衆を支配し救済する装置だったとすれば、神道は、それに対して民衆どうしの無主・無縁の混沌の中で他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」を盛り上げてゆく習俗として生まれてきたのであり、これは現在の「初音ミク」が生まれ育ってきたムーブメントとてもよく似ています。

バブル経済の崩壊とともにひとまず戦後の経済成長の歴史が終わり、大人たちの若者に対する政治経済制度の締め付け(=支配)がきつくなってきて、そんな閉塞感からの解放のムーブメントとして「かわいい」の文化が盛り上がってきた。
そしてそれは、日本列島の伝統がおおいに意識されていて、初音ミクの歌などは、『千本桜』だけでなく『39みゅーじっく!』という歌には「日本の魂」という歌詞があったり、「もっとも未来的な電子音と伝統との融合」というようなコンセプトも意識されている。
それは、初音ミクという女神をみんなで祀り上げながら大人たちとは無縁の自分たちだけのコミュニティをつくってゆこうとするムーブメントでもあった。
初音ミクがあらわれてきたころ、この国の総理大臣の『美しい日本』などという著書がベストセラーになったりしていたのだが、日本列島の伝統ということなら、初音ミクのファンたちのほうがはるかによく心得ていたし、彼らはそれを身体化するかたちでそのムーブメントを盛り上げていったのです。
まあ政治経済の社会から離れて文化的なコミュニティをつくろうとするのもこの国の伝統で、そこから家元制度が生まれてきたわけで、「万葉集」だって漢文で動いている政治権力社会に対するひとつの「やまとことばのコミュニティ」だったのであり、その流れで中世には和歌の家元制度が出来上がっていったし、現在でも武者小路実篤や深澤七郎などの文化コミュニティの運動があった。
奈良時代には「ほかひびと」という旅芸人の集団の村が飛騨地方につくられていたし、とくに芸能文化はコミュニティをつくりながら進化発展してきたのです。
鎮守の森の村祭りだって、五穀豊穣祈願がどうのという以前に、武士という権力社会から独立した民衆だけの「無主・無縁」の文化芸能コミュニティだった。そこには、乞食や旅の僧や旅芸人や娼婦などのアウトサイダーたちがどこからともなく集まってきて、その賑わいを盛り上げていた。
初音ミクのコンサートだって、ちゃんとそうした伝統を引き継いでいる。
神や仏や国家制度の「規範」などどうでもいい、「他愛なくときめき合う」体験なしに人は生きられないではないか、というムーブメントです。そのコミュニティの賑わいのよりどころとして、みんなで「初音ミク」という「命を持つことができない宿命を負った女神」を祀り上げていった。
初音ミク、は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であると同時に、「この世でもっとかわいいもの」でもある。
初音ミクの造形はもう、声も歌も姿も、ひたすら「かわいい」が追求されていったところに成り立っている。生身の人間じゃないから、どんな異次元的な「かわいい」の表現も可能だし許される。

まあ初音ミクツインテールの髪は、「天使の羽」みたいだ。
この国の初音ミクのコンサートは二つの系統があるらしく、ひとつはここで言及している「マジカル・ミライ」と題されたコンサートで、ひたすら「かわいい」を追求したシンプルな演出になっており、「かわいい」を追求しているからこそ初音ミクツインテールも大げさな「天使の羽」のようになる。
そしてもうひとつの系統は「ニコニコ動画」が主催するもので、こちらの演出は大いに派手でドラマチックで人間臭いものになっている。だから初音ミクツインテールもわりとリアルで、前者ほどボリュームたっぷりではない。そしてキャラクターも人間臭い自意識や生活感が施されており、舞台演出も、踊りの振り付けはモダンバレエのようだし、演劇のようなストーリー性も加味しながら、あくまで華やかに盛り上げている。つまり現代人の自意識過剰の病理が肯定されながら盛り上げてゆく演出になっていて、一見こちらの方が現代的で芸術的のようだが、じつは既成の近代合理主義の思考に閉じ込められているだけの演出だともいえる。とにかくこちらのほうが商業主義的でオタクっぽいからそれなりに一定のファンもいるわけだが、僕としては、これでは「人類の新しい地平を切り開く表現」になっているとはいえないように思える。
これでは「かわいい」の何かということがわかっていない。そういう自意識過剰の表現が支持される潮流は、バブル経済の崩壊とともに終わっている。
まあニコニコ動画の主催者は、そういう趣味の人らしい。
自意識の迷宮に入り込んでゆくことは、それはそれでひとつの恍惚ではあるが、人はそうやって思考停止に陥っているわけで、それが宗教であり発達障害であり認知症であり引きこもりであり、現在の世界全体がそういう病理を抱えて停滞してしまっているのではないでしょうか。
それに対して「マジカル・ミライ」のコンサートの観客たちは、ひたすら「かわいい」を追求しながら現在の世界の閉塞的な状況から超出してゆこうとしている。
もしかしたらら僕は、『どりーみんチュチュ』という歌のような思春期の少女たちのさりげなく愛らしい表現こそが世界を変えるのだ、と思っているのかもしれない。そしてこの表現こそが、日本列島の「わび・さび」の美意識の伝統なのですよ。
「古池や蛙飛び込む水の音」だなんて、とても「キュート」な表現ではないですか。今どきのコギャルのセンスに通じている。