幽霊を見た・初音ミクの日本文化論(19)

初音ミクは理想の思春期の少女としての異次元の世界の女神であり、その「異次元性」こそ思春期の少女の本質=魅力であるわけで。
その姿は青緑の思い切り大げさなツインテールの髪がトレードマークになっているわけだが、かわいいと同時に、何かひんやりとして神秘的な感じがする。「セーラームーン」の前例があるからそのかたちを受け入れるのにそれほどの抵抗はないし、女神が現実的だったらピンとこない。「異形」は「かわいい」の証明である、ということ。
なぜかわいいかといえば、非日常的で異次元的だからです。初音ミクを現実に近づけようとしているのではない。ファンたちは、バーチャルであることそれ自体を祀り上げている。それほどに、現実に幻滅している。
高度経済成長の時代が終わって日本人はもう、現実の社会にもたれかって生きることをやめた。現在の若者たちは、その喪失感とともに育ってきた。社会が輝いている時代はもう終わっている。そうして彼らは、現実の社会の外に輝きを見出していった。現実の社会に「隠されてある」輝きを、というべきでしょうか。時代に「隠されてある」のは、いつだって「伝統」です。
日本人はもう、初音ミクを祀り上げずにいられないような歴史を歩んできた。

この世のものとは思えないほど愛らしく美しい、という。愛らしく美しいものは、この世のものであってはならない。日本人はこの世を「憂き世」と嘆いているから、そういう表現が定着してきた。そのとき心は、この世の外の異次元の世界に超出している。感動とはそういう心の動きのことです。つまり、この世は、この世の外の異次元の世界を含んでいる。
感動することは心がこの世の外の異次元の世界に超出してゆくだとすれば、それはこの世を喪失する体験である、ということになる。人の心はそうやって「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆくわけで、そうやってこの世の外の異次元の世界の輝きに憧れている。
この世の外の異次元の世界は「光の世界」で、そうやって太陽や月や星に憧れてゆく。この世にあらわれる「光」は、この世の外の異次元の世界からやってくる。だから、美しく愛らしいものはきらきら輝いているように見える。
光は、そして愛らしく美しいものは、この世の外の異次元の世界に隠れている。「隠れているもの」に対する愛着は日本列島の伝統で、それは、この世の外の異次元の世界もこの世である、という世界観の上に成り立っている。それは、「死後の世界」ではない。「死後の世界」などというものはない。だから日本列島では、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、というのであり、それはまた、死ぬことは生きたまま無上の感動とともに異次元の世界に超出してゆくことだ、という究極のオプティミズムでもある。死のことなんか知らない。誰も死なない。この世はこの世として完結しているのであり、この世に異次元の世界がある。そして、この世が「憂き世」であることによって異次元の世界との往還が可能になる。つまり、その「喪失感=かなしみ」が「感動=ときめく」という体験をもたらす、ということです。
人の心は、「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆく。それはすなわちこの世の外の異次元の世界に対する愛着であり、まあ、このことをもっとも深く切実に体験しているのは、思春期の少女です。現在の世界の13.4歳の少女が初音ミクを支持しはじめているということは、これから初音ミクのブームが本格化し定着してゆくということのあらわれであるのかもしれない。

日本列島の伝統の文化すなわち世界観や生命観や美意識を考える上では、「隠れる」という言葉は、とても大事なキーワードのひとつです。
「隠れる」とは「消える」こと。「消える」というクッションがあって、はじめて「異次元の世界=他界」があらわれる。だから、「死後の世界=他界」は何もない真っ暗闇の「黄泉の国」だという。そして「消える」ことは生きることの「カタルシス=みそぎ」であり、そこかからこの生ははじまり活性化してゆく。これが、この国の伝統的な世界観や生命観や美意識になってきた。
昔の人は「消える」ことを「隠れる」といった。心が異次元の世界に超出してゆくことのカタルシス、それがこの生の醍醐味であると同時に、死んでゆく体験にもなってきた。だから「天皇陛下がお隠れになる」などという。
また、古事記における天地のはじまりの神々はことごとくあらわれてすぐに消えていったのであり、それを「隠れた」と記している。
この国の神社の神はすべて森や山や石などの中に「隠れて」おり、けっして姿をあらわさない。
日本人は「隠れているもの」に対する関心がとても深い。それは、探求心であり、進取の気性でもある。そうやって大陸から輸入した漢字の中に平仮名やカタカナが隠れていることを発見し、いったん受け入れた仏教を日本的にどんどん変質させてきた。
江戸時代の儒学においては、孔子の書いた「論語」のあれこれの言葉の中にはどんな意味が隠されているのかと、中央も在野も百人百様で侃々諤々の議論をし続けて飽きなかったのは、日本列島だけです。
日本列島には「神(ゴッド)」などいないのであり、「これで決まりだ」という基準・規範はない。そういう「混沌」の文化が伝統なのです。
まあだから、ネットユーザーに「初音ミク」という遊び場を与えればもう、多種多様・百花繚乱の初音ミクの歌が生み出されてくる。
そして、思春期の少女たちの才能の豊かさには、ほんとうに驚かされるわけで、これもまた縄文以来の日本列島の伝統です。

隠れているものに対する関心や親しみのことを、やまとことばでは「ひな」という。
「ひ」は「秘める」の「ひ」、隠されてあるもの。「な」は「慣れる」「なじむ」の「な」、関心や親しみをあらわす。
鳥の「ひな」は卵の中に隠れている。「ひな人形」は、ふだんはしまわれていて、一年に一回だけ飾る。「ひなの里」は、興味深い「隠れ里」のこと。「ひな曇り」とは、その向こうに太陽が隠れていることがわかる薄曇りのこと。
「ひな菊」は、小さい花だからではない。菊の花が咲きそろう秋に種を植えて、ほかの菊がすべて枯れていった冬から春にかけてひっそりと咲く花だからです。「庭の千草」という歌の文語調日本語バージョンはこの菊のことを歌っており、最後はこの花の咲き方を指して「人のみさおもかくてこそ」という歌詞で結んでいます。日本人はそういう「隠れている」存在が好きで、これもひとつの「かわいい」に対する親しみです。この場合の「みさお」は、「魂の純潔に対する遠い憧れを守って生きる」というようなニュアンスです。
日本人は、「隠れている」ものの「異次元性」に「魂の純潔」を見てきた。
異次元の世界から現れて消えてゆく初音ミクのバーチャル映像だって、ファンはきっとそこに「魂の純潔」を見ながらここまで育ててきたのではないでしょうか。生身の女でもないのに、彼らはどうしてここまで熱く切なく祀り上げようとするのか。言い換えれば、ほかのアイドルと違うところは、思わず涙ぐむようなせつなさを込めて祀り上げているところにあります。「かわいい」の文化には、「かなしみ」が隠れている。

「幽霊」も「隠れているもの」です。
初音ミクだって、幽霊みたいなものです。
日本人は、「隠れているもの」に対する関心が深く切実だから、幽霊を見てしまう。誰だって何かのきっかけがあれば見てしまうのであり、たとえば大震災に遭遇した人が幽霊を見たといっても、それはべつに迷信深さでもなんでもなく、死者に対する想いの切実さの問題です。
人類が本格的に「隠れているもの」を意識したのは、死者を「埋葬」したことがはじまりでしょうか。
人類の埋葬の起源は、一般的には「生まれ変わりのため」とか「あの世に送ってやるため」とか、そんな宗教的呪術的な理由で語られているのだが、そんなのは嘘です。最初にそれをした原始人は、ずっと「この土の下の死者が眠っている」と思い続けて生きたはずです。だから、ネアンデルタール人は、自分たちがいつも寝起きしている洞窟の土の下に埋めた。
死者のことが忘れられなかったし、忘れないために埋めた。それでもなお、死者とともに生きたかった。それだけのことだし、それこそが人としてのもっとも純粋な死者に対する想いでしょう。かなしくてたまらなかったからそうした。それだけのことです。
埋葬したらいつでも掘り返して骨が残っていることを確かめられるのだから、それは生まれ変わりなどないことの証拠になってしまう。
霊魂があの世に昇ってゆくのなら、わざわざ埋葬する必要などない。霊魂が離れてしまった死体など、遠くに捨ててくればいいだけです。西洋人がそれでもそれをしないのは、彼らだってやはり死者を記憶しておくための形見が必要だからでしょう。彼らだってじつは、霊魂が昇天することよりも「埋葬する=死者を記憶する」ことのほうが大事なのですよ。
縄文人も、死んだ赤ん坊はとべつに忘れられないから、自分の家の土の下に埋めていた。そしてこの習俗が、一部の農村で江戸時代まで引き継がれていた。つまり日本人は、ネアンデルタール人がしていたことを江戸時代まで引き継いでいたのであり、原始時代のプリミティブな習俗や精神性をそのまま洗練させていったのが日本列島の文化の伝統です。
死んだらどうなるのかとかどうならないのかというようなことなど知る由もないが、いつだって人は、死者とともに生きている存在なのですよ。ことに日本人は、死者の幽霊がこの世のどこかしらに漂っていることを感じている。誰だって、生前に親密な関係を結んでいた死者の夢は何度でも見るでしょう。それは、信じなくても、感じている。心のどこかしらで幽霊を感じているからですよ。
人は、この世界の裂け目の向こうに異次元の世界が広がっているのを感じている。そんな世界があるのどうかということなどわからないが、たしかに感じてしまっている。
この世界の向こうに異次元の世界が隠されている。そうやって神道では「山や森や石の中に神が隠れている」というし、死んだら何もない「黄泉の国」に行くことだということは、死後の世界などない、といっているのと同じなのです。ではどうなるのかといえば、死ぬことは今ここのこの世界の裂け目に消えてゆくことだということです。だってわれわれはそういう「異次元の世界」を感じてしまっているのだし、そこに死者の幽霊が漂っていると感じてしまっているのだもの。
というわけで、この国では、死んでも天国にも極楽浄土にも行かない。ただ消えてゆくだけだし、変に未練や無念を残すと幽霊になってしまう。そうして生きているものは、死者を記憶しているかぎり幽霊として見てしまう、というか思い描いてしまう。
人は「何もない非存在の異次元の世界」を思い描いてしまう。そこに幽霊がいるし、初音ミクがいる。


日本列島から初音ミクが生まれてきたことは、きっとわけがあることで、宗教の呪縛を負った外国人では生み出せない。
天国や極楽浄土はこの世界と地続きで、初音ミクのいる世界ではない。
初音ミクは、幽霊と同じようにあらわれて消えてゆく「現象」であって「存在」ではない。
初音ミクは、世界の終わりの「喪失感=かなしみ」の向こうに「隠れて」いる。
もしかしたらわれわれが今ここを生きて死んでゆくことだって、あらわれて消えてゆくたんなる現象かもしれない。いや、このことが真実かどうかということはどうでもいい。われわれは心のどこかしらでそう感じている、ということであり、それは真実以上にわれわれのこの生を決定している。それはもう、人としての歴史の無意識であり、言葉を捨てるのと同じくらいそれを消すことはできない。だってわれわれの心は知らず知らず初音ミクのいるところに飛んでゆくのだし、いつも初音ミクのいる世界のことを否応なく感じているのだもの。
くるおしくなやましいこの生が、われわれの心をそういう「かなしみ=喪失感を抱きすくめつつ世界の輝きに他愛なく豊かにときめいてゆく」体験が生まれるところに連れてゆく。
「ただのオタクどうしがのんきにじゃれ合っているだけの世界」というのではないのです。やっぱり初音ミクのコンサートには、泣きたくなるようなときめきの盛り上がりがあるわけですよ。そうしてこのコンサートを企画演出するものたちも、初音ミクの横で演奏しているロックバンドも、その雰囲気をちゃんと汲み上げつつこのムーブメントに奉仕しようとしているのですよ。初音ミクがはじめてこの世にあらわれてから10年、ただの金儲けやオタク趣味の問題だけでここまで進化してきたわけではない。
彼らのコミュニティ意識は、そのコンサートの場だけで完結しているのではない、「人類」というレベルの世界を仰ぎ見ている。