涙の人類史・初音ミクの日本文化論(18)

初音ミクは異次元の世界の住人だから、初音ミクのファンたちは、国家のことを思う心をすでに失っているし、日本人であるという自覚も薄い。日本人はもともと国家のことを思う民族ではなかったから、初音ミクを祀り上げてゆくことに違和感がなかった。
そしてそれでも彼らは、「みんな」とか「集団(コミュニティ」ということはとても意識している。その「集団(コミュニティ)」は、ふだんのまわりの人々との関係であり、「地球=世界」というレベルのものだった。
まあAKBの曲などは、ほとんどが「あの歌懐かしいね」という感じで消費されながら過去の曲になってゆくのだが、初音ミクの歌の場合は新しいファン世代を呼びながら10年たってもまだ支持され続けている曲も多い。
初音ミクのオリジナル曲は、何万とある。こんなにもたくさんのオリジナル曲を持っているアイドルなんか他にいない。だからそこから選ばれ、ファンの濃密な思いを背負って残ってゆく曲がある。それに、異次元の世界の歌だから世俗の水に流されない、ということもあるのかもしれない。
ともあれ初音ミクのファンは最初から地球レベルの「世界」を意識していたし、他愛ないアイドルポップが人類愛のようなものを歌うのは今どきの時代の潮流にもなっている。
また、とうぜんそれは未来志向の歌でもあるのだが、「計画を実現する」というような生臭い話はほとんどなく、未知=異次元の世界に向かって歩みはじめる、というようなイメージで歌われている。たぶん「計画」は最初から「喪失」している。「喪失感」を抱きすくめながら笑って未来に向かって生きはじめるところが「かわいい」のであり、その未来は異次元の世界としての「究極の未来」であるほかない。
原初の他愛ないときめき、しかしそれは究極の未来的な体験でもあり、人類は深層のところでつねに心がこの生から離れて異次元の世界に超出してゆく体験を意識しながら歴史を歩んできた。
心がこの生に閉じ込められたら、心が病んでしまうのだもの。

世の中には、われわれ凡人にはよくわからない趣味を持った人がいる。
人を殺すのが趣味とか、小学生の子供とのセックスでないと勃起しない男とか、もうわけがわからない。しかし彼らが例外だといっても、彼らだって人間なのだし、われわれと別の生きものだというわけではない。
心は異次元の世界に引き寄せられてしまうし、異次元の世界で遊ぶことができなければ病んでしまう。異次元の世界に超出してゆくときの扉が、人によっては、人殺しであったり子供とのセックスであったりする。
幼児体験として心がこの生に閉じ込められてしまうと、スムーズに異次元の世界に超出してゆく体験ができなくなり、そのための方策として何か異常なことや極端なことを求めるようになる。
秋葉原通り魔事件の犯人は、幼児体験として、親によってすっかりこの生に閉じ込められてしまった。そうしてもう、自殺をするか人殺しをすることによってしか「非日常=異次元」の世界に超出してゆくすべがないところまで追いつめられていった。
思春期の少女のように、ベッドに寝転んでただぼんやりしているだけでいつの間にか心が異次元の世界で遊んでいるというのならそれがいちばんだが、ほかの人間はそうはいかない。
SM趣味なんか、社会の真っただ中で活躍している人に多い。彼らの心は、この生に閉じ込められてしまっている。
三人のお姉さんの下で育った男の子がゲイになるということだって、彼にとっての女は「日常」の存在でしかないからだろう。
子供とセックスしたがる趣味が西洋人に多いのは、キリスト教の神の教えに縛られて育つからだろう。それはたぶん、この生に閉じ込められてしまうことと同義なのだ。彼らは心身ともに思春期が短いから、思春期の少女の神秘性=非日常性に遭遇する機会が少ないし、それを祀り上げる文化を持っていない。それに思春期の少女の非日常性は神の教えから逸脱している、ということもある。
それに対して日本人は心身ともに成長が遅くて思春期も長く、しかも非宗教的な風土のせいか、思春期の少女を祀り上げる文化の伝統を持っている。だからほんらい子供に性衝動を向ける男は少ないが、戦後の男女平等思想とともに思春期の少年少女の関係が接近し、それがかえって幼児に性衝動を向けてゆく契機になってもいる。なぜなら思春期においては、成長の遅い少年たちは少女に置き去りにされてしまう傾向があり、取り残されて幼児に関心を向けてゆくことも起きてくる。まあこれは、西洋も同じことがあるのかもしれない。
いずれにせよ性衝動とはつまるところ、「非日常=異次元」の世界に超出してゆく心の動きらしい。そうして「処女=思春期の少女」を神聖化して祀り上げる文化は、あったほうがいいのかもしれない。
この生の問題は、かんたんに「生活者の思想」や「生命賛歌」を説いているだけで解決するわけではない。
この生に対して鬱陶しさやいたたまれなさを抱いていることはけっして不健康なことではないし、それによってこそ心は「非日常=異次元」の世界に超出し活性化してゆく。
「非日常=異次元」の世界で遊ぶ文化は持っていたほうがよい。その体験につまずいて、異常や極端に走る。

日本列島の若者たちが「非日常=異次元」の世界の女神として初音ミクを祀り上げていったことは、それなりに健康的なことだし、この国の伝統にかなったことでもある。少なくとも幼児に性衝動を向けるよりはずっと健康的だし、心がこの生に閉じ込められると心は病んでしまう。
彼らがはじめて初音ミクの声を聞いたとき、どのように感じたのだろう?
人間離れした不自然な声だから、「なんだ、つまらない」と思ったのだろうか。
しかし、道端に捨てられていた子猫を見ぬふりして通り過ぎてきたときのように、心の隅のどこかに引っかかるものがあった。ふと思い出して胸がチクリとするような、そんな気分で少しずつ好きになっていったのでしょうか。
誰かが初音ミクに「雨降りお月さん雲の影……」と歌わせてYOUTUBE にアップしているのを聞いて、今まで聞いたことがないような情感が漂っているのを感じ、不思議な気分にとらわれた。それはほんとうに「不思議」だった。ほんらい歌の情感というのは生身の人間が声に心を込めて表現するもので、そこには心なんかこもっていないはずなのに、それでもなんだか妙に物悲しい情感が漂っている。
いったいこれはなんだろう?
それは、はじめての体験だった。
その声は、この世のものではない。この世のものではないものがこの世に存在することの不思議。その物悲しさは、この世のものではない。自分の心がこの世の外の異次元の世界に連れて行かれることの物悲しさ……自分の物悲しい心がその声を聞いている。あるいは、声そのものに物悲しさが漂っている。声そのものが心だ、ということ。
いったい、心とは何でしょうか。ほんとに自分の頭(脳)の中や胸の中にあるのでしょうか。自分の外の何かわけのわからない異次元の世界ではたらいているものではないでしょうか。そこでわれわれは、考えたり思ったりしている。
したがってもしも胸の中に「霊魂」なるものが存在するとしても、われわれの心はそれとは別の異次元の世界ではたらいている。
この生が霊魂に支配されているということは、心がこの生(=この身体)に閉じ込められて「非日常=異次元」の世界で遊ぶことができないということです。それは、意識のはたらきの自然を抑圧している思考であり、その結果出口を探しあぐねて異常や極端に走ることになる。
われわれの心は、初音ミクのいる「非存在=異次元」の場ではたらいている。初音ミクは、声や姿そのものが心なのです。
霊魂に支配されてこの生・この身体に閉じ込められた心と、初音ミクのいる「非日常=異次元」の世界で遊んでいる心と、いったいどちらが健康的だろうか。

「かわいい」の語源は「かなしみ」にあり、「かなしみ」を基礎にして「かわいい」というときめきが生まれてくる。
どんなに明るく弾んだ愛らしい曲でも、初音ミクの歌には「かなしみ」が潜んでいる。それは人の心は「かなしみ」が潜んでいるということで、人の心は身体の外の異次元の世界ではたらいているのだから、最初から「身体=この生」を喪失している。
人は「喪失感」の「かなしみ」を携えて生きはじめるのであり、心は、「身体=この生」の外の異次元の世界から聞こえてくる初音ミクの声に引き寄せられるようにできている。
人の心は、あらかじめ「かなしみ」が刻印されている。
赤ん坊がこの世に生まれ出てくることは自足した胎内世界を喪失することなのだし、喪失したがるようにこの世に出てこようとする。
どうしたって心は異次元の世界に超え出てゆこうとする。
この世で生きていればこの世の幸せを欲しがるように生きさせられるが、それでもわれわれの心は無意識のどこかで異次元の世界に引き寄せられている。

原初の人類が二本の足で立ち上がることは、はじめて頭上の空を見上げる体験をすることだった。森の向こうに青い空が広がっている。青い空を見上げることは、そういう異次元の世界に気づく体験だったはずです。
そもそも、二本の足で立ち上がることが、この生の外に超え出てゆく体験だった。
四本足の動物は、空なんか見上げない。鳥だって、青空の下が世界のすべてだと思っている。
でも人は、青い空の向こうに異次元の世界があることに気づいた。だから、異次元の世界に引き寄せられるように、地球の隅々まで拡散していった。
やっぱり日本人の初音ミクの声との出会いには、「ときめき」があったのでしょう。日本人は、世界でいちばんおっちょこちょいの進取の気性を持った民族です。そのかなしい声の響きに引き寄せられた。かなしい心が込められているからではない。異次元の遠い世界から響いてくるようなその気配にかなしみを感じた。
世界中で日本人が最初に初音ミク声の異次元性=他界性に引き寄せられた。それは。その声の「かなしみ=かわいい」に引き寄せられる体験だった。
外国人だって電子音には異次元性=他界性は感じているが、「かなしみ=かわいい」に気づくまでは、もう少し時間がかかった。日本人がそれを具体的な姿を持った「かわいい」のキャラクターに進化させるまでは。
外国人にとっての他界は、天国や極楽浄土という「神(ゴッド)」がつくった「存在」する世界だから、「非存在=喪失感」の「かなしみ=かわいい」はない。
日本人の「非存在」の「かなしみ」の世界に超え出てゆく心の動きは「黄泉の国」の伝統によるのだろうが、しかしそれは原初の人類が森の木々の向こうの青い空を見上げたときの感慨でもあるわけで、外国人にも通じないはずがない。生きてあることの「かなしみ」を知っているものなら、やがてはそこに「かわいい」を見出してゆく。

歳を取ると「かなしみ」などという透明な感慨は、なかなか持てなくなる。
すでに心が文明社会に汚されてしまっているから。
しかしそれでも、歳を取ると涙もろくなる。それは、心が弱っているからだろうか。もちろんそれがいちばん大きな原因だろうが、歴史の無意識としての「かなしみ」がこの社会を覆っている空気があり、それに泣かされるということもある。
この国は、「かなしみ」に覆われている歴史風土なのですよ。
その歴史風土に照らしていえば、「かわいい」とは「かなしみ」の別名であり、古代の「かなし」というやまとことばは「かわいい」という意味だった。
つまり、この世でもっとも豊かに「かわいい」とときめいている少女たちは、もっとも深く「かなしみ」を抱いている存在でもある、ということです。そしてそれは、日本列島の精神風土はそんな少女たちにリードされてつくられてきた、ということも意味している。
まあ、ボーカロイドの曲を聴いていると、思春期の心象風景の表現がじつに高度かつ多様で驚かされる。世の中の大人なんか絶対にかなわないな、と思わせられる。彼女らはすでにちゃんとわかっているし、すでに悟ってもいる。
まったく、「老人の知恵」なんか安っぽいものだな、と思わせられる。
言い換えれば、日本人は13歳から成長しない、ということです。マッカーサーのいう通りだ。
日本人はみんな中二病だし、いろんな中二病がある。高級な中二病もあれば、低級な中二病もある。清らかな中二病もあれば、俗っぽい中二病もある。柔軟な中二病もあれば、依怙地な中二病もある。
そしてもうひとつ分かったことは、この国の少年少女は「恋はあいまいなものだと思っている」ということだ。「確かな恋」なんか誰も信じていないし、「恋なんかない」とも思っていない。「あいまい」であるというそのことに対する愛とかなしみがある。まあ、だから彼らの表現のニュアンスが驚くほど豊かになっているのだろうし、やっぱり日本人なのだなあ、とも思う。
大人になると何もかも合理的に裁いたり決定したりしてしまって、そういう愛もかなしみもなくなってしまう。