「チュチュ」という音感・初音ミクの日本文化論(17)

初音ミクの曲とAKBのそれの違いを比較検討する能力が僕にあればいいと思うのだけれど、それは手に負えない。でも、可能な範囲でちょっと考えてみることにします。
AKBの曲はきっと、有能な作詞家と作曲家が「万人に受ける」とか「時代にフィットしている」というようなことを意識してつくっているのでしょう。
それに対して初音ミクの曲は、不特定多数の人たちがつくっているのであり、何が出てくるかわからないし、そうした「受け狙い」というくくりは当てはまらない。けっきょく誰もが「つくらずにいられない」ものをつくっているのであり、ネットユーザーが関心を寄せていった「結果」として「万人に受けた」とか「時代にフィットしていた」ということがあらわれてくる。そこでは、誰も「時代をつくる」ということはしていない。「時代があらわれてくる」だけです。
つまりAKBの曲が表現しているのは「すでに存在している時代」であり、初音ミクの曲では「新しくあらわれてきた時代」が歌われている。
AKBの曲では時代が「分析」されているが、初音ミクの曲は(新しい)時代を「感じて」いる。
「新しい時代」も「かわいい」も、「感じる」ものであって、「分析」すればわかるというものではない。
「分析」している人たちは、「感じて」いる人の手を借りなければそれらを表現することはできない。
分析するだけで表現できるのなら、「かわいい」の文化はとっくに外国から追いつかれているはずです。
外国には、「かわいい」と感じることができるスタッフがあまりいないし、日本列島では誰もがそれを感じることができる。少なくとも思春期の少年少女は誰もが感じている。
「新しい時代」も「かわいい」も「隠れている」のであり、それは「感じる」ことによってしか知ることはできない。「隠れているもの」に対する愛着は日本列島の伝統であり、「隠れているものに対する愛着」こそが「進取の気性」の実質にほかならない。そのようにして日本文化の伝統は、「ロリータ=処女=思春期の少女」にリードされながら洗練発達してきたのです。

「かわいい」は「感じる」ものだ、ということ。
『どりーみんチュチュ』という初音ミク系(巡音ルカ)の傑作があり、これはもう大甘のかわいい感満載の曲だが、マジカルミライのコンサートでのバーチャル映像の少女がサビの「どりーみんチュチュ」の「チュチュ」と歌うときの手の動きのしぐさは取り立ててテクニカルというかダンサブルな工夫があるわけでもなく、まあひと昔前の男の「元気もりもり」というときの腕を曲げるポーズとほとんど同じなのだが、なぜかそれが何とも愛らしく、この振り付けを考えた人のセンス(才能)はまったくたいしたものだと思わせられる。
そしてこの「チュチュ」という言葉も、なんの「意味」もない。ただ「チュチュ」という音感と戯れているだけのこと。あえていうなら、思春期の少女の「淡いときめき」をあらわしている、ということでしょうか。
ちなみにこの歌は、少女が好きな少年にバレンタインチョコを渡すということを歌っているのだが、その中の「ビターな甘さで包んでね」というフレーズがあって、「チュチュ」と対応するまさしく「かわいい」のど真ん中の表現だと思える。今どきの少女はこういう逆説的な表現をあたりまえのように使っているのだが、そこに「淡いときめき」が隠されている。
「大甘なかわいさ」ということなら昔のアイドル歌謡曲のほうがずっとストレートに表現していたわけで、今どきの少女たちの表現には、ちょっと「ビター」な「隠し味」を加えている。ちょっとひねくれている。ただの生活感や生命賛歌ではだめで、異次元的な世界を持っていないといけない。そういうセンスが、どうやらフランス人にはわかるらしい。愛らしい少女はい異次元的な存在でなければならない。それが、ジャンヌ・ダルクの国の伝統でもある。
まあ、このコンサートでは、外国人ではけっして思い浮かばないような愛らしさを表現する非ダンス的で意表を突く振付が随所にちりばめられており、「たどたどしさ」だってひとつの異次元的な「かわいい」の表現であるわけで。
西洋にはボディランゲージの文化があって、しぐさのすべてに「意味」がまとわりついてしまっている。だからこそ日本列島のような、無意味だけどなんだかかわいい、というしぐさを思わずしてしまう文化土壌がなく、したがってそれを発見する文化土壌もない。
嬉しかろうと悲しかろうと西洋人はそれを積極的に表現しようとするが、日本人には「思わずこぼれ出てしまう」しぐさがあり、それは「隠している」ということでもあり、そこにこそ「かわいい」しぐさがある。
『ハンド・イン・ハンド』の最後あたりでお尻をきゅきゅっと振るしぐさとか、ダンスでもボディランゲージでもないのに、もう「かわいい」としかいいようがない。その異次元性。
それだってやはり、バーチャル映像だからいっそう愛らしさが際立つのであり、いいかえれば生身の人間が表現することの限界というのがある。

「かわいい=愛らしさ」とは「他界性=異次元性」であり、人の心にはつねに「他界」に対する遠い憧れがはたらいている。
「かわいい」は、初音ミクに極まっている。
この世界にこの生を忘れた「他愛ないときめき」が存在することは人類の希望であり、その希望を共有しながら日本人は初音ミクを育ててきた。
コンサートの観客は、初音ミクと「他愛ないときめき」を共有しており、観客どうしもそれを共有している。その「他界性=異次元性」は、誰もがお金を払ってでも体験したいと思っている。人は、その体験がなければ生きられない。その体験がなければ心を病んでしまう。
コンサートのはじまりに初音ミクが「みなさんこんばんわー」と呼びかければ、みんなして「こんばんわー」と大声で応じる。これはもう幼稚園の教室みたいに他愛ない景色であり、そうやって異次元の世界に超出してゆく。
そうして歌がはじまれば、誰もが同じ色に光るサイリウムを同じリズムで振り続ける。コンサートの最初から最後までひたすら振り続ける。それはきっと初音ミクを祀り上げると同時に、観客どうしが一体感に浸ってゆくことでもあるようにうかがえる。
『ハンド・イン・ハンド』のときには、初音ミクのバックのスクリーンには手をつないでいる人のさまざまな写真が一瞬一瞬のコマ送りのように映し出される。「人と人が手をつなぎ合う未来の世界を夢見る」という歌。まったく他愛ない歌だが、観客たちはみなそういう気分になっている。なんだか宗教のようだが、宗教ではない。宗教以前の原始性、というべきでしょうか。他愛なくそう思える体験は人が生きることの希望になりえるし、そういう体験が求められている時代なのでしょう。何はともあれ初音ミクを祀り上げることはそういう体験をすることだ、とみんなが知っている。
サッカーのゲームでファンどうしが衝突する盛り上がりもあれば、初音ミクのコンサートでは誰もが人類の平和を夢見て盛り上がっているし、そういう演出がなされている。大震災のときに生まれた人と人のつながりがこういうかたちでよみがえっている、ともいえる。
ただ単純に「初音ミクという電子音を歌わせてみる」という人々の試みがここまで進化した、ということです。そのときみんなが、電子音と立体映像の効果によってみんなの夢見る世界に超出していっている。ファンもイベントのスタッフも、みんなが初音ミクの「かわいさ」に奉仕しようとしている。
そのときそこで「他愛なくときめく体験」が生まれている、ということ。
人の心から他愛ないときめきを失ったら、人類の未来はない。

宗教は異教徒や戒律に従わないものは裁き排除するが、初音ミクにそんな自意識はなく、この世界のすべてを許している。
そして宗教を批判するなら、「科学的客観的な真実ではない」というようなことをいってもはじまらないわけで、人の心は「異次元の世界」に超出してゆく動きを持っている、すなわち「嘘を生きる」のも人の心の自然であり、それがほんとうに超出していることなのか、それはむしろ超出できない病理ではないのか、と問われなければならない。
嘘でもいいのだけれど、宗教者は、それを嘘だとは思っていない。真実だと信じて疑わない。それが病理なのでしょう。真実だと信じるのは、超出できないで停滞している心でしょう。宗教者の語る天国や極楽浄土や生まれ変わりに、「異次元の世界への超出」はない。この生、この世界にしがみついているだけではないか。
この生、この世界にしがみついていたら、初音ミクと出会うことはできない。
真実だと思ってはいけない。疑わないといけない。疑うことによって新しい発見をするのだし、新しい世界新しい生に超出してゆくことができる。
十年前に生まれた初音ミクのたんなる電子音を大きな会場で単独ライブができるレベルまで進化させてきたことは、まったく奇跡的だったともいえる。
電子音がほんとうの声でないことは誰でも知っているし、ほんとうの声ではないからこそ魅力的だと誰もが思った。そうやって「嘘の世界で遊ぶ」ということはとても危うく非宗教的なムーブメントであり、真実=合理性に転ぶことなく嘘=非合理性の世界で遊び続けるのは、けっしてかんたんなことではない。
それは、原初の二本の足で立ち上がった猿が700万年という年月をかけて人間といわれる存在にまで進化発展してきた軌跡のようでもある。人類の歴史は、「他愛なくときめき合う関係」を追求してきた。少なくとも原始時代はそうやってすべてを嘘と思い定めて許し合ってゆく人と人の関係の歴史だったわけで、文明社会の発祥ととも変質してきてしまった。
われわれ人類は、「嘘の猿」として歴史を歩んできた。そして日本列島の文化の伝統は、その歴史を引き継ぎ洗練発達させてきた。
初音ミクを進化させてきたのは、時代であり、「かわいい」の文化に慣れ親しんできた若者たちを中心とした日本人全体であり、日本列島の伝統の成果だった。そうしてそれが世界中に広がっていった。
このコンサートが最初に催されたのは北海道の札幌で、そのときのプロデューサーは、すでにそのムーブメントが世界中まで広がってゆくことを予感していた。それはもう、内輪だけのマニアックな楽しみではなく、世界中の時代が求めているものであることを確信していた。

彼らの初音ミクの造形・演出に狂いはなかった。それは現在のコンサートを見ればよくわかるし、彼らは変に物語的芸術的な盛り付けは避けて、ひたすらシンプルに初音ミクの「かわいさ」を追求してきた。
まあ人間の少女がそういう声を出したりポーズをつくれば、避けがたく「ぶりっ子」めいた作為性が出てしまったりするが、初音ミクにはいっさいそういう意図を持っていないことは、誰もがしんそこ信じている。この社会で飯を食ったり息をしたりしている人間ではないのだもの、肉や骨も家族も世間的なしがらみも持っていないのだもの。
だから、初音ミクはどんな愛らしいしぐさも許されるし、関係者も、究極の愛らしいしぐさとは何かと問い続けているのがよくわかる演出になっている。
「嘘の世界で遊ぶ」という伝統、まあ、そういう「かわいい」しぐさの追求は日本列島がいちばん進んでいて、外国人が気づいていないことがたくさんある。外国の演出家は愛らしくダンスをさせようとがんばっているが、それではときどき自意識がこぼれ出てしまう。しかし日本列島では、「ダンス」の要素をそぎ落としたところにある愛らしさに気づいている。ときには無理にダンスさせなくても愛らしければそれがいちばんいいと心得ている。それはたぶん、能や日本舞踊や盆踊りの伝統です。舞うという自意識をそぎ落として舞う、舞うことをやめているところにさらに高度な舞のかたちがある、ということ。
「かわいさ=愛らしさ」は、自意識をそぎ落とした無意識がつくる。
初音ミクは、ひたすら無邪気に踊っている。
まあ、ほかのところでプロデュースされた初音ミクのコンサートの演出がどんな具合かということはよくわからないが、少なくとも幕張メッセのそれは、みんなが「他愛ないときめき」を共有するためにやってきているということをとてもよくわかっているのがうかがえる。ただの美術・芸術「オタク」の仕事ではない。彼らはちゃんと現在の世界の時代意識を把握しているらしい。
世界は、病んでいる。文明が発達しすぎてややこしくなってしまった世界は今、合理主義に覆われたこの閉塞感から解放されたがっている。

2017年の初音ミクのコンサートのラストは、「ハジメテノオト」という曲だった。
たしかに初音ミクは、人類にとっての「ハジメテノオト」であり声だった。
それは、原初の闇から響いてくる声であると同時に、究極の未来から響いてくる声でもある。
「はじめて」とは、「今ここにはない」ということ。誰にとっても生きてあるのはいたたまれないことであり、人の心は、いたたまれない「今ここ」の「この生」から解放されたがっている、超出したがっている。
そのようにして人は、「はじめての体験」に引き寄せられてゆく。いや、「生きものは」というべきかもしれない。人は、この地球上で生きものであることを自覚している唯一の存在です。生きものの身体が動くことは、生きものとしてのいたたまれない「今ここ」の「この生」から解放され超出してゆく体験です。
胎児は、はじめての体験に引き寄せられてこの世界に生まれ出てくるのでしょうか。そうやって人類は二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
初めての体験をする場は、世界の終わりを体験する場でもある。「世界の終わり」を抱きすくめてゆくことができるものでなければ、はじめての体験はできない。原初の人類は「世界の終わり」の「喪失感」を抱きすくめながら二本の足で立ち上がり、そこから世界の輝きにときめいていった。
現在の世界に「かわいい」の文化が生まれてきたことは、「世界の終わり」の気分が広がっているということでしょうか。
「かわいい」の文化とは「世界の終わり」の場に立ってはじめての出会いにときめいてゆく体験のこと、あの大震災のときだって、「絆」とかなんとか、それはそれで人と人が深く豊かにときめき合ってゆくムーブメントが起きた。
初音ミクのコンサートのプロデューサーもまた、そこにそういうコミュニティが生まれることを企画しているらしい。