聞こえてくる・初音ミクの日本文化論(26)

電子音といえば未来的なイメージだから、初音ミクの歌もそんな傾向なのかというと、それだけではない。
初音ミクのファンたちは、少女ボーカロイドの電子音が、もっとも未来的な声であると同時にもっとも原初的な声でもあることに気づいた。彼らはそのはざまに立って、ひたすら「今ここ」の生きてある感触を探そうとしている。まあそうやってその初期に「ハジメテノオト」という曲が生み出されたのだが、初音ミクの歌声が今ここのこの生のいたたまれなさから解き放ってくれると感じた。
今どきのネット社会で遊ぶ若者たちは、「生活者の思想」とか「生命賛歌」とか「金が大事だ」とか「社会のルール」だとか、そうした現実のリアリティに耐えられなくなっている。そこに執着し閉じ込められるよりは、そこから解き放たれて「嘘で遊ぶ」ことのほうが「癒し」や「救い」になる。そこにこそ生きてある感触がある、と気づいた。
「嘘で遊ぶ」ところに「かわいい」がある。日本列島の文化の伝統は「嘘で遊ぶ」ことのカタルシスにある。
初音ミクほど素敵な遊びのアイテムはない。初音ミクほどスタイルがよくて踊りがうまくてかわいい声をしたアイドルシンガーもいない。しかし、たとえば14才の少女が初音ミクに夢中になったからといって、初音ミクのようになりたいと思っているのではない。ただもう純粋に初音ミクのかわいさにときめいている。この年ごろこそ、もっとも純粋に他愛なくときめいている。自分もそうなりたいと思うような自意識があれば、むしろ初音ミクに嫉妬をする。いろいろ思いまどう年ごろで、自分のことなんか忘れてしまいたいのだし、忘れてしまうほど初音ミクにときめいている。誰もあんなにもかわいくはなれないし、生身の人間ではないのだから嫉妬の対象にする必要がない。
まあ、初音ミクの自意識のなさとか、生身の肉体を持っていないことに、ただもう他愛なくときめき憧れている。彼女らの心は、自分なんか忘れて異次元の世界に漂っていたいのです。そういう思いで初音ミクの声や姿に魅了されてゆく。
まあ世の作曲家にとっての初音ミクはたんなる「楽器」にすぎなかったりするのだろうが、それだけでこんなにも大きなムーブメントになってくることはない。その「初音ミクという楽器」を発信セールスしていった人たちは、何度もユーザーたちの予想外の反応に遭遇しながらここにいたっている。
いったい現在の若者たちは何を渇望しているのだろう?
それは、生身のアイドルを祀り上げるのとは異質の空気感で盛り上がっている。

AKBのファンの少女たちは自分もそうなりたいとかなれるかも知れないという自意識を向けるだろうし、男たちは恋人やガールフレンドに対するような愛情や欲望を向けたりもするのだろうが、初音ミクを祀り上げるというのはそういうこととはちょっと違う。
初音ミクは、自分がなりたい対象でも、手に入れたい対象でもない。つまり、欲望の対象ではない。なぜなら初音ミクはあらかじめ存在する対象ではないのだから、欲望の向けようがない。曲をつくって歌わせたり動画をつくったりして、はじめてあらわれてくる。それは「存在」ではなく、あらわれて消えてゆく「現象」にすぎない。そしてその現象があらわれ出るためには、クリエーターだけでなくネットユーザーの賛同もともなわなければならない。そうやってみんなでつくり上げ祀り上げている対象なのです。
その現象は、みんなが一方的に初音ミクに献身してゆくことによって成り立っている。
相互関係ではない。初音ミクはもう、そこに現象としてあらわれてくれるだけでよい。そのとき人々は、そこで「新しい現象」と「新しい愛のかたち」を体験しているのかもしれない。そうして心や体が洗われるようなカタルシスを覚えている。
人は「無償の愛」を体験したがっている。ただもうさっぱりと「献身」していることだけを喜んでいられたら、それでよい。
関係は、一方的であるほうがよい。相互関係を欲しがると不純になる。愛されることも、愛されるのを求めることも、意識が「自分」に逆流して鬱陶しくなる。
われわれは「自分」に貼りついた意識を引き剥がすことを願っているし、初音ミクはその体験をさせてくれる。
自意識を持たない初音ミクは、われわれの希望として出現する。
戦後のこの国はアメリカ式近代合理主義を追いかけて高度経済成長を果たしながら消費意欲の旺盛な自意識過剰の社会になっていったわけだが、バブル経済の破たんを契機に若者を中心にしたその反省の気分が広がってきた。だから現在の若者は消費意欲が薄く、着るものはユニクロ、食うものはコンビニ弁当・居酒屋でけっこう、というような傾向になっている。そういう時代の気分に初音ミクが寄り添っていったのかもしれない。
大人社会にバブル景気の余韻が残っているとしても、若者たちにおいてはもう、自意識丸出しのアイドルがもてはやされる時代ではない。きゃりーぱみゅぱみゅ、パヒューム、ベビーメタルそして初音ミクへと、人間臭い欲望=自意識を感じさせないアイドルが次々にあらわれ、「かわいいの文化」の担い手として世界に進出している。
世界的に自意識過剰が反省されてきている時代であるのかもしれない。たぶんそれは近代合理主義に対する反省でもあるのだろうが、もしかしたら現在の先進国における民衆運動の盛り上がりは、「よい国家をつくりたい」とか「幸せになりたい」というような「欲望=自意識」を結集するのではなく、「欲望=自意識」それ自体からの解放を目指して起きてくるのかもしれない。ただもう他愛なくときめき合っている集団こそがもっともダイナミックな盛り上がりを生むということ。ただの「祭り」の賑わい。それは、人類の原始的な集団のかたちで、もともと人はそのようにして集団になってゆく存在であるのだ。すなわち、この生の目的を結集するのではなく、この生からの解放=超出のエネルギーを盛り上げてゆく……そこに人間性の自然があるのかもしれない。われわれは、そのようにして初音ミクと出会った。
現代社会は自意識過剰そのものである「ヘイトスピーチ」を生み出す土壌を持っているが、「ヘイトスピーチ」が社会を覆い尽くすことはなく、最後は消えてゆくしかない運動にすぎない。
世の社会運動だって、人間のすることであるかぎり、じつは「無償の愛」が源泉になっている。自分を捨てた「無償の愛」が共有・交歓されているところでこそ、もっとも大きな盛り上がりになる。
『ハンド・イン・ハンド』のような他愛なくプリミティブな人類愛を歌ってもっともさまになるのは初音ミク以外にいないし、さまになることの「奇跡」を祀り上げながらそのムーブメントが盛り上がっている。

「現象」すなわち「出現と消滅」こそがこの生やこの世界の実相であって、「存在する」ことではない……これはこの国の伝統的な世界観や生命観であり、初音ミクに熱中することは、伝統にフィットしてゆくというか、そういう歴史の無意識が呼び覚まされるムーブメントでもある。
したがってこれは、一過性のたんなる流行ではないのかもしれない。
現在のこの国は、大人と若者や子供とのジェネレーションギャップが大きくなってきている。若者たちは大人に反抗していないが、大人に対する幻滅は深い。
戦後の歴史の垢がしみついた今どきの大人たちは、欲望=自意識が肥大化してしまっている。自分の正当性を確認することばかりに執着して、自分の外に超出して「祀り上げる」ということを知らない。
この国では、自意識過剰の人間は嫌われる。それが、伝統的な精神風土です。
なのに、気がついたらいつの間にか自意識過剰の世の中になってしまっていた。きっと、人々の脳髄が近代合理主義に冒されてしまっている、ということでしょう。
今どきはインテリたちが率先して、自分が拾い集めてきた知識・情報をいじくりまわすだけの安直でステレオタイプな思考ばかりして、矛盾や混沌をやりくりしてゆくことに思いを巡らすができなくなってしまっている。彼らは、知の荒野に分け入ってゆくことも、初音ミクと出会うこともできない。
たとえば、人類は進化発展を欲望したから進化発展してきたということにすれば、安直に整合性がつくし、それは欲望した自意識の手柄だということになる。しかしじっさいは、べつに進化発展など望んでいなかったのに「結果」としてそうなってしまった歴史の「なりゆき」というものがあるわけで、そこのところを問わなければ考えたことにはならない。そして日本人は、そこのところを考える歴史を歩んできたのです。
日本列島の歴史は、善悪を追求してきたのではない、善悪を問わずにみんなして他愛なくときめき合ってゆくことを工夫しながら歩んできたのです。
昔の村の寄り合いには、合理的に裁くことのできる「法」も「正義・正論」もなかったし、「多数決」もとらなかった。それぞれのああでもないこうでもないという混沌とした語らいの中から、それでもなんとなくみんなが受け入れることのできる結論を見つけていった。
日本人の思考の伝統は、矛盾や混沌の中に飛び込んでゆき、けっして合理性でかたをつけるということをしない。そうやって知の荒野に分け入ることをしてきたのです。
そのとき、誰もが「法」も「正義・正論」も「自己の正当性」も捨てている(=喪失している)からこそ、そうしたけっして合理的ではないところの、ときにはややこしく曖昧模糊とした結論を受け入れてゆくことができる。
そうやってわれわれは、初音ミクというこの世のものかどうかもわからないようなアイドルを祀り上げ育ててきた。
またその「ややこしく曖昧模糊とした結論」が、ときにはきわめてシンプルであったりする。「もういい、みんなでさっぱりと忘れてしまおう」といっても、それは、もつれにもつれた糸を解きほぐした複雑な思考の結果なのだ。そういう思考から、たとえば日本列島ならではの、きわめて複雑な仕組みのからくり人形とか寄せ木細工のようなものが生まれてきたりする。それは、日本人は「知の荒野」に分け入ってゆくことができる、ということです。

探究するとは、思考を深めることではない。深めたその先まで行かねばならない。行くまであきらめない。その先の地平は永遠にあらわれないが、目の前に待ってもいる。その先は、「あっ」とひらめくことによってあらわれる。まあこれは、死とは何かという問題でもある。それは永遠にわからないが、それでも死ぬまで思い続ける。
「わからない」という問題と出会うことのときめきというものがある。人間とはそういう生きものではないのか。そうやって日本列島の職人技術は、どんどん細部に分け入ってゆく。「わからない」という細部、それを前にして彼らの心は驚きときめいている。「神は細部に宿る」などというが、それが日本列島の伝統であり、人類史の伝統でもある。ややこしいことのその向こうまで行かねばならないが、その向こうは永遠にあらわれない。その地平に立って現在の日本列島の若者たちは初音ミクを祀り上げている。それが彼らの「絶望という名の希望」にほかならない。初音ミクを祀り上げることには、そういう「喪失感を抱きすくめてゆくことのカタルシス」がある。
初音ミクのシンプルな姿は、じつはどんな細部も見逃さないものすごく複雑な造形がなされているのです。
江戸時代の町娘の一見乱雑なじゃらじゃらした髪飾りは、しかしちゃんとこれ以上でもこれ以下でもないという「かわいい」の着地点を持っている。
その複雑怪奇な混沌の美意識は、いわば原始的な自分を忘れた他愛ない「ときめき」から生まれてくるのであり、近代の文明人のように自分という存在の整合性や正当性に執着した自意識を抱えていたら、けっして見つけられない。
正解を見つけるのではない。正解などない、と思い定めてどこまでも分け入ってゆく。人は、「正解などないという世界」に立って生きはじめる。その先に「あっ」とひらめく体験が待っている。それが「ときめく」ということだ。思春期の少女は他愛ないときめきが豊かだということは、「正解などない世界」を身もだえして生きているということを意味する。
つまりそうやって心は「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してゆくわけで、それはきわめて複雑な思考であると同時に、きわめてシンプルに他愛なく自分を忘れて(=喪失して)ときめいているだけの思考でもある。
「自分を確立する」のではなく、「自分を喪失する」ことによってこそ、この生がより活性化し、思考がより深く複雑になってゆくこともできる。ようするにそれは、世界の輝きに他愛なくときめいてゆくというだけのことだけど、そのためのよりどころとして彼らは初音ミクを祀り上げている。
複雑な思考は、とても他愛ないのです。

ヤマンバ・ギャルもコスプレ・ファッションやロリータ・ファッションのギャルも、この世界の規範からはぐれながら、自分を捨ててみごとに「非存在=非日常=異次元」の世界に超出してみせている。それは「素顔=自分」を「捨てている=喪失している」姿であり、その他愛なく無意識的で原始的な「覚悟」と「かなしみ(喪失感)」と「魂の純潔に対する遠い憧れ」が、自分の存在の正当性に執着しきった世の自意識過剰な大人たちにはわかるまい。
女は、素顔に対する「喪失感」を抱きすくめるように化粧をする。であれば、現在のナチュラルメイクと舞妓やヤマンバ・ギャルの厚化粧と、いったいどちらが自意識過剰といえるでしょうか。
自意識過剰の時代だからナチュラルメイクが流行るのかもしれない。そのナチュラルメイクは、じつは舞妓の厚化粧よりずっと長い時間をかけているのです。
これからは「物」の時代ではなく「心」の時代だといっても、そんなことをいうこと自体が自意識過剰であり、時代の主人公であろうとする自意識よりも、自意識を喪失して時代の外に超出してゆく心がなければ初音ミクと出会うことはできない。
初音ミクのムーブメントはあくまでカウンターカルチャーであり、日本列島の歴史においては、つねにカウンターカルチャーが機能してきた。無用者の系譜。生身の女が怖いのかといっても、生身の人間でないことの尊厳というのもあるわけで、「この世のものとは思えないほど美しい」というじゃないですか。「魂の純潔」はそこにある。
「かわいい」の文化は、「魂の純潔」に憧れる文化です。「魂の純潔」はこの社会の外にある。まあそんな甘ちょろい理想主義はこの社会を生き延びるためには無用のものにすぎないのだけれど、それを持たないことには人と仲良くできないという文明社会の仕組みがあるわけで、人恋しいから人間離れした初音ミクのもとに集まってくる。

初音ミクが祀り上げられるそのシーンでは、生きられなさを生きようとするそれなりにせつない思いが共有されている。この社会でうまく生きてゆくのか、それとも人と仲良くするか、この二つのいとなみがなぜ矛盾しなければならないのか……われわれはそういう状況を揺れ動きながら生きている。
初音ミクのムーブメントとは、みんなで一緒に生きられなさを生きよう、というムーブメントです。だから初音ミクの曲には、そういう人を励ます歌詞のものがとても多い。
大人たちが、立派で正しく生き方を説いてもだめなのです。生きられなさを生きることによってこそ世界は輝いて立ちあらわれるのだし、彼らはそういうかたちでしか生きられない。
初音ミクを祀り上げるなら、自分たちの生の領域をむやみに賛美しているだけではすまない。みんな、この生の向こう側に思いを馳せている。この生に執着することをためらったり思いとどまったりしながら初音ミクを祀り上げている。そしてそうやって生と死のはざまに立つことこそがじつは、日本文化の本質的なコンセプトであり、人はそこから生きはじめる。
どこに向かうか、ではない、どこから生きはじめるのか、彼らはすでに「世界の終わり」の喪失感に浸されている。初音ミクの歌は「ここから生きはじめる」という歌であり、それがなければ人は生きられない。そうやって初音ミクは若者の自殺願望を癒してもいる。
ともあれ現在の初音ミクのファン層が13,4歳の少女を中心にした世代まで下りてきているということは、ここからまた新しいブームが生まれてくるというか、ここからはじめてブームが本格化するということかもしれない。なんといっても急速な身体の成長をはじめたこの世代こそ、この生の外に超出したいという願いがもっとも深く切実な異次元的な存在なのだから。