死なないで……世界は輝いている・初音ミクの日本文化論(27)

この世の中はろくなものじゃない……そういう深い幻滅が、若者をして死に向かわせる。彼らにとっては生よりも死のほうが親密なものになっている。身体が成長してゆくことすなわちこの生のエネルギーが活性化してくることは、死に対して親密になってゆくことだ。この生は、この生を縮小してゆくかたちで活性化してくる。それがこの生の自然なはたらきであり、日本列島の文化の伝統はこの自然に寄り添ってはぐくまれてきた。
まあこの自然は、体がふくらんできたり生理がはじまったりすることに戸惑っている思春期の少女がもっともラディカルに実感している。
日本列島の死に対する親密な文化は、処女性の文化だといえる。
あの戦争では、日本人のほとんどが「もう死んでもいい」という気になっていたし、そういう気にならなければ生きていられなかった。そこまで追いつめられていた。そうして「どうやって生き延びるか」ということと同じだけ(あるいはそれ以上に)、「どうやって死ぬか」ということをいつも考えていた……戦中を生きた人たちのそういう証言がある。
そういう意味で、「一億総玉砕」を主張したのは一部の軍人だけじゃなく民衆の中にもたくさんいたのだから、誰も責められない。
そこまで追いつめられて、やっと戦争が終わった。
日本人の心は、「国を守る」こと以上に、戦争そのものに憑依してしまう。死ぬことに憑依してしまう、と言い換えてもよい。三島由紀夫も、川端康成も、江藤淳も、西部邁も、そうやって死んでいった。いいとか悪いという問題じゃない。日本列島の伝統の問題です。
戦後はまだ終わっていないのか?
そりゃあこの世の自殺するものはほんの一部だろうが、若者は大人よりもずっと深く切実に死とは何かと考えている。そういう世代ではないでしょうか。
若者の自殺を思いとどまらせるために、この生の素晴らしさを説いてもなんの解決にもならない。どんなにこの生が素晴らしくても、「自分は今生きている」という自覚があるかぎり、「死とは何か」という問題は依然として残る。
この生に執着してこの生に閉じ込められたら、知性や感性の源泉としての想像力が羽ばたかなくなる。そうやって心が停滞してしまっている大人たちは多い。まあ大人の社会とはそんなものだ、と若者たちは思っている。
「死」について考えることは、想像力が羽ばたいてゆく契機になる。それは、この生の外側の異次元の世界について考えることであって、この生の延長の世界を欲望することではない。
この生に執着することは自分に執着することであり、自意識(=霊魂)だけは生き延びると信じて自殺する若者もいる。生きることがしんどいのなら、そのことは希望になる。むしろそういうケースが多いのかもしれない。
心がこの生や自分に閉じ込められたら、この生の外側に超出してゆく想像力ははたらかないし、それはまた世界や他者に対する反応を失っていることでもある。世界や他者は、この生=自分の外側の存在であり、すなわち「死」を思うことは、世界や他者に対する反応が豊かにはたらく契機なのです。
若者は、世界や他者に対する反応が豊かだからこそ、必然的に「死」を思わずにいられない。
若者たちの心は、「死」すなわちこの生の外側の「非日常=異次元」の世界に向かって羽ばたいてゆく。そうして、初音ミクと出会う。

「死」は、国家制度にとってはひとつの「タブー」であり「けがれ」です。だって、民衆を生かして働かせて税金を徴収する目的で存在しているのだもの。死者を支配することはできない。
言い換えれば民衆は、支配からの解放として「死」を思う。そしてわれわれを支配しているのは国家制度だけではない。この生そのものがわれわれの心を支配している。死ねば、この生の支配から解放される。女はこのことが男よりもずっと骨身にしみている存在で、それほどにこの生この身体から男以上に支配されている。毎月の生理のわずらわしさはもちろんのこと、日々の体調の変化も男以上に激しい。そしてだからこそ、自分を忘れてこの世界や他者に対して他愛なく豊かにときめいてゆくことができるし、セックスでは身体が消えてゆくようなエクスタシーを体験することができる。それはもう、もしかしたら「死」の体験かもしれない。
女は存在そのものにおいて深く支配されているからこそ、支配からの解放としてのカタルシスも深い。
日本列島の伝統においては、宗教的な「死んだら天国や極楽浄土に行く」というような観念ではなく、あくまで非宗教的な「死は今ここの異次元の世界に向かって消えてゆくことである」という認識になっている。それが「死んだら何もない真っ暗闇の黄泉の国に行く」という言い習わしの本意であるし、また女のオルガスムスそのものでもあるわけで、日本人の死生観は女にリードされて形成されてきた、ということです。
そして「処女=思春期の少女」は、セックスなんかしなくても本能的にというか生きてあることのかなしみとしてそのことを知っている。
日本列島の住民は支配されることにとても従順だが、だからこそ支配されることの嘆きを誰よりも深くしている民族でもある。われわれは、この生そのものから支配されて存在している。
支配されてあることの嘆き……それが日本人の生の実感であり、そこから心はこの生の外の「非日常=異次元」の世界に向かって羽ばたき、他愛なく豊かにときめいてゆく。
日本人が死に対して親密であることは、じつは死を「けがれ」としている国家制度とは矛盾する感慨であり、民衆社会は権力社会とは別の独自の文化を持っている、ということです。日本人ほど支配されることに対する嘆きが深い民族もいないのであり、「死=異次元の世界」に対する親密な感慨に覆われた日本列島に「ナショナリズム」の伝統なんかないのですよ。
この国のナショナリズムなど、明治維新以来の急ごしらえの安普請にすぎない。
日本人の日本人たるゆえんは、よその国にときめいていることであり、世界の平和を夢見ていることにある。そうしてつねに不安な心で、日本人とは何か、と問い続けている。
日本列島の歴史や文化の伝統に対して、解釈を変更しないといけないことがたくさんある。
たとえば縄文・弥生時代の社会に原始宗教(アニミズム)が機能していたのかということだって、おおいに疑わしいことなのですよ。そんな伝統があるのなら、われわれはもっと宗教心の篤い民族になっているはずで、まあ、そうであるなら初音ミクのブームなんか起きていない。そうして日本人は死という概念をどのように扱ってきたかということだって、歴史家によってさまざまな解釈があって、いまだによくわかっていないところがある。

日本列島は死に対する親密な感慨の文化の伝統があるから、自殺する人が多いのも仕方ないのだろうが、もともとそれはこの生の作法として育ってきた文化でもあり、「あはれ・はかなし」の美意識は死に対する親密な感慨の上に成り立っている。
日本列島の伝統においては、「生命賛歌」などというものはない。だから初音ミクのブームが起きてきた。そしてこの動きが若者の自殺防止になるとすれば、それは生の素晴らしさを称揚しているからではなく、死に対する親密さを抱きすくめて生きる道を指し示しているからです。
どんなにこの生の素晴らしさを説いても、若者から死に対する親密さを奪うことはできないのです。
死に対する親密さを抱いて生きることができるか、と問われている世代なのです。この生において死に対する親密さは大切な感慨であり、それこそが人間的な知性や感性の源泉なのです。
世界の輝きに対するときめきがあれば、どんなみじめな人生でも生きていられる。
ときめきがないから、死にたくなってしまう。人は、この生や自分に執着して死にたくなってしまう。
自分の外やこの生の外にときめいていれば、自分のこともこの生のことも忘れているのだから、「死にたい」と思いようがない。
目の前の若者を死なせたくないと思うとき、どんな賢い言葉も説得力にならない。
誰とはいわないが、100万言を積み上げ説得しようとして、けっきょく失敗してしまった哲学者がいる。彼の生を「かけがえのないもの」といって自意識を満足させてやっても、思いとどまる理由にならない。逆にけしかけているようなものです。自意識で死のうとしている人にそんなことをいっても、なんの役にも立たない。この世の中は、その哲学者のように自意識で生きている人もいれば、自意識で死んでゆく人もいる。
彼が思いとどまるのは、何かを納得するからではない、世界の輝きにときめいたときが、思いとどまったときです。
人の心は、初音ミクのいる「非日常=異次元」の場に立ってときめいている。ときめくことは、非日常的な体験です。
日常とは、この世界を「憂き世」として嘆いている場のことです。
他愛なくときめいてゆくことができれば生きられる。むずかしい理屈なんかいらない。

ネットユーザーに「初音ミク」という遊び場を与えれば、多種多様・百花繚乱の歌が生み出されてくる。その混沌とした景色にめまいしながら若者は生きはじめる。彼らを救い癒しているのは、大人たちの差し出す「人生の真理」なんかではない。
何かが「わかった」からといって、何ほどのことか。その「わかった」つもりになる体験をいじましく拾い集めながら人は、鈍感になってゆき、思考停止してゆく。
ただもう世界の輝きに驚き、ときめき、めまいしていればいいだけのこと。
初音ミクは、現在の日本人が忘れてしまった「華やぎ」と「かなしみ」のやまとうたの「うたごころ」を一場かぎりの夢舞台でかりそめに体現し、「思い出してねっ」とかわいさこの上なく歌い舞い、舞台がハネればまた異次元の世界に隠れ消えてゆく。
「消えてゆく」ことを目撃することのカタルシスというものがある。
国家制度や神から「監視されている」ことは文明社会で生きてあることのもっとも大きな受難のひとつであり、「消えてしまいたい」という願いは誰の中にもある。その願いを共有しながら人と人は、「無関心の関心」を向け合ってゆく。まあ、「見て見ぬふりをする」ということは、この国の人付き合いの伝統的な作法であるわけで。
「監視されている」という強迫観念から逃れるためには自分を消すしかないのだし、世界の輝きにときめいていれば、自分は消えている。しかし、鬱病になってときめくことを失うと、強迫観念から逃れられなくなって死にたくなる。
権力社会から監視されている、と思うなら、民衆だけの社会をつくってそこに逃げ込むしかない。人が家族をつくったり恋をしたり友情をはぐくんだりしているのは、「民衆だけの社会」をつくることにほかならない。そういう監視することを慎み合う「民衆社会」を。
ときめきがないなら見るな、ということ。監視するとは、正しいかどうかを問うこと。だから民衆は、正しいかどうかということなど問わない。すべてが許されて「ときめき」が生成している社会をつくろうとする。ときめいているかどうか、が問われているだけ。ときめき合っていれば、たがいの生が支え合われている。
人と人は、「死に対する親密な感慨」すなわち「消えてゆきたい」という願いを共有しながらときめき合っている。それは、監視し合わない、ということ。
「監視される」ことから逃れて消えていった先の異次元の世界に、初音ミクがいる。
初音ミクには、監視しようとする自意識はない。その「無関心の関心」の場というか、その「かりそめの夢舞台」にたどり着いて、ようやく生きた心地を覚え、生きはじめることができる。
この生が「かりそめの夢舞台」であることこそ、癒しであり救いであり、この生が華やぐ場でもある。
権力や神による「監視装置」としての国家制度や宗教によっては、自殺願望から解放されることはない。日本列島の民衆は、古代の大和朝廷の発生や仏教伝来のときからすでにそのことに気づいていたらしい。
現代社会の大人たちは、すでに国家制度や神から監視されてしまっているから、自己の正当性を欲しがる。そうして正当性を確認しながらこの社会で活躍し、確認できなくなって鬱病に陥る。
この生の「嘆き=喪失感」を抱きすくめているものを救うのは、国家制度でも宗教でもない。この生は「かりそめの夢舞台」、若者たちが初音ミクと出会うためにはそれなりに行きはぐれて途方に暮れた想いがあったはずで、いつの時代も若者はその喪失感を携えて生きているのだし、その喪失感=かなしみこそがこの生に華やぎをもたらしている。
世界の輝きにときめくことができるかどうか、それだけのこと。

『ハンド・イン・ハンド』は、初音ミクのキャラクターに寄り添ってほんとに他愛ないことを歌っているだけだけど、この歌で救われたといっているファンがたくさんいる。
「君のその手は、知らない誰かの手も握ってるんだ、ずっとずっと未来まで」……こんな素朴な言葉を相手の心に響かせてゆくことができるところに歌の力というものがあるのでしょうか。
そしてこう続いてゆく。

まだ、泣かないで/気付かないだけだよ/言葉や想い/見えづらいからね


好きな人、好きなこと、好きな場所/めがけた明日を


そう/ハンド・イン・ハンド、君が叫んだ/歌は誰かの手も/ハンド・イン・ハンド、包み込むから/途切れないで


だからね/ハンド・イン・ハンド、強い気持ちは/誰かの肩を抱く/ハンド・イン・ハンド、覚えていてね/ずっと、ずっと/ミライまで


何気ない言葉/覚えていないメロディー/知らないうちに/笑顔をつくってる


その声で、その指で/その胸で描いた/愛しさは伝わるよ/明日へ


そう/ハンド・イン・ハンド、君がつかんだ/その手は遠くまで/ハンド・イン・ハンド、違う誰かの/涙拭う


なんだか懐かしくて新しい印象のメロディが秀逸だからこの歌詞が生きるのだろうが、作者はきっと大真面目でヒューマニズムというか人類愛を意識している。青くさく他愛ないヒューマニズム……でも、死を前にした人には、そういうプリミティブな言葉を伝えることができないといけない。観念的に納得させるのではなく、心を響かせないといけない。死を切実に想う世代だからこそ、そういう心に響く言葉と声を待っている。
そしてそれに初音ミクの愛らしくひたむきなダンスが加わると、何か人の心をとろけさせるような気配が生まれる。
まあ「死にたい」と思っても、ときめくことができる心を持った人は、その危機を通過できる。
初音ミクの歌ではなく高級な小説や哲学書に啓発されて立ち直るときでも、けっきょくは「ときめく」心の問題ではないかと思える。
「生きていればいいことがある」ではない、「世界は輝いている」ということ。
「非日常=異次元」の世界で遊んでいる者こそ、もっとも目の前の世界の輝きにときめいている。なぜなら「輝き」とは、ひとつの「非日常性=異次元性」にほかならないのだから。
手と手をつないでときめいていられたら、道端の草が輝いて見えたら、自殺するということもないのでしょう。若者に死なせたくないのなら、どんな高度な思想よりも、「ときめく」という体験のほうがずっと有効なのではないでしょうか。
人と人はときめき合い、世界は輝いている……初音ミクはわれわれにそういう原初的な風景と立ち会わせてくれる。