新しいコミュニティ・初音ミクの日本文化論(28)

初音ミクはマンガのように目が大きくてかわいいけれど、人間の「美人・美少女」という範疇に当てはまる存在ではない。初音ミクは生身の女の代用品ではないし、この世の存在ではないのだから、それでいい。
初音ミクは、若者たちが「もう国なんか信じない」という感慨を深くしていったところから生まれてきた女神だ。その喪失感、戦後社会は民衆のそういう感慨からはじまったのだし、いろいろあったけど、けっきょくそういう感慨を深くしてくる歴史だった。
「美人コンテスト」というのがある。
この社会には、それぞれの時代によって「美人」の基準がある。美人の基準なんか人それぞれ違うじゃないかといっても、その「基準」を持ちたがるということがおかしい。そういう「基準=規範」というものをつくりたがる世の中の仕組みに心が侵食されてしまっている。
「今ここ」の目の前にいる女が女のすべてであり美人だ、というか、女であることそれ自体が美しい、とときめいてゆけるのなら、「美人の基準」なんかどうでもよい。まあ誰しもそんな境地にはなれないが、それこそが人間性の自然=基本であるに違いない。そうやって、目の前のブスとついふらふらっと浮気をしてしまう男もいる。で、その男は「自分」というものを持っていないかといえば、「世の中の基準」とは別の「人間性の自然」を「自分」として持っているともいえる。
世の中の基準に合わせて「自分」というものをつくっても、それは人間性の自然としての「自分」を失っていることでもある。
この世に「自分」を持っていない人なんかいないのだし、自分を忘れるのも「自分」だ。
国家制度とか神の教えというのはたえず民衆を思考停止に陥らせる罠をしかけてくる。国家や宗教は「よき市民・国民」とか、「よき信仰者」とか、そのような類型という檻に閉じ込めようとしてくる。しかしそんな「自分」なんかいらない。日本列島の民衆は、そういう思考停止の罠に抵抗する民衆自身の「文化=思考」の歴史を歩んできた。
「美人の基準」で美人か否かを選別するなんて、思考停止以外の何ものでもない。
「美人の基準」なんか喪失している方が、より深く豊かににときめいてゆくことができるし、より深く豊かに想像力をはばたかせて思考することができる。
「国なんか信じない」のは、日本列島の伝統だ。民衆は、最初に大和朝廷が生まれたときからそうだったのであり、だから国旗も国歌も存在しない歴史を歩んできた。終戦後に「もう国なんか信じない」と思ったのは、明治維新以来の帝国主義によって思考停止させられてきた歴史を清算し、ほんらいの伝統に遡行していったのだ。そして現在の初音ミクのコミュニティというかムーブメントは、そういう「信じない」思考をさらに洗練させていったのであり、彼らは、そうやって前の世代の全共闘運動もオウム真理教をはじめとするカルト宗教やスピリチュアルのブームも清算していった。彼らはもう、国家も宗教も信じていない。それが日本列島の伝統であるのだし。喪失感を抱きすくめてゆくことができるのは、日本人のアドバンテージなのだ。
近ごろのテレビ番組の浮足立った「日本万歳」のブームも、それはそれで伝統に遡行しようとする動きには違いないわけで、そのブームは「かわいい」の文化が本格化してきたところからはじまっている。
今どきの若者のほとんどは、日本人には宗教心がないし宗教では救われないということをちゃんと自覚している。それがオウム真理教やスピリチュアルに席巻されていたころとは違うところで、時代はもう、変に深刻ぶって悩むのではなく、他愛なく世界の輝きにときめいてゆけばいいだけのことだというふうにシフトしはじめているのではないだろうか。
政治の時代も宗教の時代も、「終わった」のだ。この国においてはいつだって終わっているしいつだってはじまっている、ともいえるわけだが、とにかく「世界の終わり」に立てば、目の前のどんな女にもときめくことができる。それだけはいえる。

初音ミクのコンサート会場は、ひとつのコミュニティになっている。
観客だけではない。バックで演奏するロックバンドも、歌や映像の作者も、ダンスの振り付けをする人も、プロデューサーも、みんなが初音ミクを「かわいい」の女神として祀り上げてゆくことに奉仕している。つまり、誰もが妙な自意識を捨てている。そしてもとより自意識を持たないアイコンである初音ミクもまた、ひたすらコミュニティの生贄であると同時に救世主として歌い踊り続ける。
彼らは、誰もが他愛なくときめき献身し合う世界を夢見ている。
現代人は、みずからの自意識を持て余している。とくに日本人は、自意識を携えて生きてゆく文化の伝統を持っていない。
戦後の高度経済成長社会は、人々の自意識を満たそうとするコンセプトの上に成り立っていた。
しかしあの大震災によってわれわれは、誰もが自意識を捨てて献身し合うことを学んだのであり、じつはそれこそがこの国の伝統になっている集団性でもあった。
自意識を満たす文化と、自意識を捨てる文化。人の心の自由と解放は、いったいどちらにあるのだろう。この国の社会はこの二つの文化がせめぎ合っているというか、その自意識を満たす文化に対するカウンターカルチャーとして、初音ミクとともに自意識を消去してゆく文化潮流が起きてきている。
自意識を満たしたいなら自意識を持たない初音ミクが祀り上げられるはずがないし、たぶん、この国だけでなく世界全体が自意識を持て余しはじめている。だから、「かわいい」の文化が「クール」ともてはやされるようになってきた。
いつか初音ミクは、人類全体の生贄であると同時に救世主になるのだろうか。少なくとも初音ミクのコミュニティのみんなは、そのときを目指している。
まあAKBの選挙で特定のアイドルに肩入れするといっても、ファンどうしが競争しているし、ファンがアイドルをよりかわいくしてやれることはほとんどない。どちらも人間で、アイドルがファンを裏切って恋愛に走ったりもする。アイドルがどこまで生贄になってくれるのか。生贄になってくれなければアイドルじゃないし、かわいくない。
まあAKBは、自意識の時代から非自意識の時代へと移ってゆく過渡的な色合いのアイドルであるのかもしれない。
「かわいい」ものは、「かわいい」がゆえにこの生のリアリティから逸脱した悲劇性を帯びている。
初音ミクは、非存在のバーチャル・アイドルであるということにおいて、すでに誰よりも悲劇性と超越性を備えている。
そして初音ミクのコミュニティは、現在の文明社会の競争原理や闘争原理に対するカウンターカルチャーとして、原初的であると同時に究極の未来を志向する文化であろうとしている。

日本列島は、古代以来つねに、権力社会に対するカウンターカルチャーとしての民衆社会だけの集団性の文化を機能させてきた。
西洋では民衆社会と権力社会が「契約」によって繋がっているが、日本列島にはそれがなく、つねに民衆だけの自治の文化を対置させてきた。たとえばそれが村の「寄り合い」という自治組織の伝統で、古代には裁判も道路や橋などの建設も、権力社会に頼むことなどしなかった。その伝統が、江戸時代には「講」とか「若衆宿」という習俗にもなっていったし、当時の民衆社会で大流行した「稲荷信仰」など、武士や貴族の社会には無縁のものだった。
日本列島の民衆は、政治経済において支配されても、文化的にはつねに民衆だけのコミュニティを保持してきた。古代以前の歴史は、はじめに天皇を祀り上げている民衆社会があって、後からその天皇と民衆のあいだに権力社会が寄生してきたのだ。
はじめに権力社会があった、という歴史などあるはずがない。
日本列島の古代以前の奈良盆地においては、支配者がいなくても成り立つ数万人規模の都市集落をいとなむことができた。それほどに日本列島では、すでに原始的な集団性が洗練発達していた。
民衆が天皇を祀り上げるのは政治ではなく文化の問題であり、いつの時代にも文化的には支配されてこなかった。
この国の伝統は、権力社会からの押し付けではない民衆だけの文化的なムーブメントが起きてくる精神風土を持っている。そうやって仏教が伝来して権力社会からそれを押し付けられたときにカウンターカルチャーとしての神道を生み出していったわけで、そのとき権力社会は神道を弾圧することができずに「神仏習合」を推し進めていった。
奈良時代に大仏が建立されたのは、おそらく権力者が思うように仏教が広まっていなかったからで、広めないと民衆支配が確立しないという事情があったからだ。それは、歴史的には聖武天皇の発願ということになっているが、じっさいには権力者がそう画策しただけだったのかもしれない。だから、最初は民衆の労働力が思うように集まらなかった。
天皇家神道だから、天皇が発願するはずがない。
神道は、民衆の天皇を祀り上げる習俗を守るために生まれてきたともいえる。
蘇我氏によって仏教が民衆社会に下ろされていったとき、民衆と天皇の関係に危機が生じた。それは、天皇ではなく仏を祀り上げよ、という命令でもあった。だから、大化の改新蘇我入鹿が暗殺された。蘇我入鹿は、天皇制を廃止して自分が皇帝になろうとしていた。
で、このあと、天智・天武天皇を祀り上げながら神道が確立されていった。それはきっと、天皇を祀り上げているグループと仏を祀り上げようとする蘇我氏一派との権力闘争だったのだろう。
民衆が天皇を祀り上げながら神道を生み出していった。神社の祭神のほとんどは、古事記の記述を採用している。そのとき古事記を編纂した天皇派の権力者たちはそれを民衆と天皇との共作として天皇の権威を確立してゆき、民衆もそれを支持して神社の祭神に採用していった。

仏教が仏の教え=規範=戒律で民衆を縛ってゆこうとするものであったの対して、神道は、八百万の神を祀り上げながら「無主・無縁」の祭りを盛り上げてゆくためのたんなる「習俗」にすぎなかった。
神道の「かみ」は異次元の世界(=高天原)に「隠れている」だけの「非存在」の対象で、民衆を支配することも罰することもしないかたちでイメージされている。
弥生時代のころからすでに神社のようなところがあって、そこが祭りの場所になっていたのだけれど、そこを管理していたのは「巫女」で、祭りのときは踊ってみせていた。そしてその中の特別な舞の名手が、祭りの象徴として天皇のような存在になっていった。
天皇は歴史の途中のどこかで男に代わっていったけど、奈良時代までは女が天皇になっても何の違和感もなかった。
最初のころの巫女は、奈良盆地の集落の人々が仲良くやってゆくための「生贄」であり「救世主」でもあった。「卑弥呼」のような存在、と言い換えてもよい。卑弥呼はべつに「呪術師」だったのではない、舞の名手としての奈良盆地のコミュニティの象徴的存在だっただけにちがいない。
神道の「かみ」は、「隠れている」ところの、支配することも裁くこともしない「非存在」の対象なのだ。
まるで「初音ミク」みたいではないか。
日本列島には、バーチャル・アイドルを祀り上げてゆく精神風土の伝統がある。
そうして今や、国家制度や宗教の神による支配や裁きに疲れた世界中のファンが初音ミクを待ち焦がれている。
初音ミクのコミュニティは、これからさらに大きくなってゆくのだろうか。

自分は正しいかどうかとか、自分は幸せかどうかとか、自分は優れているかどうかとか、自分は愛されているかどうかとか、そんなことはぜんぶどうでもよい。ただもう、自分を忘れて世界の輝きに他愛なくときめいていられたらそれでよい。この生もこの世界も「光のゆらめき」であり、「あらわれて消えてゆく」たんなる現象にすぎない。そう思うしかないし、そう思うことしかできないし、それでよい。それが、日本列島の無常感の伝統だ。無常感とは、喪失感のこと。
初音ミクは「光のゆらめき」、この生もこの世界も非存在の「光のゆらめき」というたんなる「現象」であるという認識を抱きすくめてゆくための唯一のよりどころとして祀り上げられている。
初音ミクの声は、この宇宙の果てから聞こえてくる原初の声であり、この宇宙の果てまで届く究極の未来の声だ。
すべては「現象」であるということ、「存在」ではない。
やまとことばでは「現象」のことを「こと」といい、「存在」を「もの」という。「現象=こと」は「無常」、「存在=もの」は「常」。「こと」は「あらわれて消えてゆく現象」であり、「もの」は「まとわりつく存在」。
この生もこの世界も「こと=あらわれて消えてゆく現象」であり、「もの=まとわりつく存在」ではない……この認識が日本列島の伝統である「無常」の世界観や生命観であり、われわれはもう無意識のうちに、この「こと」と「もの」を自由自在に使い分けておしゃべりをしている。
「まあ、きれいだこと」というときの「こと」は、その美しさに対する一瞬の自分の感動の丈という「現象」をあらわしている。
「私、女だもの」の「もの」は、私は女という条件にまとわりつかれている、という私の「存在」のさま。
この生やこの世界は「存在」か、それとも「非存在」のたんなる現象か。どちらが科学的な真実かどうかということはさしあたってどうでもよい、とにかくわれわれ日本人は、「<この生やこの世界はあらわれて消えてゆく現象である>と認識することのカタルシス(さっぱりした気分)」と「この生やこの世界が確かな<存在>として心にまとわりついてくることの鬱陶しさ」という「主観=感慨」を共有しており、その上に「こと」と「もの」という言葉が成り立っている。
そしてこの「主観=感慨=喪失感」は、じつは「処女=思春期の少女」こそがもっとも確かに深く切実に抱いているのであり、急激な成長をはじめたみずからの身体に対するどうしようもない鬱陶しさと世界の輝きに対する他愛ないときめき、そのことにリードされながらこの国の伝統が生まれ育ってきた。
国家の支配と神の裁きによる近代合理主義とともに「大人の知恵」を止揚してきた欧米人だって、日本人のロリータ趣味もあんがい侮れないな、とこのごろ気づきはじめている。
そうやって今、「初音ミク」というムーブメントが世界中に広がっている。
初音ミクは、この生もこの世界もあらわれて消えてゆく光のゆらめきのような現象にすぎないと気づいてゆくきっかけ=よりどころとして登場してきたのであり、それはそのように考える歴史を歩んできた日本人でなければ気づくことができないことだったし、日本人だからそれを切実によりどころにしていった。

右翼と左翼とか、大人世代と若者世代とか、富裕層と貧困層とか、「勝ち組」と「負け組」とか、この国においては民衆社会がそうやって分断されることはけっして自然なことではない。
この国で分断されているのは権力社会と民衆社会であり、そういう意味で権力にすり寄ってゆく右翼やたとえ左翼でも政治のことばかり語りたがる政治オタクに対する違和感が民衆にはある。
民衆には民衆だけの世界観や生命観の上に成り立った文化がある。
バブル経済崩壊や秋葉原通り魔事件や東日本大震災に対する総括の仕方だって、民衆と権力者ではたぶん違うのだろう。民衆はそこでその運命を受け入れ「喪失感」を抱きすくめていったし、権力者は二度と繰り返さないためになお支配を強化しなければならいという教訓として受け止めたのかもしれない。
権力者には不幸(=死)はあってはならないという強迫観念があるし、民衆は不幸(=死)を抱きすくめてゆく。搾取し奪うことが本能である権力者は、喪失感に浸されることに耐えられない。
日本列島の民衆の胸の中には、つねに「喪失感」が刻印されている。そうして、そこから民衆だけの集団性のムーブメントをつくってゆく。そうでなければ、「かわいい」の文化がこんなにも盛り上がってくることはなかったはずだし、こんなにもひどい世の中で若者たちが不満を爆発させていないことの説明はつかない。彼らが草食男子であるのは、心が「喪失感」に浸されているからだ。
権力が勝手なことをしているのは、民衆が権力社会に対して無関心だからであって、支持しているのではない。無関心だから支持してしまうということもあるし、こういう傾向は若者たちに特に顕著だ。政治のことに関係なく生きているのだから、政治が変わってほしいとも思わない。
彼らは、政治のこととは関係なく、「喪失感」を生きている。彼らの心は、すでに現実社会にはない。引きこもりはもちろん、学生もフリーターも派遣社員も、現実社会とのかかわりをすでに喪失している。
日本列島に政治に対する無党派層や無関心層が多いのは、民衆自身の文化を持っているからだ。そりゃあこの社会で暮らしていて政治とかかわっていないはずもないのだが、気分においては関心がない。秋葉原通り魔事件の犯人だって、政治運動に参加したことも関心を持ったこともないのだから、それで社会に対する不満が動機だとはいえない。彼の自殺願望は、そういうかたちで親に復讐したかったのだろうし、それもひとつの「喪失感」にちがいない。
民衆社会、特に若者たちの社会に「喪失感」が漂っている。だから消費が伸びないし、子供をつくろうとしないし、結婚したがらない。どうせ「憂き世」だ。今さら権力者や大人たちが望むような「よき市民」になりたいとも思わない。
若者には若者の文化があり、世界観や生命観がある。彼らはこの社会の外の世界を夢見ているし、この社会の「無用者」であることに悲観していない。悲観していないからこそ、大人たちより彼らのほうがずっと深く豊かに目の前の世界や他者の輝きにときめいている。
国家を意識するから、「よき市民」であろうとする。国家を意識しないなら、自分が何者であるかを問う必要がないし。目の前の他者に対してもそれを問わない。現在の若者たちは、そのようにして他愛なくときめき合うことができるコミュニティをつくろうとしている。ネット社会での会話もそのようにして成り立っているわけで、その無関心の関心は、「喪失感」の上に成り立っている。

「表現」とは喪失感を埋めようとする行為であり、べつに芸術にかぎったことではなく、生まれたばかりの赤ん坊は喪失感を埋めようとして「表現」という行為を覚えてゆく。人は、そこから生きはじめる。文化とはそのようなものだ。
人類の言葉という表現は、喪失感を埋める行為として生まれてきた。
生きてあることのいたたまれなさ、この世に生まれ出てきてしまったことの喪失感。その喪失感が、言葉を発見した。
今どきの歴史家が言葉の起源を語るとき、言葉はどこからどこに伝わっていったとか、そんなことばかりいっているのだけれど、そういうものじゃない。そんなことは世界中が同じ言葉になっていなければ成り立たない。どこの地域でも、それぞれ独自に、人としての与件にしたがって言葉を生み出していったのだ。人類は、進化のあるときから言葉を生み出さずにいられないほどの喪失感を抱えた存在になっていった。それだけのこと。同じような環境の同じような性格の集団なら、同じような言葉になってゆく。べつにどちらがどちらに伝えたということでもない。どうせ人間の言葉なのだから似ている部分があるのは当然だし、環境や集団の性格が違えば、とうぜん言葉の「表現」も変わってくる。
日本人と朝鮮人アイヌ人の言葉に似ている部分があるとしても、まずは、どうして違うのかということが問われなければならない。その違いにこそ、それぞれの言葉の起源がある。言葉は、われわれがわれわれの生の与件にしたがって生み出していったのであって、どこから伝わってきたのでもない。
よその土地に行けば、よその土地の言葉を使わなければ暮らしてゆけない。それが、世界中の民衆の歴史だ。侵略して無理やり自分たちの言葉を使わせるということなど文明社会が発生して以後の権力社会の歴史であり、言葉はその前からすでに生まれていた。
アイヌ人は日本列島に日本人とは別々に暮らしていたが、それでも限りなく日本語に近づいてきた。アイヌ語が日本語のもとになったのではない。アイヌ語が日本語のようになってきただけのこと。
言葉は、民衆の「喪失感」から生まれてきた。「喪失感」は、人恋しさを生む。言葉があれば、人と心を通い合わせることができる。心を通い合わせたくて、言葉が生まれてきた。それだけのこと。
心は、言葉に宿っている。霊魂に宿っているのではない。古代の日本人は、ありったけの心のことを「たましい」といい、ありったけの心が宿っている言葉のことを、「ことだま」といった。それだけのことだが、それだけのことの不思議を抱きすくめながら、語り合い、ときめき合っていった。
もともとの「たま=たましい」というやまとことばは、「霊魂」を意味しているのではない。後世の神仏習合によって同義であるかのように扱われていっただけのこと。
何はともあれ、心を通い合わせることは言葉を通い合わせることだ、と古代人は信じていた。そうやって人類は「言葉」を発見し、育てていった。

言葉の不思議を思うなら、相手はネット社会の見ず知らずの人でもかまわない。現代人がネット社会で語り合うことは、言葉の不思議を再発見している体験でもある。
相手の姿も身分も問わない。そういう無関心。その無関心の上に「人恋しさ」という関心が息づいている。その無関心は、心が現実社会の外に漂っているからであり、その「喪失感」が「人恋しさ」を生む。この世に生まれ出てきてしまった、という「喪失感」は心をこの世の外に誘ってゆくし、その無関心の場に立って現在の若者たちは、「人恋しさ」という関心を募らせている。
人類の歴史は、「喪失感」が募ってゆく歴史だった。
現在の世界は、グローバル資本主義などと合唱しながら、「国家」というよりどころを喪失しはじめている。だからといって、「ナショナリズム」を叫べばいいというようなものでもない。その「喪失感」を抱きすくめてゆくこと、「国家」など喪失してもいいのだし、そこから今、原点に返って新しいコミュニティをつくりなおそうとしているのかもしれない。ヨーロッパはそこのところで苦悶し苦闘しているし、それは、世界的な移民騒動や民族紛争だけの問題ではない。この国の地方の過疎化(空洞化)だって本質的にはそういう問題であるのかもしれないし、学校や職場や家族だって新しい人と人の関係やコミュニティのビジョンを必要としているのかもしれない。
ひとりぼっちの心で生きはじめる……もう、家族が大切だとか国が大事だといっていられるような世の中ではない。若者たちは、その無関心の場に立って「人恋しさ」という関心を募らせている、初音ミクという女神に抱かれて。
日本人は、国家意識は薄いが、ふるさとに対する想いは深い。コミュニティに対する愛着は、誰の中にもある。ふるさとの山や川の記憶だって、ひとつのコミュニティに対する愛着なのだ。そういう対象も含めて「コミュニティ」というのだし、そういう対象こそもっとも大切なのかもしれない。
初音ミクを祀り上げることは、コミュニティに対する愛着でもある、みんな「人恋しい」のだし。
新しいコミュニティのビジョンは、「ひとりぼっち」と「人恋しさ」の、その「喪失感」が共有されたところから生まれてくる、のかもしれない……。