女神のかなしみ・初音ミクの日本文化論(25)

自我とか自意識といっても、「自己撞着」のことでしょう。
この社会では自分を守ろうとする自己撞着を失ったらうまく生きてゆけないが、それは、自分を忘れて夢中で考えたり他愛なく世界の輝きにときめいたりする知性や感性が鈍磨してゆくことでもある。人は、この二つの相反する心の動きの兼ね合いで生きている。
文明社会を生き抜くためには、この自己撞着の強さは武器になる。世の中の大人たちはみな、個人差はあるもののそういうものを持っている。それに対して成長をはじめた自分の体に対する鬱陶しさを抱え込んだ思春期の少女の心は、自分からも社会からも離れてしまっている。
だから彼女らは、親の庇護もとに置かれるしかない。そしてその先も思春期の心のままで生きてゆくなら、結婚して男の庇護の下に入ったほうがよい。昔のように社会制度として結婚年齢が低いのも、あながち悪いことだともいえない。女が思春期の心のままで生きてゆくことができる。日本列島の伝統は、女が思春期の心のままで生きてゆくことを肯定してきたし、その「浮世離れしている」ことを文化・芸能の基本的なコンセプトにしてきた。「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の美意識も「無常」の世界観や生命観も、そういう伝統にほかならない。
小林秀雄は「無常こそ常だ」といった。夢まぼろしを抱きすくめてゆく日本文化の伝統が初音ミクを生み出した。
まぼろしの世界は何処まで分け入っても果てがない。そのようにして日本人の、徹底的に細部にこだわりけっしてあきらめない探求心が生成している。極めることはできないと絶望しているから、ひたすら探求を続ける。極めている存在である神(ゴッド)のことなど知らないから、「これで決まりだ」などとは思わない。
生き延びるためならどこかであきらめて妥協する必要もあるが、日本列島の文化は生き延びる未来を前提にしていないから、死ぬまであきらめない。生き延びたいという自意識を持っていない。だから天国も極楽浄土も思い描かない。死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という。
「未来の死なんかない、死は今ここにある」という。そのようにして初音ミクが「今ここ」の現象としてあらわれる。そのようにして幽霊も「今ここ」にあらわれる。
この生の「今ここ」を「世界の終わり」と思い定めて生きはじめる。「死後の世界」など思い描かないのだから、論理的に「殺す」という発想を持てない。だから、誰も殺さない。
この国の歴史は、「もうみんなで仲良くやってゆくしかない」と思い定めたところからはじまっている。その歴史的な帰結として、死んだら「黄泉の国」に行くという死生観が生まれてきたのだし、「幽霊を見てしまう」という習俗にもなっている。

初音ミクのコミュニティだって、つまるところは「もうみんなで仲良くやってゆくしかない」という日本列島の集団性の伝統の上で生成しているのであり、そんなムーブメントのさなかで、ひたすらもうみんなが「かわいい」とは何かとあらゆる角度から探求しているわけです。だって、みんなが共有しているのは、音楽的芸術的な才能とか趣味というようなことでもそれで商売をするようなことでもなく、誰もが初音ミクを「かわいい」と思っているというそのことにあるからです。
その探求であるかぎりみんなが共有できるし、死ぬまであきらめない。そうやって、徹底的にあらゆる細部までこだわってゆく。
その探求心はそのような日本列島の伝統をどれだけ身体化してそなえているかということとかかわっているのであり、たぶん外国のアーティストもファンもそうかんたんには追いつけないに違いない。音楽や芸術や商売の情熱以前に、どれだけ「かわいい」に対する愛着を抱いているか、という問題なのだから。
もしかしたら「かわいい」に対する感動は外国人のほうがもっと深く豊かであるのかもしれないという部分もなくはないのだが、それでもそれを表現してゆくタッチは、日本列島の伝統を身体化していないと難しい。
もとをただせば、誰もが他者に「献身」してゆく、という文化なのです。
他者に「献身」する存在としての「生贄」になろうとする心意気がなければ「かわいい」の文化は生み出せない。
ヤマンバ・ギャルもコスプレ・ファッションやロリータ・ファッションのギャルも、この世界の「生贄」として登場してきた。女子中高生の超ミニスカートだって、それは一種の自傷行為だといえなくもないのだが、ともあれそうやってこの世界の「生贄」として存在することは、それなりにひりひりするような何ごとにも代えがたい快感があるらしい。なぜならそれこそが「非存在=異次元」の世界に超出してゆく契機になるわけで、人はそこで「初音ミク」という「魂の純潔の女神」と出会う。

「かわいい」の文化は「魂の純潔」を祀り上げてゆく。
日本列島の精神風土において「存在」は「けがれ」であり、「存在」を脱ぎ捨てた純粋に魂だけのかたち、すなわち「魂の純潔」に浸されてゆく状態を「みそぎ」という。
この生は、「身体=存在」を消去してゆくことによって、もっとも活性化する。
おそらく日本列島の舞の文化の歴史は「処女=巫女の舞」を祀り上げたところからはじまっているのであり、その「かわいい」の文化の伝統が初音ミクの、ダンスになっているようななっていないようなそれでいてこの上なく愛らしく魅力的なダンスの振り付けになっている。
欧米人が初音ミクに踊らせると、日本的なアイドル・ダンス的な部分だけを集めて、ダンスともいえないような「かわいいしぐさ」の部分はほとんどそぎ落としてしまう。それはたしかに初音ミクのダンスなのだけれど、なんだか「私かわいいでしょう」という自意識をまとっているような気配が出てしまう。
初音ミクには、かわいいと見せようとするような自意識はない。そこのところが、外国人はまだわかっていないらしい。
外国人が日本料理は美味いといっても、日本人がどれだけ食材の細部や料理の仕方にこだわっているかということは、日本列島にやってきて初めてわかる。マジカル・ミライのスタッフがどれだけ細心の注意を払って初音ミクを動かしているかということを、彼らはまだわかっていない。
「処女=思春期の少女」の踊りのしぐさが美しく愛らしいのは、成熟しはじめて丸みを帯びてきたり初潮がはじまったりしているみずからの鬱陶しい「身体の物性」を消してしまおうとする願いの切実さがこめられていることによる。彼女らは、この世でもっとも深く切実にわが身の「けがれ」を自覚しているものたちだからこそ、その踊りのしぐさに自分という存在を忘れている透明な気配が漂っている。
ダンスのプロフェッショナルの男が初音ミクと同じかそれ以上に上手に踊っても、べつにかわいいわけではない。初音ミク=処女が踊るからこそかわいい。
処女=思春期の少女が踊ればなんともいえずなやましく愛らしいのであり、その気配が見るものに伝わってゆく。原初においては、世界中どこでもそうやって処女の舞が祀り上げられていったのです。

人は身体の物性に煩わされて生きている存在であり、体を動かすことには身体の物性を消去してゆくことのカタルシスがある。
というわけで初音ミクの立体映像は、究極の「物性を消去した身体」であり、究極の処女の舞である。
まあ身体の物性を消去することは、日本列島の「みそぎ」の伝統なのです。西洋は宗教によってその手続きを封じられた歴史を歩んできたわけで、それによって得たものも失ったものもあるし、日本列島だってそれなりに何かを得て何かを失ってきた。
とにかく、日本列島の舞の歴史で最初に称賛されたというか祀り上げられたのは「処女の舞」であり、その伝統から初音ミクが登場してきた。
日本列島の文化の伝統そのものが、身体の物性を消去してゆくことにある。それは、この生のはたらきはこの生を消去してゆくことであるということで、「非存在」を止揚してゆく文化なのです。
そして「非存在」を止揚してゆくことは、「喪失感」を抱きすくめてゆくことであり、日本人であれ外国人であれ、「かわいい」の文化にときめいているものたちは「喪失感」を抱きすくめて生きている。人は、「喪失感」を抱きすくめている存在だから、「ときめく」という体験をする。
むやみに欲しがるべきではないのでしょう。現代人は、みずからの欲望に居直って生きている。それは、金や名誉だけのことではない。幸せや平和が欲しいということだって同じだし、何より「生き延びたい」とか「自分が生きてあることの正当性を確認したい」というその自意識の欲望がときめく心を塞いでしまっている。
今どきの正義の御旗になっている「生命賛歌」が、かならずしも人の心や命のはたらきを豊かにするわけではないのです。現代人は、むしろそのことによって心を病んでゆき、命のはたらきを停滞させてしまっている。

生きものの生の原理は、生を縮小してゆくことによって生が活性化する、という逆説の上に成り立っている。だから生きものは、老いて死んでゆく。
生を拡張してゆくことは生の内実がスカスカになってしまうことでしかない。だから、世界中の支配者=王はつねに滅ぼされてきた。おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわり……などというが、それは日本列島の民衆の実存感覚でもある。源氏と平家の権力争いなど民衆にとってはどうでもいいことのはずなのに、それでも「平家物語」は琵琶法師の弾き語りとともに民衆から長く愛されてきた。民衆の心は、「滅びてゆくもの」すなわち「生を縮小してゆくこと」に深く寄り添ってゆく。そのとき民衆の心は、滅びてゆく平家とともにこの生の外の異次元の世界に超出してゆく。それは、生きものとしての本能のようなものでもある。
バブル経済崩壊後のこの国の若者たちは、時代の喪失感とともにみずからの生を縮小してゆき、そこで初音ミクと出会った。この生を縮小してゆくことは、この生の外の異次元の世界に超出してゆくことであり、この生はそこでこそ活性化してゆく。
滅びてゆくことに対する偏愛はもちろんこの国の伝統だが、それはとても原始的で本能的なことでもある。それこそが人としての健康な感性だともいえる。
「生命賛歌」という文明の病理、日本列島の民衆にはそのことに対するカウンターカルチャーとしての「喪失感=非存在」を止揚してゆく文化の伝統がある。
この生を消去することが、この生を活性化させる。そうやって人は「喪失感」を抱きすくめてゆく。
「喪失感」を抱きすくめている人は、深く豊かな「ときめき」を知っている。
「かわいい」ものにときめいているものたちは、「喪失感」を抱きすくめているものたちだ。
グローバル資本主義等々、文明社会が爛熟しているということは、「喪失感」を抱きすくめているものたちが増えてきているということでもある。
大人たちの平和や繁栄を欲しがることに居直った正義・正論よりも、「喪失感」を抱きすくめているものたちによる他愛なく「かわいい」とときめいてゆく文化のほうがずっと尊い
人類なんか滅びてしまっていいのであり、滅びることを抱きすくめながら人類は進化発展してきた。
人類は、進化発展を欲望したのではない。欲望しなかったことの結果として進化発展してきたのです。生き延びようとする欲望に居直るべきではない。そんなことばかりしていたら、ますます文明社会の制度性に踊らされ、ますます心が停滞し病んでゆく。
喪失感を抱きすくめてゆくことのカタルシスを知らないものは、初音ミクに出会うことはできない。
われわれ民衆は、支配者とは別の民衆だけの文化の伝統を持っている。
支配者(=権力ゲームの勝者)の歴史ばかり語っていても、ほんとうの歴史に推参したことにはならない。
「かわいい」の文化に熱中しているものたちは、支配者に権力ゲームを挑んでゆくことも、支配者をまねて自分たちも権力ゲームの社会をつくろうとすることもしない。
支配者は勝手にこの世界の存続を構想するがいい。それでも「かわいい」の文化に熱中しているものたちは、「滅びる」ことの「喪失感」を共有しながら他愛なくときめき合ってゆく関係を模索し続けてきた民衆社会の伝統に身を浸して生きようとしている。