夢まぼろし・初音ミクの日本文化論(24)

西洋ではいまだに「神は存在するか」というような議論がさかんに繰り返されているらしいが、日本人はそんなことに興味はない。なぜなら、「存在する」ということそれ自体に興味がないからです。存在することの尊厳なんか信じない。
この世界はたんなる「画像=現象」であり、「画像=現象」であることの尊厳というものがある。
そりゃあ、触ればそれが「存在=物質」であることがわかる。しかし「私」という「意識」とはたんなる概念であり、「言葉」にすぎない。「私」という「意識」は「言葉=概念」であり、何ものにも触れていない。身体の外の「非存在=異次元」の空間に漂っているだけです。「非存在=異次元」の空間世界こそ大切です。それがなければ「私」もまたない。「私」が「私」であることの根拠は、身体から離れてあることにあり、身体もまた「非存在」の「輪郭=空間」であるときにこそもっとも活性化している。
体を動かすのが上手な人は身体を「非存在」の「輪郭=空間」として扱っている。下手な人は、身体を「存在=物質」として扱おうとするから動きが鈍くさくなる。「非存在」を生きることこそ「生きる」ことです。
「私」の「孤立性」および「非存在」を自覚することによって、この生は活性化する。そこに立って人は、世界の輝きにときめき、この身体を動かし、この生を活性化させている。
身体は、苦痛においてのみ「存在=物質」と感じられる。われわれは、苦痛を消去しようとする。苦痛が消えたところにこそ生きた心地があり、死んでゆく先がある。人の心は「非存在」に憧れている。意識のはたらきは「非存在」の場で生成している。この生は「非存在」の場で生成している、といってもよい。
この生もこの世界も、すべては「非存在」に向かって動いてゆく。すべては消えてゆく。
日本列島においては、「非存在」こそが尊厳であり真実なのです。
だから「隠れているもの」のことを思う。
日本人は「非存在」に対する親しみがある。
だから、初音ミクが祀り上げられる。
神は存在する、といっている心からは、初音ミクの声や姿に対する親しみは湧いてこない。
しかし神は存在すると信じている人でも初音ミクが好きだとすれば、その人は神の存在を「信じて」はいても「感じて」はいないに違いない。
人が「感じて」ときめくことができるのは「非存在」なのでしょう。それはもう、キリスト教原理主義アメリカ人でも。
人類は「きらきら光るもの」が好きで「貨幣」を生み出したのだし、マネーゲームの人たちはたんなる「数字」でも「貨幣」のように扱って一喜一憂しているのだから、「非存在」が嫌いのはずがない。
宗教は「信じる」ことであって、「感じる」ことでも「知る」ことでもない。だから、宗教によっては知性も感性も育たない。

身体が動くことは、身体が「消える」ことです。
身体が1メートル移動すれば、もとの場所にその身体はない。
生きものが身体を動かすことは、身体を消去しようとすることでしょう。
「存在」ということに執着している宗教者は、神に救われて自分の身体の「存在」に満足してゆくのでしょうか。
しかし人間性の自然は身体を消去することにあるのだから、身体が消えてゆく行為をしようとする。それは、「犠牲=生贄」になろうとする、ということです。それは、自分の身体を相手に捧げる行為であり、そのとき相手の身体ばかり感じて、自分の身体を忘れている。相手の身体がなければ、自分の身体を忘れることはできない。人は、みずからの身体を消去するために他者の身体を必要としている。そうやって世界の輝きにときめいている。そうやって他者を生かそうとする。そうやって人は、介護という行為をする。生きられない赤ん坊を生きさせようとする。生きられない赤ん坊が生きるというその達成のぶんだけ、みずからの身体を忘れていられる。
「献身」という行為は、みずからの身体を消去しようとする衝動の上に成り立っている。
みずからの身体存在に満足することがほんらいの目的である宗教によっては「献身」の衝動は生まれない。その目的のためには、相手の身体を消去した方がよい。そうやって宗教者は、戦争に熱中してゆく。彼らは、献身することが教義になっているからそうしているだけであり、ほんらいそれは人間性の自然としてそうせずにいられないことだから、教義にする必要なんか何もない。殺すことなかれとか、そんなことを教義にしないといけないところに宗教の病理がある。
少なくとも初音ミクのコミュニティにおいては自然発生的に湧き上がってくるときめき合う関係があるわけで、教義にして守るなんて、国家制度の法を守るというのと同じでしかない。
原始宗教が発展して国家制度になったのではない、国家制度から原始宗教が生まれてきた。そうして今や、世界中がそういう観念を持ってしまっている。
たぶん、人間性の自然が競争し合うとか人殺しをするというのではなく、宗教や国家制度が生まれてきたからそのようになってきたのでしょう。話が逆なのです。不自然に集団のヒエラルキーとともに支配=被支配の秩序をつくろうとするから、そうなる。自然な、「無主・無縁」の混沌のままときめき合ってゆけば、そんなことにはならない。
ミツバチの世界だって、自分だけ生き延びようとする個体はどんどん淘汰されてゆき、最終的には「お人好し」の個体ばかりになってああいう生態をつくっている。
原始人だって、みんな「お人好し」だったのです。だからこそ、猿よりも弱い猿だった人類が進化発展しながら生き残ってくることができた。
頭の中を国家制度や宗教に冒された人たちにとっては、戦争をするのが人間性の自然らしい。
物質と身体を持たない初音ミクは殺すための物理的な力を持たないし殺される肉も持たないのだが、原初の人類だってそのような存在になる体験として二本の足で立ち上がっていったのであり、そのとき殺す能力も殺そうとする衝動も失ったのです。二本の足で立ってよろよろ歩き回っている猿にそんなことができるはずがない。そういう「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であることこそ、人間性の自然なのです。だから他愛ないときめきとともに圧倒的な繁殖力を獲得していったのであり、「もう死んでもいい」という勢いで、生きられない弱いものを自分の命に代えてでも生かそうとするようにもなったのです。
初音ミクを祀り上げることは、そういう人間性の自然=原始性を取り戻すことにもなっている。
「処女=思春期の少女」ほど赤ん坊をかわいがる存在もないし、赤ん坊も彼女たちにはけっして人見知りしない。そういう意味で「かわいい」の文化は、この世界の「育児鬱」を解消するムーブメントにもなりうる。

人間性の自然において人は人を殺す存在だから「人を殺すな」というのは「自然法」である……とキリスト教社会では考えられているらしい。
それに対して日本列島の古代においては、「殺す」ことは神の世界だけで起こるいわば神聖な行為だと考えていた。
そのわけは、こうです。
人は「もう死んでもいい」という勢いで生きている存在だからもともと「殺されてもかまわない」のだが、それでも殺すことができないどころか、つい相手を生かそうとしてしまい、けっきょくこの「憂き世」をいじましく生きてしまっている。それに対して神の世界では、殺すことに躊躇をしないし、悪いとも思っていない。死ぬこと消えてゆくことこそが神聖な世界だからです。
神の世界では、その動機の不純が責められることはあっても、殺すこと自体は許されている。「けがれ」は動機の不純であって、殺すことじゃない。
現在の文明世界だって、罪の軽重の多くは「動機」によって決定されているし、正義の戦争においては大量殺戮だって許される。
古代の日本人の「自然法」においては、殺すことは罪ではなかった。人は「もう死んでもいい」という勢いで消えてゆこうとしている存在だから、その罪は問うことができない。ただ「動機の不純」だけが「けがれ」として責められた。
「消えてゆく」ことは、神聖なことなのです。
貧しい農民が生まれた子供を間引きすることに罪はあるでしょうか。人間性の自然において人は「死んでもかまわない」存在だから、人殺しの罪は問えない。それが、古代の民衆社会の「自然法」だったのです。だってそれが人類史700万年の伝統だったのだもの、彼らはそういう伝統=自然を生きていただけです。
堕胎は、現在の未開の人種だってしているし、おそらく原始人だってしていた。それも人間性であり、善悪はともかく、罪を問うことはできない。
ただ、古代の民衆社会と違って権力社会では動機不純の殺し合いがさんざん行われていた。だから聖徳太子は「和を以て貴しとなす」といわねばならなかった。そして中世になってそういう競争原理・闘争原理の文明制度が民衆の中にも下りてくれば、「生き延びるため」という不純な動機による人殺しが民衆社会でも起きてくるし、もともと「殺すなかれ」という宗教の「法」を持っていない民衆は、それが許されるか許されないかときわめてナイーブに迷わねばならなかった。それは、生き延びようとすることは善か悪かという問いでもあった。それまでの「いつ死んでもかまわない」というのが「自然法」であった民衆には、生き延びようとする動機はなかった。
日本人は、中世になるまで「殺すなかれ」という問題など持っていなかったのです。親鸞などによってようやく民衆社会に仏教が広められ、やっと本格的に議論されるようになってきたのだが、それは、もともとそんな戒律などなくても殺すことなどしなかった、ということを意味しています。
まあ皮肉なことに、すでにすっかり宗教に染まっていた武士や貴族たちはさんざんそんなことをしていたわけだが、権力社会の文化と民衆社会の文化が大きく乖離しているのが日本列島の伝統で、権力社会の中の女や下級貴族を中心とした文化的なコミュニティにおいても、ひたすら花鳥風月に耽溺しつつ権力社会の中枢とは別の世界観を持っていた。

たとえば平安時代の「あはれ・はかなし」の世界観=美意識においては、つねに「非存在=異次元」の世界が意識されて、心はすでに死の気配に浸されていた。彼らにとってこの生は「けがれ」であり、そういう自覚なしに花鳥風月という夢まぼろしに耽溺してゆくことなんかできるはずがありません。

心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮(西行

「鴫立沢」とは、「鴫が飛び立ってゆく河原」というようなニュアンスの造語。これは、「そして誰もいなくなった」という、ひとつの「世界の終わり」の歌です。ここから生まれてくるのは「人恋しさ」であって、「生き延びるために人を殺す」という発想など生まれてくるはずもない。西行はもともと、人を殺すことばかりしている武士の世界がいやになって出家して漂泊の旅に出た人です。
「あはれ・はかなし」の世界観や生命観を持ってしまえば人を殺すことはしないが、人を殺すことを許している。
日本列島の伝統においては人を殺すことが許されている社会だから、人を殺すことがあまり起きない。たくさん起きるのなら、許さない「法=規範」が必要になる。そして因果なことだが、「あはれ・はかなし」の社会では自殺することも許されている。
出家・隠遁・隠居・漂泊はひとつの自殺であり、この生の「けがれ」と「あはれ・はかなし」を自覚している日本列島の伝統でしょう。それはひとつの消失願望であり、日本人がみな心の奥でそれを共有しながら歴史を歩んできたわけです。それは、「自我の消失」です。だから「日本人は自我が薄い」とか「13歳から成長できない」などといわれねばならない。しかし、ただ幼稚で浅はかというのとはちょっと違う。宗教に冒されて自我の充足ばかり追いかけている人たちにはけっしてできない「自我の消失=喪失感を抱きすくめてゆく」という知的感性的な手続きができるということであり、それはまあそれなりに高度な世界観であり生命観であり美意識なのです。そこにおいては、べつにマッカーサーに負けているわけではない。ただそれはあくまで文化的な知性感性であり、政治的な駆け引きの世界でナイーブになってしまうのは仕方ないことです。
自我が消えても、心が消えるわけではない。そこでこそ心が活性化し飛躍してゆく。
今どきの若者たちだって「非存在=異次元」の世界に消えていったその先で「初音ミク」という「非存在の女神」と出会ったのです。そしてその女神に気づく(発見する)ことは、世界中で彼らにしかできなかったし、世界中が今「ああなるほど」とうなずいている。

「非存在の女神」である初音ミクは、生きものじみた肉や骨や内臓を持った存在であってはならない。人のようで、人ではない。人ではないようで、人である。その微妙な「裂け目」から現れ出て消えてゆく。
まず電子音であるその声は、音と声の「裂け目」から聞こえてくるものでなければならない。
電子音といっても、今やほんものの楽器とほとんど同じ音が出せる。
では人の声と同じ音をつくり出すことができればそれでいいかといえば、同じならほんものの人のほうがいいに決まっている。音と声のその「裂け目」で遊ぶことができないといけない。それが「女神の声」になる。そこのところで発音がシンプルな日本語はアドバンテージがあるのかもしれないが、「これが女神の声だ」と察知する知性と感性は、かんたんなようでかんたんではない。それなりに「女神」と「非存在の世界」に憧れてきた歴史の無意識を持っていなければならない。そのピンポイントは、机上の計算で出せるわけではないのでしょう。たぶん、ものすごく日本的な勘で微調整されているのでしょう。センスの問題、というか。
人の心を揺さぶる女神の「声=音」に対する関係者の探求があり、そして人々の揺さぶられる心があった。そういう歴史風土を持っている場所でなければ、その試行錯誤は進化してゆかない。
そうして初音ミクの顔や体型のモデリングや衣装や髪型に関しても、リアルに近づけながらリアルにはならないぎりぎりの按配が見事に調整されている。
初音ミクは異次元の世界から現れてくるあくまで「非存在」の映像なのだから、ほどよくマンガチックな嘘っぽさを持っていたほうがよい。しかし、その表情だってきちんと微細な感情のあやがあらわれているし、とにかく思春期の少女が醸し出す表情やしぐさの愛らしさに対する作者の観察のきめ細かさと愛情は並大抵ではない。
非存在の女神である初音ミクは、その身体の中には心を持っていない。それは「自分」という意識がない、ということを意味する。心はもう、まるごと世界に向かって開け放たれている。だから、あんなにも目が大きい。
「魂の純潔」とは、心がまるごと世界に向かって開け放たれていること。