感想・2018年8月16日

<隠れているもの>
初音ミクとAKB48のアイドル性の違いというのは大いにある。
AKBは、「総選挙」という恒例のイベントがあるくらいで、ファンどうしもメンバーどうしもそれぞれ競争している。それは、「新自由主義」とか「グローバリズム」というような競争原理の上に成り立った現在の世界の構造にうまくフィットしている。
それに対して初音ミクのファンどうしもボーカロイドのグループにおいても、連携はしても、競争なんかしていない。
初音ミクの曲のほとんどは、(たとえ「別れ」がテーマであっても)人と人が他愛なくときめき合う世界を夢見ているのであり、そんな世の中になったら「競争原理」なんか成り立たない。そのようにして、初音ミクの存在そのものに象徴されるように、現在の世界の構造から逸脱・超越している。だからAKBのような世の中の動きのメインストリームにはなりえないし、しかしだからこそ、民衆社会の伝統としての普遍的なカウンターカルチャーになりえる可能性も秘めている。
AKB人気の仕掛人たちはきっと「時流に乗る」ことが第一義でプロデュースしているのだろうし、初音ミクのコンサートを運営するものたちは、時代を超えようとしている。「異次元の世界の女神」という初音ミクのキャラクター上、どうしてもそういう方向でプロデュースしてゆくことになる。
AKBの曲は、有能な作詞家と作曲家があくまで商業ベースに乗せることを意識してつくっている。
一方初音ミクの曲は、不特定多数の人たちが自由気ままにつくっているから、何が出てくるかわからないし、そうした商業ベースの受け狙いというくくりは当てはまらない。むしろ商業ベースにおさまりきれない実験的なことが試みられている。べつにヒットしなくてもかまわないのだ。けっきょく誰もが「つくらずにいられない」ものをつくっているのであり、それらに対してネットユーザーが関心を寄せていった「結果」として「受けた」とか「時代にフィットしていた」ということがあらわれてくる。そこでは、誰も「時代をつくる」ということはしていない。時代を超えようとしているのであり、しかしその結果として「隠れていた時代の側面があらわれてくる」ということが起きている。
つまりAKBの曲が表現しているのは「すでに存在している時代」であり、初音ミクの曲では「新しくあらわれてきた時代」が歌われている。
AKBの曲では時代が「分析」されているが、初音ミクの曲は(新しい)時代を「感じて」いる。
「新しい時代」も「かわいい」も、「感じる」ものであって、「分析」すればわかるというものではない。
「分析」している人たちは、「感じて」いる人の手を借りなければそれらを表現することはできない。
分析するだけで表現できるのなら、「かわいい」の文化はとっくに外国から追いつかれているはずだ。
外国には、「かわいい」と感じることができるスタッフがあまりいないし、日本列島では誰もがそれを感じることができる。少なくとも思春期の少年少女は誰もが感じている。
「新しい時代」も「かわいい」も「隠れている」のであり、それは「感じる」ことによってしか体験することができない。「隠れているもの」に対する愛着は日本列島の伝統であり、「隠れているものに対する愛着」こそが「進取の気性」の実質にほかならない。
 それは、「異次元の世界」に隠れている。
そんな「隠れているもの」に愛着があるということはつまり、生きてある現実を嘆いているということであり、そのことにおいて「処女=思春期の少女」こそもっとも切実であり、日本文化の伝統は、「処女=思春期の少女」の浮世離れした「異次元性」にリードされながら洗練発達してきた。


日本列島の伝統としての「神道」の基本的なコンセプトは、神は「隠れている」、ということにある。そしてそれは、山や海や森や石や、さらには「鰯の頭」にも「隠れている」のであり、そうやって「八百万(やおよろず)の神」という。したがって神の存在を示すことは永遠に不可能であり、日本列島の神は人を罰することもしなければ救うこともしない。まあ、そういうかたちで、「神は存在しない」あるいは「存在するかどうかなんかわからない」といっているのかもしれない。
 日本列島の神は、ただもう人間を祝福しているだけであり、人間のほうもまた、ひたすら神を祝福してゆくだけで、神に罰せられる心配なんかしていないし、神に何かをしてもらおうとも思っていない。これが、古代および古代以前の神との関係だった。
 五穀豊穣や厄病退散などの祈願の儀式とか今どきの神社のおみくじというのは、その後の「神仏習合」によって仏教に影響されながら生まれてきたものにすぎない。
 彼らは、人と人の関係の理想および本質を、神との関係に仮託していった。そしてそれは、現代の初音ミクとファンとの関係でもある。
 初音ミクは、AKBのような「サイン会」も「握手会」もしてくれないし、恋人にできるチャンスも永遠にない。そういう不可能性の関係の中で、ひたすら祝福し合う、これが、人類の人と人の関係の理想であり本質なのだ。
 初音ミクほど純粋に深くファンを祝福しているアイドルもほかにいない。初音ミクは、すべてを許している。そんなことは人間にできる芸当ではないし、人間の理想でもある。
 初音ミクは、「異次元の世界」に隠れている、そして現れる。それはまあ、火や光や風のような現象と同じであり、人が生まれて死んでゆくことだってまったくそうで、この世界の森羅万象のすべて、すなわち宇宙そのものがそのようにして成り立っているのかもしれない。