感想・2018年8月17日

<新しい時代>
 バブル崩壊後の「失われた二十年」は、「民衆文化=ポップカルチャー」にとっては、けっして不幸な時代だったともいえない。現在の「ジャパンクール」と呼ばれる文化現象のほとんどは、この時代に花開いていった。
 それは、敗戦直後の困窮を極めた時代であったにもかかわらずまるで解き放たれたかのようにたちまち映画や歌謡曲をはじめとする娯楽文化がさかんになっていったのと同じで、日本列島の民衆は娯楽文化によって新しい時代を切り拓いてゆく。それに対して全共闘の政治運動は、何も時代を変えることなく、けっきょく時代に呑み込まれていっただけだった。そのとき彼らがどれほど新しい時代の展望を説いても、民衆はそこに参加してゆこうとしなかった。
 つまり民衆は、新しい時代を生きるエネルギーを蓄えてゆくだけで、新しい時代の展望などに興味はない。それが、政治にも宗教にも疎いものたちの生きる流儀なのだ。
 政治や宗教は、新しい時代を展望する。死んだら天国に行けますよ、というのもそういうことだ。
宗教心の薄い日本列島には「神の導き」というのがないから、「新しい時代」を展望するという伝統がない。まあ、そういう「神の後押し」なしには、誰も展望や予言などできはしない。日本列島において新しい時代は、時代に対する幻滅と喪失感、さらには生きてあるというそのことに対する幻滅と喪失感、そういう「かなしみ」の向こうの「異次元の世界」に「隠れている」わけで、われわれは新しい時代をつくるのではなく、新しい時代と出会うのだ。それはまあ権力社会と民衆社会の時代感覚の違いでもあるのだが、現在のような民主主義の時代においてはその違いがあいまいになっており、その民主主義を止揚する市民意識によって未来が展望されたり予言されたりして、かえって民衆社会ほんらいの「切実に今ここを生きる」という時代感覚を見失ってしまうことにもなっている。