感想・2018年8月20日

<芸能の起源>
AKBというのは、どうしてこんなに人気があるのだろう。
僕は、AKBそのものよりも、ファンの心理のほうに興味がある。
最近はAKB系列の「欅坂46」というグループにも人気が集まっているらしいが、こちらは、たんなるかわいいだけのアイドルポップではなく、時代の外に立っているようなかなりシビアな内容の歌詞だったりするのだとか。
しかし、こういう傾向のポップソングは、初音ミクをはじめとするボーカロイドの音楽のシーンで開発されたものだろう。そこではどんどん実験的な曲作りがなされており、そういう内容の歌詞でも若者たちに支持されるということがわかってきた。
『千本桜』などは、まさにそうかもしれない。あと、『忘却心中』とか『脱法ロック』とか。
ただ時代の後追いばかりをするのではなく、「時代の外に立つ」ということも、普遍的な若者の属性のひとつにちがいない。
ともあれ、少女たちが歌い踊るというコンセプトに対する人気は、まだまだ健在なのだろうか。


人類の歌や踊りは、「自己表現」や「身体表現」として生まれてきたのではない。なぜなら、自己や身体は「苦痛」においてもっとも強く確かに意識されるのであり、それらを忘れているときこそもっとも心地よい状態なのだから、原始的根源的な状態においてそれらを表現しようとする衝動が生まれてくることはありえない。
意識が自己や身体に貼りついているのは鬱陶しいことであり、そこで身もだえしつつ、その意識を自己や身体から引きはがそうとして、自然に声が出て身体が動いてくる。それが歌や踊りの起源で、そこから意識は、自己や身体の外の世界に憑依してゆく。
人類の歌や踊りは、自己や身体の追求としてではなく、自己や身体からの解放として生まれてきた。
自己意識の傷、身体の受難、そのようなものが歌や踊りが生まれる契機になっている。だから、歌や踊りは自己表現や身体表現のようで、じつはそうではない。自己や身体に対するこだわりからの解放として無心になってゆく行為、すなわち自己も身体も「からっぽ」になってゆく表現なのだ。そうやって歌の自己は「言葉」に憑依し、踊りの身体は肉や骨を持たないからっぽの「輪郭=画像」として扱い表現されている。
人類の歴史は、受難の体験を繰り返しながら進化発展してきた。受難の体験が、イノベーションを生む。新しい時代は、受難の体験を抱きすくめるものたちによって切り拓かれる。つまり、人は「世界の終わりの喪失感」から生きはじめるということ。そういう感慨というか生きる作法を共有しているところで、非政治的非国家的なもうひとつの「コミュニティ」が生成しているのであり、日本列島には民衆によってそういう国家制度に対するカウンターカルチャーとしてのコミュニティが自主的につくられてきた歴史の伝統がある。
そしてそれは、芸能文化の伝統であり、そこから初音ミクが生まれてきた。
 人類の祭りや歌や踊りは、つまるところ「魂の純潔」に向かういとなみであり、「魂の純潔」とは心も身体も「からっぽ」であるということだ。
「けがれ」とは、心が自己や身体に貼りついている状態であり、心や身体が「からっぽ」になることを「みそぎ」という。そういう伝統ともに「きれい」という言葉が機能してきた。
「きれい」は、「切る」から派生した言葉で、現実世界の「けがれ」から切り離された「異次元の世界」に「超出」した状態をあらわしている。服を「着る」ことだって、裸の「肉体」から切り離された「からっぽ」の「輪郭」としての身体になることだ。
 人類の歴史は、つまるところ鬱陶しいこの生から解き放たれ(=切り離され)て「からっぽ」になることに向かう歴史だったのかもしれない。