ロリータの受難と神性・初音ミクの日本文化論(16)

初音ミクきゃりーぱみゅぱみゅはだいたい 同じころのデビューで、もちろんきゃりーのほうが先行して世界的な人気を獲得していったわけだが、その魅力はともに存在感の薄さというか人間臭くないところにあったのでしょう。その他界性……。
あからさまな人間性=自我の表出に対する疑問や拒否反応が世界的に生まれてきている時代であるのかもしれない。21世紀に入って欧米先進国の独走状態に陰りが見えてきたとはいえ、それに代わってやる気満々の中国・インドをはじめとする東アジア後進諸国が台頭してきて、世界は今だに近代合理主義の論理で動いており、彼女らはそういう状況に対する幻滅を背にした「ポストモダン」のカウンターカルチャーの旗手として登場してきた、ともいえる。
きゃりーの魅力を最初に発見した外国人は、ヨーロッパ人だった。とくに、なぜか美意識に関してはプライドの高いフランス人が熱狂した。そしてきゃりーに後れたとはいえ初音ミクも、パリのオペラ座でコンサートをしてスタンディングオベーションを受けている。なんといっても、ジャンヌ・ダルクの伝統の国です。
現在のカウンターカルチャーは、「自我」とか「人間くささ」とか「生命賛歌」とか「生活者の思想」とかいう価値観のスローガンにうんざりしている。
「かわいい」の文化は「浮世離れ」した他愛なさの文化であり、日本列島の「無常」の伝統を水源にしている。
ただ、きゃりーぱみゅぱみゅはあくまで人間であり、歳を取るし、いつまで「浮世離れ・人間離れ」した「他界性=魂の純潔」を維持してゆけるのか。
それに対して初音ミクは、10年たってもいまだに最初の姿と声のロリータであり続けているし、とうぜん永遠にロリータであり続ける。

折口信夫は「翁の発生」という論文で、「能において翁が名人だけが演じるもっとも権威ある役柄になっているのは、老人の経験豊富な知恵が尊重尊敬されていたからだ」というようなことをいっているのだが、そういうことじゃないのですよね。何を俗っぽいことを、と思う。
老いては子に従え、というが、昔も今も老人はただいたわられているだけの存在であり、その使い古した知恵が新しい事態に対処するのに大きな障害になったりする。ただ、死とは何かと考え続けている人間存在にとって死を目の前にしているというその存在の仕方そのものに対しては敬意を払うしかないし、神にもっとも近い存在だとも思っていた。そうやって人類は原初以来老人や障害者や生まれたばかりの赤ん坊等の生と死のはざまに立った存在を祀り上げ介護してきた、ということです。
その「死のそばにいる」ということに「魂の純潔=神性」を見ていた、ということです。「老人の知恵」よりも、その「存在の仕方」そのものを神にもっとも近いかたちとして畏怖し尊重していた、ということです。
日本列島の伝統においては、いつの時代も「老人の知恵」よりも若者の「進取の気性」のほうが大事だったのであり、それによってこの閉塞的な環境であるほかない島国の文化や人と人の関係を刷新・活性化させてきたのです。
「老師」などというのはイスラムユダヤや中国の文化であって、日本列島のものではない。
日本列島の伝統文化において尊重されてきたのは、「賢い知恵」ではなくつねに「魂の純潔」だったのであり、それを神性として祀り上げて歴史を歩んできたのです。老人の心や知恵ではなく、その「存在の仕方」こそが「魂の純潔のかたち」であったのであり、「魂の純潔」そのものは誰も持つことができない。神しか持つことはできない。

「かわいい」の文化は、「魂の純潔」をあらわしているのではない、「魂の純潔に対する遠い憧れ」をあらわしている。
「処女=思春期の少女」こそ、この世でもっとも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いているものたちです。そのようにして彼女らは、この世界の輝きに他愛なくときめいてゆく。箸が転んでもおかしい年頃です。
きゃりいぱみゅぱみゅのステージ衣装でもわかるように、「かわいい」のファッションはごてごてしているように見えるが、これ以上でも以下でもいけないという按配がある。そこを見極めるのはけっこう高度な美意識で、外国人はうまくまねできないし、この国ではそのへんのバカギャルでもわかる。
それは、一瞬で見極めないといけない。
まあ、「即興(アドリブ)」のようなものらしいのだが、変にあれこれ考えすぎると間違う。他愛ないときめきの、その「他愛なさ」こそが決め手になる。心を無にして素直に物事と向き合う……まあそのようなことで、これが日本列島の伝統の生きる作法でもある。
おバカなギャルの「他愛なさ」を甘く見てもらっては困る。一見無造作にかき集めたり積み上げたりしているようで、けっしてオーバーランしない。死と生のはざまに立って生きる……と言い換えてもよい。女の「思春期」という年ごろには、そういう能力がそなわっているらしい。そしてそれは、ある種の清純さでもある。

縄文文化のほとんどは、女が担っていた。土器や衣装や装身具をつくることだけでなく、その世界観や生命観まで女がリードしていた。
誰かが「原初、女は太陽であった」といったが、それはまあそうだったのです。
そしてそんな女たちとは成人した女のことかというとそうではなく、おそらく思春期の少女たちだった。だって、彼女らこそもっともアイデア豊富な存在だったのだもの。
たとえば縄文人は、子供の遊び道具のこまごまとしたものをおもに土器でたくさん作っています。おはじきのようなものとかさまざまなミニチュアとか、そういうアイデアは、思春期の少女から生まれてくる。
思春期の少女ほど小さな子をかわいがる存在もいない。それは、自分がもう無邪気な小さな子ではいられないという、「魂の純潔」に対する「喪失感」が切実だからです。人は「世界の終わり」の「喪失感=かなしみ」を抱きすくめて生きてゆく存在なのに、成長をはじめた体は、おっぱいがふくらんでくるとか生理が起きてくるとか、よけいなものがどんどんまとわりついてくる。彼女らは、「喪失感では生きられないという喪失感」で生きている。そのようにして小さな子をかわいがるし、小さな子も本能的にそれを感じて、ときには母親以上になついてゆく。まあ、母親の母性愛以上に深く豊かな母性愛の持ち主なのです。
女も母親になってしまえば、子供育てるための現実的な政治経済とか、男とセックスすることとか、ただ子供がかわいいだけではいられなくなる。また、いろんな面ですでに「喪失感」の人生にさしかかっており、現代にはそれに苛立つ女もいるが、人間性の自然においては、それこそが女心の安定・充足にもなっているわけですよ。

そりゃあ「かわいい」のメンタリティやセンスは、思春期の少女がもっとも深く豊かにそなえている。
たとえば、あの「遮光器土偶」の奔放で精緻な装飾模様を生み出す能力は思春期の少女には誰もかなわないわけで、彼女らの作品である可能性が極めて高い。今どきのコギャルがかばんにじゃらじゃらとたくさんのマスコットをぶら下げているのと同じセンスでしょう。
縄文土偶は、必ず壊して土に埋めていたといわれているのだが、女によるみずからの身体の「けがれ」を鎮め葬ろうとする願いが込められたものです。だからそれは、必ず壊して埋めた。一部では「妊婦」をかたどったもので安産祈願のためのものだったというような愚にもつかない解釈がなされているが、乳房や腹が大きく膨らんだ土偶なんか、ほとんどありません。むしろ、膨らみはじめた乳房をかたどっているようないじらしさを感じさせるもののほうがずっと多い。
つまり、思春期の少女がそれをつくりはじめた可能性のほうがずっと高いのです。みずからの身体の「けがれ」に対する嘆きは、彼女らこそもっとも深く切実なのだから。
縄文人が原始宗教の呪術で生きていただなんて、ほんとに愚劣で幼稚な思考であり、日本人の宗教心の薄さの伝統にきちんと思いを致すなら、そんな安直な問題設定ですまされるはずがない。
そして縄文土器の代表としての「火焔土器」だって、あの絢爛豪華な装飾性は、思春期の少女の感性を借りずして生まれてくることはありえません。その華麗な装飾模様のひとつひとつにどんな呪術的な意図があったかとか、そんな問題ではなく、ただもう、そうせずにいられない自由奔放な気持ちの高揚があっただけでしょう。
縄文人はほんとうに土器作りが好きで、楽器やおもちゃなど、生活用品以外の「遊び」のものをたくさん作っている。
すなわち、縄文時代の生活の主調音は、生き延びるためのいとなみとしての政治経済でも宗教でもなく、むしろ「もう死んでもいい」という勢いの遊びとしての純粋な文化活動にあったのであり、そこから生まれてくる世界観や生命観は女がリードしていたし、女の中でも思春期の少女の感性、すなわちその「喪失感=かなしみ」こそが中心だった。
「かわいい」の文化の伝統は、縄文時代からすでにはじまっている。すなわち縄文人を生かしていたのは、政治経済の思考でも宗教心でもなく、「魂の純潔に対する遠い憧れ」だった、ということです。

ヤマンバ・ギャルは現代の縄文土偶だったにであり、ひとつの「けがれ」の象徴(依り代)として破棄されるのが宿命だった。しかしその「終わり」から、現在の「かわいい」の文化へと花開いてきた。彼女らは、この世の誰よりも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いているものたちだった。
現在の「かわいい」の文化は、ヤマンバ・ギャルのかなしみの上に花開いている。
ヤマンバ・ギャルは、その「異形」の姿とともにこの生の外の異次元の世界に超出していった。そうしてわれわれは、その異次元の世界で「初音ミク」と出会った。
その、人の声帯が介在しない電子音の声と、肉や骨を持たない非存在の身体であるバーチャル映像は、この生の「けがれ」をそそいだ「みそぎ=魂の純潔」の象徴(依り代)としてわれわれの前に現れてきた。
「魂の純潔」は、この世界の外の「非存在=異次元」の世界にある。われわれは永遠にそれを手に入れることができないと同時に、永遠に憧れ続けてゆく。
まあ「魂の純潔」とは「人類の理想」のようなものかもしれない。
われわれは戦争のない世界を永遠に実現することができないかもしれないが、永遠にそれを夢見続ける。そしてこの場合の「戦争」という言葉を「宗教」という言葉に置き換えてもいい。宗教の神(ゴッド)はこの世界を裁き支配しているが、「魂の純潔」の象徴(依り代)である初音ミクは、この世界のすべてを許し、けっして支配しない。
「魂の純潔」とはこの世界のすべてを許している精神のことであり、鬱陶しい「神(ゴッド)の裁き」とは正反対のものです。僕は、神の裁きなど信じない、この世界のすべてを許している初音ミクを信じる。そしてそれはきっと、現在の文明人が共有している無意識にちがいないのです。
支配者のいない「無主・無縁」の祭りの混沌こそこの社会の理想であり、だから人はスタジアムに集まって来てコンサートやスポーツに熱狂している。そこは、「魂の純潔」に覆われた世界です。誰もが「魂の純潔」を持っているというのではない、みんなして「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有している、ということです。だから、誰もが他愛なくときめき合い助け合っている。
マルクス主義者は「人は実現可能なものだけを想像する」などというが、それは文明社会のたんなるスローガンであり病理にすぎないのであり、永遠に実現不可能なものを夢見ることことにこそ人間性の自然・本質があるのではないでしょうか。そうやって人は初音ミクのコンサートに集まって来て涙している。
ドリームス・カム・トルーじゃない、かなわないものこそ「夢」であり、それでもそれを「夢見る」ところにこそ人間性の自然・本質がはたらいている。人類はそうやって二本の足で立ち上がった原初以来「青い空」を見上げてきたのであり、今、初音ミクの声とバーチャル映像を祀り上げているのではないでしょうか。