女神の嘘と純潔・初音ミクの日本文化論(1)

いや、テーマを変更しようというのではありません。
このへんで「初音ミク」を中心にした「かわいい」の文化についてのおさらいをしておこうと思っただけです。
「かわいい」の文化の主役はやっぱりおバカなギャルたちで、できるだけその視線に寄り添いながら、この世のオピニオンリーダーであるインテリたちに対抗できるような論理を紡いでみたい。これはもう、このブログをはじめたときからのテーマです。
政治の世界では「野党はなんでもかんでも反対で能がない」などとよくいわれが、反対して何が悪いのか。僕が考えている歴史学文化人類学の分野では、世界一流といわれている学者たちだって、じつに安直に低俗な既成概念にもたれかかって凡庸な説明を繰り返すばかりで、いやになります。「そんなことあるものか」と思うことがたくさんある。そういう低俗で凡庸な既成概念は、全部ひっくり返してしまいたい。
他愛なく「かわいい」とときめいているおバカなギャルに寄り添いながら、「知の冒険」がしたい、ということでしょうか。

ボーカロイド」というのだとか。
初音ミクが最初に登場したのは10年前の2007年のことだった。そのときはシンセサイザーによるたんなる合成音源の商品名だったらしいのだが、その異次元的な少女の声に多くの若者たちが「かわいい」とときめいた。
それは「永遠の処女の声」だった。けっして薄汚れた大人にはならない永遠の処女、そんな女がこの世にいるはずもないが、いるはずもないからこそ、それは「奇跡」の声だった。
ただの嘘っぽい声じゃないか、というのはかんたんだが、若者たちはその嘘っぽさを抱きすくめていった。
で、多くの人がこの声を使っていろんな歌を歌わせてネットに投稿していった。
どんなに平和で豊かな社会であっても、生きてあることは誰にとってもそれなりにいたたまれないことです。誰だって死に向かって一直線に歩んでいるのだし、生きてあるというだけでなんだか落ち着かない気持ちが募ってくる。ただ生きているだけではすまなくて、燃えるような恋もしたいし、世界がまるごと自分のものになるような成功を手に入れたいとも思えてくる。
しかし、そんなことが叶うはずもない。いや、たとえ叶ったとしても、それで満足できるとはかぎらない。幸せが欲しいと願うことは、どんな達成も幸せにはなりえないことを意味する。それは願いが叶うことであるのだから、叶った瞬間からそれはもう願いではなくなってしまう。願いが叶う瞬間は、永遠にやってこない。それは、いたたまれないことではないのか。欲しいものが手に入った瞬間から欲しいものではなくなってしまう、という体験は誰だって日常的に体験している。腹いっぱいになったら誰だってもう食いたいとは思ないだろう。すでに「生きている」のなら、「生きていたい」とは思わない。
「生きていたい」となんか思わないのが人間です。だから人間は、生と死のはざまに立って「生きていたい」と思おうとする。死にそうになって、はじめて「生きていたい」と思う。だから人間は、死にそうになりたい、と思う。
人間は、水の中では生きられない生き物です。だからこそ海水浴をして、そこで「生きていたい」という願いと戯れることによろこびを覚える。冒険家が冬のエベレストに登ることだって、「生きられなさ」に身を置こうとする行為でしょう。
人はもう、避けがたく「生きられなさ」に身を置いてしまう。その「いたたまれなさ」を生きようとする。
「生きていない」状態こそ、この生の理想なのです。そこに立ってはじめて「生きていたい」と願い、この生が活性化してゆく。人は「生きていない=生きられない」ところから生きはじめ、その状態を生き続ける。この生は、なんといたたまれないものであることか。
初音ミクは「生きていない」世界の住人です。そのとき若者たちはその声を、「生きていない」異次元の世界から聞こえてくる声としてとらえ、ときめいていった。
初音ミク」という女神……それは、肉体のけがれから超出した「永遠の処女」であり、<「この生=魂」の純潔>の象徴でもある。
「魂の純潔」とは、「生きられない異次元の世界に立っている」ことをいう。「初音ミク」という「永遠の処女=女神」は、そういう世界に立っている。
それはたんなるシンセサイザーによる合成音であるが、それを聞いた若者たちは、そこに「魂の純潔」を見出していった。

で、その音声を使った音楽がさまざまなバリエーションを生みながらネット社会に拡散してゆき、さらにはアニメのキャラクターもデザインされたり初音ミクのためのオリジナル曲されたり、そうして最後には大きなスタジアムでその立体映像による単独ライブが催されるまで盛り上がっていった。そしてそのムーブメントは、もとの会社が商標権にこだわらなかったために、日本人の、プロやアマも企業や個人も問わず「かわいいの文化」の愛好者全体によってつくり上げられていったものだった。
それはまさに「大衆運動」というようなものだったわけだが、政治運動ではなかったところが日本的だともいえるのかもしれない。
日本人は「政治」よりも「祭り」のほうが大事であり、それくらいの能天気さというか愚かさを持っていないと「初音ミク」は生み出せない、ということです。
そういう能天気な愚かさを持っているから、文化や芸能を大事にする伝統が引き継がれてきた。
日本列島の伝統においては、政治経済や宗教による「平和と繁栄」よりも、「世界の終わりに立っている魂の純潔」のほうが大事なのです。まあそれを、ユダヤ教キリスト教イスラム教や仏教の「神=仏」に対する神道の「アマテラス=女神=永遠の処女」と言い換えてもよい。
たとえば、法隆寺薬師寺を建てた宮大工は、1000年後まで残ることを前提にしてものすごく丁寧な仕事をしている。これは、能天気といえば能天気なのです。大陸のように、つねに異民族と侵略したりされたりすることを繰り返す歴史を歩んでくれば、そんな先のことを考えた仕事などしていられるはずがありません。
日本列島の職人技術の伝統は、そういう能天気さの上に成り立っている。
また日本人が政治に疎いのは、四方を荒海に囲まれて他国から侵略されたことがない歴史を歩んできたからでしょう。
初音ミク」というただのアニメチックなキャラを、みんなして幕張メッセを満員にしてしまうほどのアイドルに育ててゆくなんて、おバカな日本人にしかできない芸当です。
なんだか正月の天皇参賀みたいだ。
こんなことをいっても信じてもらえないだろうが、これはたぶん、古代以前の奈良盆地の民衆が祭りの主役である「巫女」という舞の名手の少女を長い歴史の時間をかけて「天皇」という存在にまで育てていった伝統なのです。
そのとき天皇は、もともとほとんど人が住んでいない湿地帯だった弥生時代奈良盆地の集落が都市といえるほどの規模の集落に膨らんでゆくときの「よりどころ」として機能していた。いや、このことは、後でもう一度書くことにします。
とにかく「初音ミク」を祀り上げてゆくことは、べつに政治運動ではないが、それはそれで集団がときめき合って存在するためのよりどころになっているからこそ、そこまでの規模の盛り上がりになっていったのでしょう。
そしてそんな規模の「初音ミク」のコンサートは中国や欧米まで飛び火しているし、日本でのコンサートだって、今や観客の半分は外国人だといわれている。そうやって、「初音ミク」の共同体(コミュニティ)が世界中で出来上がっている。
数年前に盛り上がった「アラブの春」の政治運動が結果的にどれだけの成果をもたらしたかといえば、はなはだ疑問です。
初音ミク」すなわち「かわいいの文化」のムーブメントのほうが、ずっと世界的な運動として広がっている。
政治運動よりも文化運動のほうが、じつは人類の希望になりうるのかもしれない。
ちなみに「初音ミク」の「みく」は、「未来」という漢字の読み方から来ているのだとか。
初音ミク」は、民主主義の未来の希望になることができるか?

初音ミクは人間ではないし、人間ではない人間だともいえる。声はシンセサイザーでつくった音だし、体は3D の立体映像だから肉も骨もない。最初から生身の人間ではなく、そういう「非存在」の対象であることを前提にしてイメージされている。「嘘」の人間であり、「嘘」を抱きすくめてゆくことのカタルシスがある。初音ミクが人間であれば、と思うファンもいるかもしれないが、ひとまずそう思うことの不可能性の上に成り立っている。
嘘の肉体ではない肉体だからこそ、肉体の「けがれ」から解き放たれている。「永遠の処女」は、そうであらねばならない。
たとえばわれわれが「天国」とか「極楽浄土」を思い描くとき、この世界の延長の「実体=存在」を思い描いているわけだが、初音ミクはそういう「実体=存在」ではなく、「非存在=異次元」の世界を指し示している。それは、宗教が示す「死後の世界」ではなく、新しい「死後の世界」だといえます。と同時にそれは、この世界の「意識」や「言葉」が生成している場所でもある。
われわれの意識は、脳(=頭)の中ではなく、何かその外の「非存在=異次元」の場所で生成しているように感じられる。身体でも身体の外の環境世界でもなく、そのあいだの「裂け目」のような「非存在=異次元」の場があるように感じられる。もしかしたら日本列島の「幽霊」だって、そういう場にいるのかもしれない。「死後の世界」といっても日本人は昔からそういう「非存在=異次元」の世界をイメージしてきたわけで、だから初音ミクに盛り上がってゆくことができたのでしょう。
神道では、死んだら真っ暗で何もない「黄泉の国」に行く、といわれてきました。「黄泉の国」とはつまり「非存在=異次元」の世界のことだ、というわけです。
われわれの祖先は、神(仏)がつくった「天国」や「極楽浄土」など思い描かなかった。初音ミクは、日本人のそういう死生観の伝統から生まれてきた。
そしてこの「非存在=異次元」の世界は、人間なら誰もが共有しているから、初音ミクが世界中に広がっていったのでしょう。
そりゃあ、「死後の世界」に対する関心と、「天国」や「極楽浄土」というイメージに対する不満は、世界中にある。嘘っぽいから、というのではない。何を描いても嘘に決まっていることはわかっているし、嘘でもいいのだけれど、「魂」を揺さぶられる体験がなければ、その嘘を抱きすくめてゆくことはできない。そういう既成のイメージでは「魂」を揺さぶられない。
それは、「天国」や「極楽浄土」という「平和と繁栄」として体験されるのではなく、「世界の終わり」すなわち「非存在=異次元」の世界に向かって超出し「消えてゆく」ことによって「魂を揺さぶられる」というカタルシスが体験される。
まあ、よくいう「鳥肌が立つ」ということ、それだけのことだともいえるわけだが。
「魂の救済」は、政治経済や宗教が目指す「平和と繁栄」によってではなく、「存在の危機=世界の終わり」として体験されている。人は、そこから生きはじめる。世界中の若者がそのことを発見したのであり、初音ミクのムーブメントは、そのようにして生まれてきた。
そのコンサートに参加をして涙を流している聴衆の気持ちは、わからないでもない。それは、正義・正論の政治運動でも、嘘を真実であるかのように信じてゆく宗教運動でもない。嘘を嘘のまま抱きすくめてゆく、人としての純粋な魂の運動であり文化の運動なのです。おバカで他愛ないときめきを止揚してゆく運動なのです。