非存在の女神・初音ミクの日本文化論(2)

ここではひとまず、「初音ミク」は究極の「かわいいの文化」として登場してきた、と考えています。
今や初音ミクの立体映像を使ったコンサートは世界中で展開されており、どこでも大きな会場に数万人規模の観客を集めて催されている。で、どういう権利関係がはたらいているのか知らないが、どこでも歌詞は必ず日本語なのに、初音ミクの映像や歌っているときの踊りの振り付けはなぜか世界中で全部違う。
そうすると、初音ミクが醸し出す気配も、世界中で微妙に違ってくる。それは、はじめに生身の人間が踊り、それを初音ミクの映像にトレースさせてゆく処理が施されているわけだが、それぞれのお国柄の違いが出ているのでしょうか。
体の肉付けが外国のほうが本物の人間に近くなっているし、踊りの振り付けも、日本列島の場合は、ときどきわざと踊りから逸脱したちょっとぎこちないようなしぐさを挿入しており、それがかえって「かわいい」の気配が増すような味付けになっている。思春期の少女特有のしぐさ、というのだろうか。しかし、もしかしたらそうしたしぐさは日本列島の少女しかしないのかもしれない。そこのところはもう、世界中の身体文化や踊りの文化の伝統の違いかもしれない。
たとえば、ちょっとはにかみながら体を動かすとか、そんな場面は日本列島が圧倒的に多いだろうし、そういう歴史の蓄積がある。心ははにかんでいなくても、動きそのものがはにかみを含んでいる……それはもう歴史伝統の問題でしょう。
それに、日本舞踊や盆踊りとフォークダンスやバレエでは、踊りの作法がずいぶん違う。日本列島のほうが腕の動きのバリエーションは多いし微妙でしょう。だから、わざとぎこちなくさせてかわいく魅せるという表現ができる。また外国は、足や腰の動きが多すぎてちょっと生臭くなってしまっている。ダンスになりすぎてしまっている、というか。
かわいさとか女神的な気配は、やはり日本列島の舞台のほうが高度で豊かなニュアンスを持っているように思えます。
日本列島の初音ミクは、ダンスではないダンスをしている。ダンスよりももっと天上的なダンスをしている。
わざわざ日本列島まで追いかけてきた外国人も、口をそろえて「初音ミクは女神だ、やっぱりここでの舞台は違う、来てよかった」というのだとか。
宗教心など薄い日本人のほうが女神の表現がうまい、という皮肉な話。まあ、「アマテラス」の伝統がある、ともいえるわけだが。

初音ミクは、「光の女神」です。
物理学では光は物質だということになっているのだろうが、主観的には「非存在=異次元」の世界のあらわれだと認識されている。
「きらきら光る」ということの不思議と親しみを、人類は原始時代からずっと思ってきた。だから「火」を使うことができるようになったのでしょう。「肉を焼くため」とか、そんなことは火を使うようになったことの結果であって、だったら洞窟の中を明るくしたり温まったりしたことのほうが先だろうし、そのためにはまず「火に対する親しみ」がなければ起きてこない。
猿は、自分の立っている場所を明るくしようというような発想はしない。
太陽に憧れるということは、きらきら光るものや明るいことに憧れるということであり、まずそのことがなければ、太陽に対する憧れも生まれてこない。
太陽に憧れたからきらきら光るものも好きになった、などということは論理的にありえない。それだったら、太陽に憧れる「契機・原因」がないことになってしまう。
人類はまず、「きらきら光る」ものに憧れたのです。そしてそれがなぜ憧れになったかといえば、どこかこの世界の裂け目のようなところから現れて消えてゆくものだからであり、この世界の向こうに別の世界があるように感じられるからでしょう。
星や月は天の穴で、その向こうに光があふれる世界があるのかもしれない。
世界の「果て=終わり」に「光」がある、ということ。
濡れた体が輝いているのを見て、原始人は太陽の光を反射しているとは思わない。体の表面のどこかから光が出現しているように見えていたはずです。
とにかく人類は、ずっと遠い昔から「きらきら光る」ものが好きだった。この生はいたたまれないもので、この生の向こうの世界にいつも憧れていた。すなわち「世界の終わり」においてあらわれる新しい世界、それはべつに「死後の世界」がどうのというような観念的な意識ではなく、なんとなくの無意識的な心で、なんとなく憧れていた。
もともと人類はとても弱い猿で、だからこそほかの猿にはない知性や感性を進化発展させてくることができた。その「憧れ」こそが、知性や感性の進化発展の契機というが原動力になったのです。
その「非存在=異次元」の世界に対する「憧れ」が、人類の思考というか心の動きに「飛躍」をもたらした。
「非存在=異次元」の世界、そこは「世界の終わり」の場であると同時に、人が生きはじめる場所でもある。人は「世界の終わり」において「光」と出会う。
というわけで初音ミクが「光の女神」であることには、人類史の伝統の深い意味がある。

コンサートで初音ミクが一曲歌い終えるたびに、必ず光の散乱とともに消えてゆきます。そうやって初音ミクが「光=非存在」であることをつねに意識させる演出になっている。初音ミクが生身の人間のイミテーションになってしまってはいけないのですね。生身の人間のイミテーションではないからこそ、観客の心はより深くときめき、「非存在=異次元」の世界に超出してゆく。
「光」の本領は「あらわれて消えてゆく」ことにあり、「存在する」ことにあるのではない。まあ日本列島の伝統的な世界観においては、この世界の森羅万象はすべて「あらわれて消えてゆく」ものであって「存在」しているのではない、ということにあります。
はじめに闇があり、光があらわれて消えてゆく、ただそれだけのこと、この生もこの世界も「あらわれて消えてゆく」だけのたんなる「現象」であり、そうやって光があらわれるように生まれ出てきて、そうやって出現と消滅を繰り返すように生きて、最後にはそうやって「闇の世界=黄泉の国」に還ってゆくかたちで死んでゆく……初音ミクのコンサートに集まってきた観客はもう、無意識のところでそういう世界観や生命観を共有しながら、泣きたいような恍惚(感動)に浸り一体化している。そしてそれは日本列島の伝統であると同時に、じつはそれこそが人類普遍の世界観や生命観でもあるのです。少なくとも世界中の原始人がそうだったし、究極の未来においてもそういう世界観や生命観に還ってゆくのでしょう。
それは、いかにも既成の文明的な天国とか極楽浄土とかいう通俗的で宗教的な体験というのではない。
なにはともあれそれは現在の世界最先端の文化現象であり、人としての純粋で原初的な「ときめき」に遡行する体験であると同時に、究極の未来を夢見る体験でもある。
つまりそこで、「世界(=文明社会)の終わり」を体験しているのですよ。人はそこから生きはじめる存在であり、もしも民主主義に未来があるとすれば、人類がそういう世界観や生命観を共有してゆくことにあるのでしょう。
少なくとも民主主義の未来は、「天国」とか「極楽浄土」とか「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか、そういうオカルトを信じてゆくことにあるのではない。そういう意味で「初音ミク」現象は、「ポスト・近代」、「ポスト・文明社会」、そして「ポスト・スピリチュアル」の現象であるのかもしれない。そうやって「初音ミク」とともに「世界の終わり」を実感し新しく生きはじめる、という体験が生まれてきている、ということです。
コンサート会場に集まってきた観衆はそのとき、初音ミクは「世界の終わり」の原野に舞い降りた女神である、というような感動を覚えている。
この世のもっとも深い感動は、「世界の終わり」において体験される。
人が「世界の終わり」において最初に出会うのは「光」である、ということ。

近ごろでは、伊勢神宮靖国神社が「パワースポット」として若者たちの関心を集めているらしい。まあ一時期大流行した「ポケモンGO」だって「パワースポット」を発見するゲームだというし、その延長だろうか、コスプレ・ファッションの若者たちが続々と靖国神社に詰めかけてきているらしい。
「かわいい」の文化とはつまるところ「非存在=異次元の世界」に超出してゆくムーブメントであり、コスプレ・ファッションの若者たちがひといちばいそうした「場」に興味を持っているだろうことは、なんとなくわからなくもない。
まあ「ポケモンGO」の流行だってまぎれもなくひとつの「かわいい」の文化のムーブメントだったのであり、そもそも「パワースポット」が注目されるという現象そのものが「かわいい」の文化以外の何ものでもない。
それはひとまず既成概念としての「霊魂」とか「霊界」というオカルト的な言葉とつながってイメージされているが、「非存在=異次元の世界」は宗教的なイメージでもなんでもなく、原始時代以来の人類普遍の実存的な世界観にほかならない。
「非存在=異次元の世界」=「黄泉の国」においては、「霊魂」という「存在」も「神」という「存在」も「なし」なのですよ。
ただ、この生のこの世界の向こうには「非存在=異次元の世界」があるという思いだけはどうしても消えないし、そこでは何もかも「存在」は「なし」だけど、「非存在」としての「初音ミク」や「幽霊」は「あり」だと思うしかない。とりあえずそういう世界があると思い定めるためのよりどころとして「あり」だと思うしかない。「非存在=異次元の世界」を可視化した対象として「初音ミク」や「幽霊」があり、「光」がある。
初音ミク」のコンサートは、「パワースポット」を見つけて「非存在=異次元の世界」と向き合う体験の場になっている。
そのとき観客はどんな感慨に浸されているかといえば、「神や霊魂の存在と出会っている」という言葉で表現することもできるだろうが、とにかくいたたまれないこの生からの解放を体験しているのであり、それはあくまで「非存在」であり「光」なのです。
人が「光」に対してどれほど切実な感慨を抱いているかということは、「宗教」の問題なんかじゃないのですよ。