世界の終わりを印す・初音ミクの日本文化論(3)

たくさんものを知っていることが偉いんじゃない。新しい何かがひらめいたり発見したりすることを「考える」という。それは、心がこの生やこの世界の外に超出してゆく体験です。そういう「飛躍」を体験することによって、人類の知性や感性は進化発展してきた。
人はつねに、この生やこの世界の外のまったく別次元の世界を意識している。そうやって人類の歴史は「死」を発見したわけだが、その世界は、この生において感じられている世界であり、まあ原始人においては、「光」や「風」はどこからともなくあらわれるものであり、きっとその異次元の世界からやってくるのだろう、と考えていた。
それは、この生やこの世界の「終わり」においてあらわれる世界であり、同時にその世界との関係によってこの生やこの世界の森羅万象のはたらきがはじまる、と考えていた。
人間性の自然は「世界の終わり」から生きはじめることにあり、「かわいい」の文化もそのようにして生まれてきた。
人はつねに「世界の終わり」の向こうの世界を意識しているのであり、だから、ひらめいたりときめいたり発見したりすることができる。
人は、「世界の終わり」のその「喪失感」を抱いたところから生きはじめる。
かんたんに「この生は素晴らしい」などといってもらっては困ります。「世界の終わり」の「喪失感」を抱いているものこそ、さらに豊かな知性や感性をはばたかせることができているのです。

初音ミクは「世界の終わり」からあらわれる「非存在の女神」である。したがって現在の若者たちが初音ミクのコンサートに熱狂することは、原始時代以来の人類の長い歴史の伝統の上に起きている現象であろうと思えます。
人類は「神」とか「霊魂」という概念を生み出す前から、すでに「非存在=異次元の世界」を意識していたのであり、初音ミクのコンサートに集まってきた観客は、そういう宗教以前の原始的な感覚を呼び覚まされているのであり、同時にそれこそが究極の未来的な感覚でもあるわけです。
また、コスプレ・ファッションの少女たちが靖国神社というパワースポットに集まってきているといっても、そこに既成の宗教の手垢がついた「神」とか「霊魂」というようなものを感じて喜んでいるというよりも、生きにくいこの世の中の外の「非存在=異次元の世界」に立っているような解放感を覚えているだけでしょう。そういう意味でそこはまさしくパワースポットであるが、べつに宗教体験をしているわけではない。
そして初音ミクこそ現在のパワースポットだとすれば、まあコスプレ・ファッションの少女たちだって、そこで初音ミクになったような心地に浸っているのでしょう。
パワースポットとはこの世界と「非存在=異次元」の世界との通路、ということになるのでしょうか。しかしそれはべつに宗教的なことでもなんでもなく、たとえばそこがタイムスリップの入り口だったりとか、人の知性や感性や想像力が刺激される場であるというだけのことです。
能の「卒塔婆小町」では、みすぼらしい小さな墓石から遠い昔の小野小町の幽霊が出てきて旅の僧と話をするという物語だけれど、それだってまぎれもなくパワースポットの話で、宗教心の薄い日本人がなぜそんな話をたくさん生み出して夢中になってきたかというと、べつに仏教に対する信仰がどうのというようなことではなく、もう単純に原初的普遍的な想像力の問題です。
人はなぜ墓石を置くかという問題は、人はなぜ「印」を置くかという問題であり、墓石は仏教でも、「印」を置くことは宗教的な行為でもなんでもない。一里塚は墓石と同じかたちをしているが、仏教なんかなんの関係もないし、そうやって印として石を置くことは縄文時代からしていた。
人が「印」を置きたがるのは、それだけ「今ここ」に対する意識が切実だからであり、心がときめけばハグし合うのと同じことです。
原始人が「埋葬」をはじめたことだって、ただもう純粋に親しい他者の死を「印そう」としたその「かなしみ」の問題であって、死後の世界がどうのというような話ではない。
その「印」は「今ここ」であり、「世界の終わり」でもあるのです。
「今ここ」を印して、「これでもう死んでもいい」と思い定める。そうやって人と人はときめき合いハグし合っている。そうやって人は「世界の終わり」から生きはじめる。
パワースポットとは、「世界の終わり」が印されている場所のこと。その向こうに「非存在=異次元」の世界がある。これを、「宗教」として考えるべきではない。

コスプレ・ファッションやロリータ・ファッションの少女だって、「世界の終わり」に立って「あっちの世界」に行ってしまったものたちです。
彼女らは、現在のこの社会の何に「世界の終わり」を見ているのでしょうか。
まあ、世界の民主主義は壊れかけているし、なんとかハラスメントとか、DVとか鬱病とか発達障害とか、人と人が他愛なくときめき合う社会になんかなっていない。少女たちにとってはそれがあればいいだけなのだけれど、それこそがどこにおいても「終わり」の状況を呈している。
大人たちがちっとも魅力的じゃなくて、ああもうこの世界は終わったな、と思うしかない。だって、自分が大人になってゆくための道しるべがないのだもの。「大人になりたくない」じゃなく、「大人になれない」という絶望がある。彼女らは、「反抗」しているのではなく「途方に暮れて」いる。
迷わず大人の世界への階段を駆け上がってゆくことができるのなら、そんな「あっちの世界」のことなど気にも留めない。 
彼女たちは、よそ見をしている。彼女たちの「喪失感」は、大人たちにはわからない。大人の知恵で、生きてゆくためにはどうすればいいか、ということなど説いても、彼女らの心には響かない。彼女らは「生きてゆく」というそのことに対する関心をうまく持つことができない。
そんなことよりも、「今ここ」に生きてあるということの「印」が欲しい。それがなければ、生きてあることなんかできない。何はさておいてもまずそのことであって、「生きてゆく」などという大それたことを考える余裕なんかない。
「癒し」が欲しいなどという甘ったれたことをいうなといわれても、「癒し」という「今ここの印」を欲しがる切実さは、大人たちにはわからない。「今ここ」に「消えてゆく」ような、そういう「癒し」が欲しい。
秋葉原メイド喫茶でコスプレ・ファッションに身を包みながら「メイド」になりきってそういうサービスをする少女たちは、「癒しが欲しい」という気持ちがわからからできるのでしょう。
「癒しが欲しい」なんて病んでいる証拠だというのなら、まあその通りなのだけれど、病んでしまうような社会に置かれているのだからしょうがない。
今や、世界中から「癒し」を求めて秋葉原にやってくる。
みんな、「世界の終わり」を感じている。
少女たちが、いちばんそれを感じている。
大人たちは「平和と繁栄」で問題が解決すると思っているが、少女たちの願いは、人と他愛なくときめき合うことがいちばんであり、そういうコミュニティに引き寄せられてゆく。
コスプレ・ファッションのコミュニティ。「癒し」のコミュニティ。初音ミクのコンサートだって、観客のみんながペンライトを振りかざして、それはそれでひとつのコミュニティになっている。
みんなして「非存在=異次元の世界」に立っている、という思いが共有されているコミュニティ。

パワースポットのコミュニティ。
パワースポットがブームになるということは、そこでコミュニティをつくろうという動きが起きているということであり、現実の社会に対する幻滅が広がっているということではないでしょうか。
みんなして「非存在=異次元の世界」の入り口に立つということは、ようするにみんなしてこの生やこの世界のことなど忘れて他愛なくときめき合うことを願うということであり、それは、現実のこの社会のいとなみはそこからはじまるということであり、原初のコミュニティはパワースポットを中心して発生してきたということです。
他愛なくときめき合うということなしには人の世なんか成り立たないし、現在の文明社会はそういう関係がどんどん失われていっている。
コミュニティが壊れていっている……パワースポットブームの陰には、どうやらそういう危機感がはたらいているらしい。
コミュニティは、政治経済によって成り立っているのではない。人々の心をつなぐパワースポットを中心にして成り立っている。もともとコミュニティは、パワースポットを中心にして生まれ育ってきた。
日本列島の伝統的な祭りは、神社というパワースポットを中心にして盛り上がってきた。祭りは、支配者と被支配者とか金持ちと貧乏人とかのコミュニティの政治経済の秩序をいったんぜんぶ壊して(チャラにして)、ひたすらみんなでパワースポット(祭神)を祀り上げながら盛り上がってゆく。そうやってみんなの心がつながってゆく。
人と人の心をつなぐものがなければ、コミュニティなんか成り立たない。そのためのパワースポットのブームなのではないでしょうか。
昔の家族のパワースポットは、家族が集まって語り合う「囲炉裏」にあった。原始人だって、洞窟の中でみんなして焚き火を囲みながら、その火のゆらめきに癒され結束していった。
パワースポットとは、心が「非存在=異次元の世界」に超出してゆくための入り口のこと。そうやってコミュニティのみんなの心が現実世界の憂さを忘れて解き放たれてゆく場のこと。
靖国神社に集まってくるコスプレ・ファッションの少女たちだって、何はともあれそうやってみんなの心が「非存在=異次元の世界」に向かって解き放たれつながり合っているのでしょう。
初音ミクのバーチャル映像もまた、現在のパワースポットとして機能している。それはもう、神社の境内の入り口に鳥居を立ててしめ縄で飾っているのと同じであり、原始人が洞窟の中で焚き火を囲んでその火のゆらめきに癒され結束していったのと同じであり、人類はそうやってコミュニティの心のつながりを守り育ててきた伝統があるから、世界中のみんなして初音ミクをそこまで育て祀り上げてゆくことができたのではないでしょうか。
昔の人だって、五穀豊穣を願うよりもまず、人と人の心のつながりを願ったのではないでしょうか。
コスプレ・ギャルのかなしみ(喪失感)、現在の「かわいい」の文化はそういう心の上に成り立っている。人は「世界の終わり」から生きはじめる。