日本人はなぜ幽霊を見てしまうのか・神道と天皇(125)

近ごろでは、伊勢神宮靖国神社が「パワースポット」として若者たちの関心を集めているらしい。
まあ「ポケモンGO」だって「パワースポット」を発見するゲームだというし、いったい「パワースポット」とは何だろう。
一般的には、「気」とか「霊力」が発生する場所、ということになっているのだろうか。まあ「気」でも「霊力」でも「エネルギー」でもいいのだが、それ以前に、人はなぜそういう特別な場所を設定したがるのか、ということが気になる。
そこでパワーとかご利益をもらうということなのだろうが、実際にパワーとかご利益が発生したという科学的な証拠などなく、パワーとかご利益をもらった気になってゆく、ということが大事なのだ。
科学的証拠の真否など問うてもせんないことで、それでも人の心はしんそこパワーをもらった気になってゆくことができる、ということの上に「パワースポット」が成り立っている。
では、その「信憑」という心的体験がどのようにして成り立っているのかというと、みずからの存在がその「スポット」という「一点」に収束してゆく心地であり、「消えてゆく」心地なのだ。
人は、みずからの存在が「今ここ」の「一点」に「消えてゆく」体験においてこの生のカタルシスを汲み上げている。この「一点」に「消えてゆく」心地こそ、何ごとにも代えがたい最高の快楽であり、誰もがそのゲームに熱中してゆく。
極め付きの「一点」、それを「パワースポット」という。そこに霊魂が漂っているとか、そういうことはたんなる二次的な舞台装置というか調味料にすぎないのであり、とにかく「この一点」として気持ちが吸い込まれてゆく体験が大事なのだ。たとえそれが愚かな迷信であろうと、その「いったんはまってしまったらかんたんにはやめられない」ということには、人間性の自然=本質にかかわる深い問題が潜んでいる。
さしあたり霊魂を信じているとしても、霊魂がありがたいのではなく、「そこに霊魂がいることを信じてゆく」ことのカタルシスがあるのだ。そうやって心が「一点」に「収束してゆく=消えてゆく」ことのカタルシスを汲み上げている。
霊魂は、ひとまずこの世とは「異次元の世界」に存在している。したがって霊魂を信じることは、この世界から消えて「異次元の世界」に超出してゆく体験の契機になる。
「非存在=異次元の世界」に超出してゆく体験がしたいのであって、べつに霊魂の御利益が欲しいのではない。そしてそれこそがじつは、日本列島の伝統の「みそぎ」という体験にほかならない。
近ごろは靖国神社がコスプレ・ファッションをした若者たちのメッカになったりして、神社の関係者が眉をしかめているらしいが、彼らだってちゃんと「英霊」と対話をしている。もしかしたら彼らこそもっとも敬虔な英霊の信者かもしれない。
彼らは、国家なんか信じていない。純粋に死者の霊と向き合い、「今ここ」の一点に向かって消えてゆく「カタルシス=みそぎ」を体験している。コスプレ・ファッションで靖国神社の境内に立てば、このうっとしい世間から解放されて「異次元の世界」にワープしている心地になることができる。そうやって彼らは、きわめて率直に神社の恩恵を享受している。

まあ現在の「パワースポット」ブームは、くだけた言い方をすれば、このストレスフルな社会で「癒し」を欲しがっている現象なのではないかと思える。
神や霊魂なんか、信じようと思えばいくらでも信じることができる。存在するから信じられるのではなく、信じたいから信じることができるのだ。
この世界には、自分という存在も含めて、たしかに存在するといえるものなど何もない。「この世界」の「存在」も「この生」も、夢幻(ゆめまぼろし)にすぎないのかもしれない。だからこそ、「存在」への希求も切実になる。
神や霊魂は、自分が存在することの根拠として信じられてゆく。人は「存在」を「認識する」のではなく「信じる」のだ。そして人は、「信じる」ことによって、みずからの存在が「一点」に収束し消えてゆくのを感じている。なぜなら「信じる」ことは「認識する」ことを放棄する体験であり、そのとき世界を見失っているのだ。
われわれの視覚が一点に焦点を結んでいるとき、まわりの景色はぼやけ、ほとんど見えなくなっている。それと同じこと。
われわれの意識は、「非存在」を「信じる」ことができない。なぜなら、なぜならそこには焦点を結ぶ場が存在しないからだ。「非存在」の中に漂うことができるだけだ。「漂う心」は、「非存在」を「認識」し、「非存在」に身をあずけている。
意識は、「存在」が「消えてゆく」ことによって、「存在」を「認識」する。なぜなら、「存在」するものでなければ「消えてゆく」ことができないからだ。したがってそれは、げんみつには「認識している」のではなく、「信じている」状態にほかならない。そのとき「存在」は、過去の記憶として「信じられている」だけであって、「今ここ」において「認識されている」のではない。
われわれの心は、どうして「信じる」ことができるのか。考えたらこれはとても不思議なことで、「非存在」を「認識」する心が「存在」を「信じる」のだ。
この世界の「存在」は、意識すればするほどあいまいになってゆく。自分の体なんて、「からっぽの空間の輪郭」として感じられているときこそ、もっとも生きた心地がみなぎっている状態なのだ。肉や骨や内臓は、「痛み」という「違和感」としてしか認識することができない。肉や骨や内臓を「存在」として認識することは、「違和感」なのだ。
心は、「今ここにあなたはいない」と「認識」することができる。しかしそれは、「あなたがどこかに存在している」と「信じる」ことでもある。生きているものどうしの関係ならもちろんのこと、死者に対してだって「どこかに存在している」と「信じてしまう」心がはたらいたりする。そうやってわれわれは、靖国神社の境内で「この場のどこかに英霊が存在している」と「信じて」しまったりしている。そこに「存在しない」からこそ、焦点を結ぶ場を探しつつ「どこかに存在している」と焦点を結んでしまう。
しかし英霊は、「存在」ではない。この場の空間の裂け目の「非存在」の世界に「非存在」として「漂っている」だけなのだ。それは、信じるか信じないかの問題ではない。感じるか感じないかの問題なのだ。
「存在」と「非存在」の関係はほんとにややこしいし、ともあれわれわれの心は、存在しない神や霊魂を「存在する」かのように「信じる」はたらきを持ってしまっている。
しかし神道では、「かみ」を「非存在=異次元」の世界の対象として「感じている」だけであって「信じている」のではない。
「認識」できないから「信じる」ということをする。神を「信じる」ことは、神が存在しないことの証明でもある。存在しないから「信じる」ことができる。
「存在しない」ことは、人の心を魅了する。「存在しないことの尊厳」というものがある。それはまあ、体が「からっぽの空間」であると感じられているときにこそもっとも豊かに生きた心地を覚える、という生きものとしての自然に由来している。そうやってこの世に「神」とか「霊魂」が信じられたり感じられたりしているわけだが、それは「非存在」としてしか「感じる=認識する」ことができないのであり、「存在」として「感じる=認識する」ことは根源的に不可能なのだ。

神が存在する、と「信じる」ことと「認識する」ことは違う。人はそれを「信じている」だけで、「認識している」のではない。認識できないからこそ、より深く信じることができる。そこのところはまあ、キリスト教「ゴッド」を信じるのも神道が「八百万(やおよろず)の神」を信じるのも同じような心理で、人は普遍的に「信じる」生きものであるといえる。
ただ西洋人は、神が存在すると「認識」したがっているし、この世界やこの生を支配していると思っている。それに対して神道にとっての「かみ」は、この世とは別の異次元の世界にいて、あくまで「非存在」であることが「かみ」であることの証明になっている。だから神道の「かみ」は、何ものも支配しないし、何ものも救済しない。ただもう、「非存在の世界」に「非存在」として漂っている。「かみ」は「漂っている」ものであって、「存在している」のではない。そのようにして日本人は、かんたんに「幽霊」を見てしまう。
まあ初音ミクのバーチャル映像は、この世のもっとも親しみ深い「幽霊」であり「かみ」である、といえる。
というわけで日本列島には、初音ミクが登場してくる伝統がある。
それはもう古事記以来の伝統で、その神々はすべて非現実的に造形されており、非現実的で存在するはずもないことが「かみ」であることの証明になっていた。
「非存在」を「認識する」こと、それが日本列島における「かみ」という体験なのだ。
だから日本人は、「非存在」の「幽霊」を見てしまう。「信じる」のではない。信じてなんかいない。それでも「見てしまう」のであり、「感じてしまう」のだ。言い換えれば、見てしまい感じてしまうのだから、「信じる」必要がない。人は、見ることができないものや感じることができないものを「信じる」のだ。
コスプレ・ファッションで靖国神社の境内に立っている若者たちだって、霊魂など信じていないが、すでに感じてしまっている。それは、霊魂を「存在」として感じるというのではなく、「非存在=異次元の世界」を「感じる=認識する」という体験なのだ。

日本人は、死者の霊がこの世のどこかしらに漂っていることを感じている。「存在する」と「信じている」のではない。「非存在」をそのまま「認識している」だけなのだ。
神道においては、人は死者とともに暮らしている。
一方西洋や仏教においては、死の国に旅立ってゆく。
だから西洋や仏教のほうがこの世とあの世がちゃんと分かれているといえるのかというと、そうではなく、彼らの「あの世」は「存在」として「信じ」られ「この生=日常」の延長としてつながっているわけで、神道における幽霊のいる「あの世」は「今ここ」でありながら、「今ここ」とは不連続の「非存在=異次元の世界」にほかならない。西洋や仏教ではあの世に「旅立ってゆく」が、神道では、「今ここ」において「消えてゆき」ながら「ワープ(瞬間移動)」してゆくのだ。
神道における「あの世」は、決定的な「別世界」であると同時に、「今ここ」の世界でもある。
だから大昔の日本人は、水平線の向こうに「あの世=神の国」があるとは思っていなかった。死ぬことは「今ここ」の「非存在=異次元」の世界に向かって「消えてゆく」ことだと思っていたわけで、まあそのような「非存在生=異次元性」の世界観・死生観から、神道の「黄泉の国」や、さらには「かみ」のイメージになっていった。
というわけで初音ミクはきわめて神道的な世界観や死生観の伝統の上に発想されていることがわかるし、靖国神社の境内に立つコスプレ・ファッションの若者たちだって、ちゃんと英霊すなわち「非存在=異次元の世界」を感じているに違いないのだ。