時代は流れ、人の心も変わってゆく・神道と天皇(124)

僕はべつに左翼ではないが、今どきの右翼というのは、声高で、嘘つきで、目的のためなら手段を選ばないという卑劣極まりないところがあり、まったく「かわいい」ところがない。うんざりだ。いつまでもこんな時代が続くはずがない。
それに対して現在の「かわいい」の文化の潮流は、たんなる一過性のサブカルチャーの流行ではなく、たぶんこれは世界的なポストモダンの大問題であり、近代文明の行き詰まりを超克する可能性を持ったムーブメントとして世界に広がっているのではないだろうか。
「かわいい」の文化が世界を変える、と言い換えてもよい。いや、べつにそれが未来の世界のかたちを構想しているというわけではないが、そこにこそ人間性の自然=本質が潜んでいるということをわれわれに教えてくれている。
世界は、政治家や知識人による作為的な未来の構想によって変わるのではなく、人間性の自然=本質によって不可逆的に変わってゆくのだ。
歴史は、人間の思う通りにはならない。しかし人間のすることであるかぎり、人間性の自然=本質にしたがって変わってゆく。すべてはなるようになる。人間なんか歴史の「なりゆき」に流されてゆくしかないのであり、その「なりゆき」に「必然」がないともいえない。
交通機関の発達とかインターネットの普及等によって、世界は狭くなった。これによってもっとも潤っているのがグローバル資本主義の経済活動だろうが、もっとも勢いを得ているサブカルチャーといえば、日本列島から発信されている「かわいい」の文化であるのかもしれない。

ひとつの国の流行が、あっという間に世界中に拡散してゆく時代になった。
政治・経済・宗教等のことはともかく、現在、文化面において世界でもっとも関心を寄せられている国は日本列島にちがいない。その結果として、世界からの観光客が急増している。
政治や経済や宗教は世界中が同じ価値観の上に成り立っており、それらはその価値観を変えさせないようにできている。価値観というか、人々の欲望のかたちが変わらないかぎり、現在の政治や経済や宗教のシステムも変わらないのだろう。
しかし文化の価値観や世界観や生命観は世界中で違うし、われわれは魅力的な文化との出会いによって価値観や世界観や生命観を変えられることがあるし、その普遍的なかたちにあらためて気づきかされたりする。
この行き詰った世界を変えるのは、政治や経済や宗教ではなく、文化なのだ。それは、世界の仕組みが変わるまえに。まず人々の意識が変わらねばならない。
いつまでも国境をなくしたり変更したりすることばかりしていてもしょうがない。そんなことを数えきれないほど繰り返しながら人類の文明は、けっきょく病んでゆくばかりの歴史を歩んできた。世界はもう、政治や経済や宗教によっては変わらない。
現在の世界の人々は、宗教ではない新しい価値観や世界観や生命観との出会いを願っている。そこに、この国の「かわいい」の文化が発信されていった。彼らは、こんな価値観や世界観や生命観があるのかと驚きときめいている。これは、政治や経済や宗教によっては体験できない。
「かわいい」の文化は、「魂の純潔に対する遠い憧れ」という人間性の真実に気づかせてくれる。それは、たんなる異国趣味とかオリエンタリズムというのとは違う。東の果ての国の特異な文化でありながら、それでもそこに人類普遍の真実があるから世界中で受け入れられるのだろう。しかも文明に病んだ先進地域の民族ほどそれに気づいている。
アフリカなどの後進地域ならまだまだ「ソニー」や「トヨタ」などが重宝がられているだけだろうが、先進地域などはもうそれだけではすまない悩みというか病理が進行してしまっているのであり、「かわいい」の文化に政治や経済や宗教によってはもたらされない「癒し」や「救い」、そして普遍的な価値観や世界観や生命観を発見している。

文明人の価値観や世界観や生命観は、けっきょく宗教の上に成り立っている。神なんか信じないといっても、誰もが宗教的に考えてしまっている。そうしてそれを普遍的なものだと信じながら、政治や経済の世界が病んでしまっている。
たとえば、お金で物が買えるのは、お金に神のような絶対的な価値が付与されているからだろう。この世に絶対的な存在としての神という概念がなければ、お金=貨幣の機能なんか成り立たない。それは一枚の紙切れにすぎなくても絶対的に1万円であるという「神」として認知されている。その紙切れが「1万円札になる」ことは「神になる」ことだ。人の心(観念)は、ただの紙切れを「神」にすることができる。
文明人はみな、「神」と出会う体験している。それはもう、そうなのだ。人の観念のはたらきはそのようにできている。存在しないものを存在するかのように信じ込んでゆくことができる。そういう観念のはたらきとともに、この世界の動きに巻き込まれ、支配されてしまっている。
どんな世の中になろうと、世の中は世の中であり、「憂き世」なのだ。
人を救済する世の中などない。心が世の中から超出していったときに、はじめて「癒し」とか「救済」を体験する。だから人々は、どれほど文明社会が発展しようと、つねに心が社会から超出してゆく体験の場を持ちながら歴史を歩んできたのであり、その結実を「文化」という。学問とか芸術とかスポーツとか恋愛とか、そして、ただ食うだけでなく美味いものが食いたいという人間的な心の動きだって、この生から超出してゆこうとする衝動にほかならない。
この生の醍醐味というか「生きた心地」は、この生から超出してゆくことにある。まあ、「かわいい」の文化にときめいているものたちは、そういう体験の場に気づき癒され救われている。

この生の「今ここ」には、この生の外の「非存在=異次元の世界」がある。「かわいい」の文化にときめいているものたちは無意識のうちにそうした世界に超出していっている。
それは、村上春樹いうところの「世界の終わり」に現れる「ハードボイルドワンダーランド」だともいえるのかもしれない。
もしかしたら村上春樹の小説が世界中に広まっていったことが、「かわいい」の文化の世界的な流行を後押ししたということもあるのかもしれない。なんといってもあの小説は、良くも悪くもポップカルチャーなのだから。
まあ、文明社会の仕組みの高度化とともにこの世界の現実があまりにも生々しすぎて、「非存在=異次元の世界」に超出してゆきたいという切実な願いが生まれてくるような時代になっているのだろう。
現在のこの世界を変えるのは、「正しい未来の構想」ではなく、「魂の純潔に対する遠い憧れ」すなわち「夢見る心」であり「他愛なくときめく心」なのだ。

とにかくここまで「かわいいの文化」と「初音ミク」について考えてきたわけだが、うまく結論を記すことはできない。
この社会をどうすればいいかということなど、僕にはわからない。いえることはただ、人々の意識が変わらなければこの世界は変わらないし、変わりつつあるのではないかという気がするし、その変化はこの国の「かわいいの文化」からはじまっている、ということだ。
「かわいいの文化」がこの病んだ世界にとどめを刺す……かどうかはわからないが、少なくとも人の心の中の世界ではそういう体験がなされているわけで、そうやって彼らは「かわいいの文化」に「癒し」や「救済」を体験している。
「非存在の女神」である「初音ミク」は、「かわいいの文化」のひとつの究極のかたちをあらわしている。「神という存在」よりも「非存在の女神」がこの世界を救う。もう「神」なんか当てにならない……世界の人々はそのことに気づきはじめている。
神は「今ここ」の現実の存在であり、だからこそ神によっては誰も救われないのだ。
ニーチェにならっていえば、「初音ミク」は、「神は死んだ」ということを体現して登場してきた。それは、「異次元の世界」の声であり、「非存在の世界」の姿なのだ。われわれの「癒し」や「救い」は、そこにしかない。

「かわいいの文化」は、現実世界に対する「反抗」でも「反逆」でもない。現実世界を変えようとしているのではなく、現実世界から超出してゆくムーブメントなのだ。
世界を変えることの満足=達成感なんか、いったんそれが価値になれば、欲望と同じで、たえず変え続けていかないといけなくなるだけで、きりがない。それは、不満を紡ぎ続けているのと同じでしかない。つまり、カタルシスがない。
「かわいいの文化」のカタルシスは、「消えてゆく」ことにある。それで、この生に決着がつく。「もう死んでもいい」という心地になる。そうやってカタルシスがやってくるのであり、そうやってときめいてゆく。「かわいいの文化」には、肥大化した欲望を騒々しく追いかけ続けることではなく、この生やこの世界の混沌を収束して消えてゆくことがコンセプトであり、そうやって「癒し」や「救い」というカタルシスが体験されている。
この世界の有用な存在になることを目指すのではなく、無用の存在としてこの世界から消えてゆくこと。「かわいいの文化」の先駆者であるヤマンバ・ギャルはそういうカタルシスを発見したのであり、そこには世界に対する「反抗」も「反逆」もなかった。そのムーブメントのひとつの帰結として、現在の「初音ミク」という非存在の女神が登場してきた。
「かわいいの文化」にときめいているものたちが共有しているのは、この世界を変えようとする欲望でも構想でもなく、この世界から消えてゆく「かなしみ=喪失感」という「カタルシス」であり、じつはそこでこそこの生が活性化している。
正義や正論なんかどうでもいい、「ときめく」心があればそれでいい。文明社会は、正義や正論を求めて病んでゆく。
人は根源において生き延びようとしているのではなく、「もう死んでもいい」というかたちで「喪失感」を抱きすくめているのであり、心はそこから活性化してゆくのだし、人類の歴史はそうやって進化発展してきた。
どいつもこいつも「生命賛歌」というちんけな正義や正論でこの世の中を動かそうとしちゃってさ、付き合ってなんかいられないよ。