誰が戦争をはじめたのか・神道と天皇(123)

見上げる青い空が目に染みるとき、人の心は遠い異次元の世界に旅立っている。その「異次元性」こそ、「かわいい」の文化の基本的なコンセプトなのだ。
「かわいい」の文化は、この社会の制度性としての競争原理や闘争原理から解き放たれてあるところから生まれてくる。世の中の仕組みのことなどはもうすっかり忘れ去って、ただただ「かわいい」とときめいてゆく。それは、落伍者が落伍者のままで生きられる文化であり、そこでこそ豊かなときめきや人と人の助け合う関係が生まれてくる。そうやって90年代の落ちこぼれのギャルたちが、その先駆的な「ガングロ・ファッション」を生み出した。
日本列島の伝統文化は、落伍者や無用者がリードしてきた。つまり日本列島においては、この生のいとなみはこの生の外に超出してゆくことであるという認識があり、落伍者や無用者でなければ見い出すことができない文化の位相がある。
日本列島の伝統においては誰もが落伍者で無用者であり、少なくとも民衆は、誰もが権力社会から落伍したものたちなのだ。われわれが権力社会のことを「お上」というとき、自分たちとは関係ない世界だという思いがあり、その嘆きをともにいつくしみ合いつつ民衆自身の社会や文化を生み出してきた。「あはれ・はかなし」とか「わび・さび」とか「無常」とか、そうした美意識は、じつは民衆社会から上げられていったものにほかならない。
権力社会のものたちは、この社会からもこの生からもはぐれていないから、そこから日本列島的な文化が生まれてくることは論理的にありえないのだ。
やさぐれる」とか「身をやつす」などという。それもまあひとつの「わび・さび」だし、中世には「隠遁」が流行したこともあり、日本列島には、進んで社会から落伍してゆく習俗の伝統がある。
「憂き世」ともいう。日本列島の住民は、人は誰もがこの社会の落伍者であるという思いを共有しており、そこに立って人と人が他愛なくときめき合ってゆく集団性を紡いできた。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿であることから落伍していったのだ。それが人類史の伝統であり、日本列島の伝統でもある。
原始時代の人類拡散は、「住みよい土地を求めて」というような問題設定で語られることが多いが、そうではなく、誰もがもとの集団からはぐれた「漂泊者=さすらいびと」になってゆく現象だったからこそ、そこで他愛なくときめき合いながら新天地での新しい集団のダイナミズムが生まれていったのだ。
人類社会のダイナミズムは、誰もが社会からはぐれてゆく心を共有しているところから生まれてくる。現代社会は、そういう人類の集団性の本質・自然をそなえているだろうか。

ガングロのヤマンバ・ギャルたちは、社会から落ちこぼれていたが、ひとりひとりはけっして孤立していたのではない。それなりに豊かな集団性(=ネットワーク)を組織していたのであり、だからブームになっていったのだし、あんなにも奇妙奇天烈なファッションだったのだから、どう考えてもよほどのもの好きな変わり者でなければしないはずなのに、じつは変わり者でもなんでもないまったく普通の少女たちのあいだで野火のように広がっていったのだった。起こるはずのないことが起きたのだ。それはもう、奇跡的ともいえる広がり方だった。
現在のコスプレ・ファッションやロリータ・ファッションだって、そうとう風変わりなのに、ちゃんとネットワークという集団性を持っている。そしてそれらはが日本列島の若者たちのあいだですでに市民権を得ているのは、この国には「身をやつす」すなわち歌舞伎等の「異形」の文化の伝統があるからだ。
この国では「異形」が許される。「人は誰もが社会からはぐれた存在である」という合意がある。ガングロ・ファッションであれ、ロリータ・ファッションであれ、最初はほんの少数で、おおいに奇異だったのだ。それでもそれが許され、しかもしっかりとネットワークをつくっていった。
さすがにヨーロッパでそんな恰好をして街を歩くと、右翼的な大人たちからおおいにとがめられたりするらしい。だから、そんな恰好で街を歩きたくてこの国にやってくる外国の若者も多いらしい。

右翼のものたちはよく「日本人の同質性」という旗印のもとにわれわれに同調圧力をかけてくるが、それは「日本人とは何か」ということがまるでわかっていないからだ。日本人は「異形」が好きだし、「異形」を呑み込んでゆく集団のダイナミズムを持っている。
「異形」すなわち「心が社会からはぐれてゆく」ことを許さなかった戦時中がいかに異常で非日本的であったことか。
国家神道教育勅語で民衆の心をひとまとめにしてしまおうなんて、ものすごく非日本的なことなのだ。明治維新から終戦のあの日まで、日本列島の民衆は、ずっとペテンにかけられてきた。その80年の歴史で達成されたのはたんなる安普請の「近代化」だけだったのであり、最後の10年で一挙にメッキがはがれてしまった。
日本人の同質性だなんて、ただの幻想だ。
日本人ひとりひとりの心模様はてんでばらばらで混沌としている。その「混沌」のままときめき合ってゆくところに、日本列島の集団性のダイナミズムがある。「和を尊ぶ」というのは「同質性」が大事だということではない。「混沌」のままでときめき合いまとまってゆくことができるところにこそ日本的な「和」があるわけで、みんなで好き勝手なことをワイワイガヤガヤ語り合いながら、いつの間にかみんなが納得し合えるところを見出してゆくのが「村の寄り合い」だった。
まあそうやって対米開戦を決めてしまったのだから、その集団性は困ったことでもあるわけで、無謀な戦争であることは上層部のみんながわかっていたのに、いつの間にかなんとなくそう決議してしまった。けっきょく国民がそれを望んでいることを誰もが感じていたからであり、そのとき日本人みんなで戦争に突入していった、ともいえる。
民衆は、革命なんかしなくても、支配者に勝つことができる。この国の支配者は民衆に寄生しているだけの存在であり、民衆の意識が変われば権力者の意識も変わってくる。そりゃあ民衆は洗脳されやすい存在であるが、それでもあの戦争だって、民衆の気分を忖度して決めてしまったのだ。この国の支配者と民衆のあいだには契約関係はなく、支配者には民衆を守る義務はないが、だからこそ民衆に先行して文化を創造してきたという歴史も持っていない。
たとえば、万葉集に民衆の歌が収録されているということは、歌を詠む習俗が民衆のあいだから生まれてきたことを意味している。日本列島には縄文時代から「歌垣」の習俗があったわけで、べつに権力社会で歌を詠みはじめたのではない。
天皇家新嘗祭だって、もともと民衆の祭りだった。能も最初は農民の猿楽だったわけで、それが寺社や武士の社会へと上がっていった。
とにかくあの戦争は「日本人」によってなされたのであり、政府や軍人や天皇だけに責任があるともいえないし、やむにやまれぬ正義の戦争だったといっても、それが戦争をしてもいいという根拠にはならない。
あのとき日本人は、たとえ国が滅びることがあってももう二度と戦争はしないと誓ったというか覚悟を決めたのであり、それが、「魂の純潔に対する遠い憧れ」の上に成り立った文化の伝統を持っている日本人らしいメンタリティだった。
したがって、今さら「核を持て」とか「戦争をせよ」というのは、日本人としてのたしなみを失っている。はたしてそれが、現在の日本人の総意だろうか。日本人は、洗脳され総意にさせられてしまう他愛なさを持っているし、それでも無意識のところでは支配者の意のままにならない民衆自治の伝統も持っている。
国のことはお上にまかせるが、世の中のことは自分たちでなんとかする……それが国家との契約関係を持たない日本列島の民衆の心意気であり伝統になっている。だから敗戦の際には、国家神道教育勅語もさっぱりと忘れて復興に歩みはじめた。そのとき民衆は、心の奥のどこかしらで、「もう国なんか信じない」という思いになっていた。で、左翼勢力が台頭してくる風潮になっていった。民衆は、左翼のインテリたちに引きずられたのではない。その「国のことなんかもう信じない」という気分とともに、左翼のインテリたちを許しただけだし、国家や天皇の戦争責任だって問わなかった。
民衆には民衆の世の中というものがある、とあらためて思っただけのこと。
日本列島の民衆は、支配者を信じていないが、許してもいる。
日本列島の民衆は支配者についてゆく気はないが、支配者のほうがほおっておいても民衆に寄生してくる。伝統的にそういう社会の構造になっているわけで、民衆の意識が変われば自然に社会の仕組みも変わってくる。あの戦争は支配者だけの責任だとも言えないし、今どきはろくでもない支配者ばかりだといっても、民衆のがわにスキがあるからそうなるだけのことかもしれない。
べつに安倍晋三についてゆく気もないが、因果なことに許してもいる。

日本列島の歴史においては、支配者の意識が民衆と同じようになってゆくということはあっても、民衆の意識が支配者と同じになってゆくということはない。起源としての神道は民衆のあいだから生まれたのであり、何はともあれ「アマテラス」や「スサノヲ」を最初に見出したのは民衆なのだ。そして仏教が権力者から民衆の世界に下ろされていったといっても、それは民衆によってどんどん変質させられてきたし、民衆はけっして神道を手放さなかった。だから支配者としては、やむなく「神仏習合」というかたちをとらざるを得なかったわけで、そこから「国家神道」が生まれてきた。それは、民衆独自の神道に国家が寄生していった結果のかたちにほかならない。
民衆には民衆の心の世界がある。そこから「かわいい」の文化が生まれてきた。
世界中の人々が「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有する時代になれば、現在のこの歪んだ世界の仕組みも変わってくるかもしれない。
日本列島には「魂の純潔に対する遠い憧れ」を文化として昇華してゆく伝統があるからこそ、あたりまえすぎてというか、そこのところが日本人はあまり自覚的ではない。むしろ「かわいい」の文化に魅了されている外国人のほうが、もっと切実にそれがいかに貴重であるかということを意識している。
日本列島の若者たちの多くはただ他愛なくそれにときめいているだけでも、外国には、初音ミクやきゃりいぱみゅぱみゅに人生を救われた、といっているものたちが少なからずいる。そしてそれは、伊勢白山道とか江原某とか大川隆法とか麻原彰晃とかのあまたのいかがわしい教祖様を崇拝しているよりもずっと健康的なことのように思える。
「魂の純潔に対する遠い憧れ」は、直立二足歩行の開始以来の人類史の伝統なのだ。神の論理を信じる前に、なぜそのことが信じられないのか。正義とか正論という神の論理を信じてこの世界は病んでしまっているのだ。
政治オタクや経済オタクは「よりよい未来のために」といい、宗教オタクたちは「生かされてあることに感謝を」という。そういう正義や正論が何ほどのものか。もう、うんざりだ。ただ他愛なくときめいてゆくことができればいいだけだろう。そこにしか「癒し」も「救い」もないということを、われわれは「かわいい」の文化から学ぶことができる。
人が人であることにおいて、見上げる青い空が目にしみる、という以上の体験などないのだ。