千年の過去と千年の未来と・神道と天皇(163)

西洋社会における生の規範は、「神の教え=裁き」の上に成り立っている。だから西洋では「倫理学」というようなものが発達したわけだが、信仰心が薄い日本列島にはそういう絶対的な基準・規範はない。しかし、何もないというわけでもない。何もないまま大きな集団をいとなむことはできないし、それは「伝統」の問題でもある。
日本列島の伝統の精神風土の基礎になっているものを、どのような言葉(あるいは概念)であらわせばいいのか。
武家社会とか公家社会とか芸能の社会とかやくざの社会とか職人の社会とか商人の社会とか農民の社会とかお寺や神社の世界とか、それぞれにいろんなしきたりとか作法の伝統がある。そういうことを総称して「有職故実」といったりするが、そのことの本質を、評論家の松岡正剛は「面影」という言葉で説明している。
確かに日本列島だは、何ごとにつけてもそれらしい「面影」がそなわっていることにこだわる。男は男らしくとか女は女らしくとか、武士は武士らしくとか職人は職人らしくとかやくざはやくざらしくとか、ヤンキーはヤンキーらしくとかオタクはオタクらしくとかギャルはギャルらしくとか。
まあここで考えている「起源論」も、「面影=有職故実」の問題かもしれない。

日本人は直近の昨日や明日のことには疎いが、遠い未来や過去のことにはそれなりに切実な想いがある。
古代人は、この国の遠い過去は「神の御代(神代=上代)」だったと想像した。そうして法隆寺薬師寺を建てた大工たちは、千年後のことを考えながら設計していた。木の建物なんか燃やせばあっという間だし、そんな遠い未来まで残るかどうかなどわかるはずもないのだが、そういう心意気で仕事をしようと思った。
まあ、海に囲まれた島国で異民族に侵略されたことがないから、そういう発想が生まれてくる。つまり、生き延びることができるかどうかと心配する必要がなかったし、生き延びるための損得勘定をするのは卑しいことだ、という精神風土にもなっていった。
この国の伝統には「生きる」ことを守るための基準・規範がなく、生き延びることはけっして正義ではない。生きることはひとつの苦であり嘆きであり、神が人間をつくったというのなら、どうしてそんなよけいなことをしてくれた、といいたい思いが日本人にはある。
日本列島の民衆にとってのこの社会の基準・規範は、この生にはなく、この生の外の「他界(異次元の世界)」にある。千年の未来も過去も、この生の延長ではなく、まったく異次元の「他界」なのだ。日本人は、そういう遠い世界に対する遠い憧れを共有しながら社会をいとなんでいる。
日本列島の社会の基準・規範は、千年前の面影にあり、千年先の幻影にある。そういう「他界」から照射されて「今ここ」の基準・規範が成り立っている。
そういうわけで日本人にとっての天皇は、「今ここ」の存在ではなく、千年前の「人=かみ」であり千年先の「人=かみ」であり、そういう「遠い憧れ」の対象なのだ。
神道の「かみ」は「面影」であり「幻影」であって、西洋の「神(ゴッド)」のような「存在」ではない。だから、生き延びるためにどうすればいいかというような基準も規範もない。日本人が伝統的に大切にしてきたのは、生きてあることの証しとしての「存在」ではなく、生きてあることとは別次元の千年前の「面影」や千年先の「幻影」であり、それはつまり「もう死んでもいい」という勢いの「快楽」と「純潔」が基準・規範になってきたということだ。
日本人は、この世界の創造主としての「神(ゴッド)」や「仏」のような存在の「裁きや教え」を意識して歴史を歩んできたのではない。それとは対極の、この世界のすべてを許している「魂の純潔」に対する「遠い憧れ」を紡いできたのだ。
「千年の憧れ」、ということ。集落が急速に膨張していった弥生時代奈良盆地では、「今ここ」の不都合を裁き合うのではなく、みんなで「千年の憧れ」すなわち「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有しつつ集団の運営をやりくりしてゆこうとしていたわけで、このことが可能であったのは宗教が機能していない社会だったからだ。
「宗教=神の裁き」に覆われた社会では、権力者はそれを盾にして民衆を支配してゆくし、民衆どうしも同じように裁き合う関係になってゆく。まあそうやって社会秩序は整備されてゆくが、とうぜん人と人のときめき合う関係は後退してゆくほかない。
古代の大和朝廷蘇我氏は支配権力の強化というかその下での社会秩序を整備してゆくために仏教を輸入したわけで、宗教のない社会だったから権力にとってはそうする必要があったのだし、それに対して民衆は、縄文以来の伝統である「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有しつつカウンターカルチャーとしての「神道」を生み出していった。
古代以前の日本列島には、宗教よりももっと清純で異次元的な「千年の憧れ」が息づいていた。
宗教は不純だ、と僕は思う。