貨幣と資本主義と人間性・神道と天皇(162)

現在の社会情勢をあらわすのに「ポピュリズム」とか「反知性主義」というような言葉はあまり適切ではないのかもしれない。平たくいえばそうやって「頭が悪い」とか「偏差値が低い」というようなことを批判しているのだろうが、現在の世の中がおかしくなってしまっているのは頭がいいとか悪いとかという問題ではなかろう。いまの世の中は人としての「品性」を失ってしまっているとか、そういう問題ではないだろうか。
一時期『女性の品格』という本が大ベストセラーになった。そこにほんとうの「品格」が語られているかどうかということは大いに疑問であるが、とにかく人々はその「品格」という言葉に対する切実な思いがあった。
この世の中がおかしくなってしまっているとすれば、それは人としての「品性=品格」を失っているからであって、頭がいいか悪いかという問題ではない。
現在の資本主義の暴走を止めることができるのは、別にインテリの知性でもないだろう。たとえばシリコンバレーのような資本主義の暴走をリードしているインテリ集団というのもあるわけで、彼らほど強欲で下品な人種もいないともいえる。
ポピュリズム反知性主義が資本主義を暴走させているともいえない。
レーガンであれサッチャーであれドナルド・トランプであれ、資本主義を暴走させたというより、資本主義に踊らされていたのだろう。そういう意味では、彼らを踊らせていたのは強欲なユダヤ資本である、というような陰謀史観のほうがまだ説得力があるのだが、けっきょく「時代」という大きな流れがあったのだろう。
資本主義の行き着く先として、世界中が「貨幣=資本」という神に対する信仰に覆われている。強欲であることが、ひとつの能力や美徳のように合意されている。
まあ民衆社会でも、日常的に誰もが当たり前のようにカネの話をする世の中になってしまっている。今どき、小学生でも平気でそんな話をしている。
世界中の人間が強欲になってしまったというか、おカネに対する信仰のない人間はうまく生きられない世界になってしまっている。現在の資本主義社会は、おカネに対する信仰の上に成り立っている。
しかしそれは、正確には「おカネ=貨幣」に対する信仰というより、それを貯め込むことすなわち「資本」に対する信仰なのだ。そしてその「強欲」は、お金を貯め込んでいないと生きられないという強迫観念でもあり、今どきは生命力が衰弱している世の中だ、ともいえる。

おカネのありがたさは、もっとも貧しいものがいちばんよく知っている。
貨幣の本質は、「贈与」「蕩尽」にあり、その起源は、原始社会の埋葬の際に死者に対して惜しみなくきらきら光る貝殻やビーズの玉などを「宝物」を差し出したことにある。
人は、他者に対して「捧げもの=プレゼント」をしようとする本能を持っている。その本能から「貨幣」が生まれてきたのであって、起源においてはべつに「交換」の道具ではなかった。あくまで一方的な「捧げもの」であった。
人類史における「物々交換」は、げんみつには「商取引」ではなく、たがいに「捧げもの」を差し出し合う行為としてはじまった。たがいの差し出す物を、等価か否かと吟味し合い交渉するのではなく、同じ場所にどちらも勝手に置いてきて、どちらも勝手に相手の差し出したものを持ち去ってゆく。それを人類学では「沈黙交易」などといったりするわけだが、等価か否かと吟味し合い交渉すれば、「捧げもの」である意味がなくなってしまうからだ。原始人は「交渉する」ということことを知らなかったし、その行為の卑しさを回避しようとする思いがあった、ともいえる。いやまあ、「交渉する」なんて思いも及ばなかったのだろう。
そしてこの習俗は、日本列島の一部の村と村のあだでは明治のころまで続いていたらしく、その場所は峠の茶屋や神社が使われていた。
原始社会は人としての「魂の純潔に対する遠い憧れ」の上に成り立っていたのであり、日本列島の民衆社会の集団性の文化は、その原始性を洗練発達させるかたちで育ってきた。
人は今でもプレゼントをし合うではないか。それは「商取引」としての「交換」ではなく、あくまで「捧げもの」を差し出し合う行為だろう。現在の資本主義社会は、そういう原始性をどんどん衰弱させていっているし、日本列島の民衆社会には、今なおそれを守ろうとする伝統がが、まあかすかながらも残っている。

「おカネ=貨幣」の起源と本質は、「贈与」「蕩尽」「捧げもの」にある。
一方「資本」の本質は、「所有」「蓄積」にある。資本家は、より大きな貨幣を蓄積するために貨幣を贈与したり蕩尽したりする。彼らにとって貨幣は神であり、貨幣を蓄積することは神の存在をより確信することになる。
それに対してわれわれ民衆の伝統においては、貨幣は愛着の対象であっても、神ではない。なぜならそれは、つねに贈与・蕩尽されるものであり、いわば「非存在」であることがその本質なのだ。われわれにとっての貨幣は、「現れて消えてゆく」ものであって、恒常的に「存在」し「蓄積」されるものではない。そしてそれは、われわれが認識するこの世界の森羅万象の本質であり、神道の「かみ」も、もともとそのようにイメージされていた。だから「かみは隠れている」という。
まあわれわれの命そのものが現れて消えてゆくものであり、そのような命を生きているという自覚の上に原始人の生の作法が成り立っていた。彼らがきらきら光るみずからの宝物を差し出すことは、「やがて消えてゆくもの」に対する愛着の表出であった。
原始人の生は、「やがて消えてゆくものに対する愛着」の上に成り立っていた。すなわちこの国の伝統の「あはれ・はかなし」に美意識は、人類普遍の美意識でもある。
人の心は、「現れて消えてゆくもの」に愛着している。その象徴として「きらきら光るもの」があるわけで、「きらきら光るもの=貨幣」を捧げものとして差し出すことは、その愛着を表出する態度にほかならない。きらきら光るものは必ず消えてゆく。それはわれわれのこの生=命のはたらきと同じであり、その「消えてゆく」ということを抱きすくめるようにして人は、捧げもの(プレゼント)を差し出す。
それに対して文明社会の制度としての資本主義は「存在=所有」に対する偏愛の上に成り立っており、「消えてゆく」ことを抱きすくめようとする人間存在の本質に照らして考えれば、それはいつか崩壊する、ということになる。つまり資本主義は、「貨幣」の本質に逆立しているのだ。

もう一度言う。貨幣の本質は、一方的な「捧げもの」であることにあるのであって、「蓄積」することにあるのではない。なのにいまどきは、資本家も民衆もむやみに貨幣を蓄積したがる世の中になっている。それは資本主義が崩壊する予兆であるといえるのだが、資本主義それ自体が自壊と再生を繰り返す運動だともいえるわけで、そこのところがなんともややこしい。しかしとりあえず新しい時代はきっとやってくるのだし、新しい時代が生まれてくる原動力は、人間性の自然としての「消えてゆく」というその「喪失感」を抱きすくめてゆく心にある。
流行とは、現在を「喪失」する現象にほかならない。そうやって新しい流行が生まれてくる。人間世界から「喪失感」を抱きすくめてゆく心が消えてなくなることはない。
まあ人の世は、小さな時代の推移と大きな時代の推移があるわけで、資本主義に代わる新しい社会制度がいつどのようにして生まれてくるかということなど誰にもわからないのだが、少なくとも現在のグローバル金融資本主義はいずれ自壊するのだろう。なぜなら貨幣の本質は「贈与」「蕩尽」にあるのであって、「蓄積」にあるのではないからだ。いずれは、そういう人間性の自然によって自壊させられてしまう。
とにかく新しい時代や新しい人生を切り開く力は、「喪失感を抱きすくめてゆく」ことにあるのだろう。人の命や心は、そこから華やぎ活性化してゆく。
時代を動かす原動力は、インテリの知性にあるのではなく、人々の心の動きのダイナミズムにある。そして知性だの反知性だのといっても、無意識のレベルにおいては差はないのであり、無意識のレベルの倫理観や世界観や生命観において、汚れているかいないかとか浅いか深いかというような差は、表層的な知性とはまた別の次元の問題にちがいない。無意識のレベルにおいては、そのへんの凡庸なインテリよりもずっと清純で深い倫理観や世界観や生命観や美意識をそなえている民衆はいくらでもいる。
いずれにせよ、何が正しいかというようなことではない、この時代のわれわれの心はどのようにして華やぎ活性化するかということ、そこから新しい時代が生まれてくる。
人の心は、「喪失感=嘆き」を契機として華やぎ活性化してゆく。幸せであれば楽しいが、それによって満足してしまえば、心は停滞し曇ってくる。心の輝きには、「嘆き=かなしみ」が宿っている。だから人は、感動して涙ぐむ。心が華やぐとは感動しときめくことであって、幸せに満足することではない。

古いやまとことばでは、感動しときめくことを「かなし」といった。つまり古代人の無意識は現代人よりもずっと人の心の深いところを知っていて、今どきのインテリの思考のほうがよほど短絡的なポピュリズムに汚染されているともいえる。
人類は「喪失感=嘆き=かなしみ」を生きている存在であるがゆえに知能を進化発展させてきたのだし、そうやって生きられなさを共有している存在であるがゆえに助け合い連携してゆく高度の集団性を持つようになってきた。
この世の弱いものや愚かなものこそ、もっとも人間性の自然・本質を生きている。それはつまり、知性の本質は「知っている」という満足にあるのではなく「わからない」という「嘆き」にあるということであり、この世のもっとも高度な知性の持ち主は「この世のもっとも愚かで弱いもの」として生きている、ということになる。
凡庸で中途半端なインテリほど、知ったかぶりをしたがる。
人は知りえることしか知りえないのであり、無意識こそもっとも高度な知性である。われわれは、無意識においてすでに知っていることを知りえているだけなのだ。科学であれ哲学であれ、無意識における「ひらめく」というはたらきによって「知る」という体験にたどり着く。
コンピュータだって、知りえること以上のことを知りえる装置ではない。
哲学は無意識そのものを探求し、科学は無意識の助けを借りて探求する。人は、無意識を超えた知性を持つことはできないし、無意識を超えた知性に対する遠い憧れを抱いている。
とにかく無意識は、より高次の知性の領域であり、そこにたどり着けないもどかしさが、「知りたい」というモチベーションになる。
人は、「知りえない」「生きられない」という、その「不可能性」に身悶えしながら生きている。「不可能性」の自覚こそが、人類史に進化発展をもたらした。「知りえない=わからない」という「嘆き」なしに、どうして「知る」という体験にたどり着くことができようか。
人が死を知っているということは、「生きられない」という自覚を生きているのことの証しである。
生きられないこの世のもっとも弱いものや愚かなものは、「不可能性=喪失感」を抱きすくめて生きているし、そのようなことの尊厳にひざまずきながら人は、そのような「生きられないもの」を保護し生かそうとする。

人はどうして生きられない弱いものや愚かなものになってしまうのだろう。べつに頭が悪いわけでも生きるための処世術を持つ能力がないわけでもないのに、それでもそうなってしまう。それは、そうなってしまうような人間性の自然・本質の力がはたらいているからだし、処世術などなくても生きられる高度な知性の持ち主のエリートだって、生きられない愚かで弱いものになってゆくかたちで高度な知性を獲得している。
おカネがあれば生きられるということは、おカネがないと生きられないということであり、おカネがあって裕福だということ自体が生きられない弱いものになることでもある。
戦争をして相手を滅ぼしてしまわないと生き延びることができないということは、生き延びることができない状態になっているということでもある。
人類の文明は、「生きられない」という状態に立って進化発展してきた。
人類の生命力は、どんどん退化していっている。退化しながら、寿命が延びてきた。文明とは、生命力を使わなくても生き延びることができる装置であるらしい。
日本人はこの50年で大幅に平気寿命が延びたが、身体能力をはじめとする生命力が豊かになったわけではないし、ジャンクな食べ物も増えた。
人類は愚かで弱くて怠け者なのに、そういう逆説としてこの生が成り立っている。しかしだからこそ、滅びてもかまわないという覚悟でシンプルに清潔に生きようとする倫理も持っているわけで、生き延びようとあくせくしたり強欲になったりしてゆく資本主義的な騒々しさが人間性の自然だとはいえない。
人は、安きに流れる。この世から愚かで弱いものがいなくなることはない。誰もが幸せに生きられる世の中なんて、やってくるはずがない。そんな希望や未来を語るなんて、一種のファシズムだ。
生きられない愚かで弱いものの命や心のはたらきが脆弱だとはいえない。人の命や心は、そこに向かってこそ華やぎ活性化してゆく。
どうして幸せになるために頑張らないといけないのか。そんなことより今ここの目の前の人や世界に対して体ごと反応し華やぎ活性化してゆくことに人としての命や心のはたらきの自然・本質がある。それが「安きに流れる」ということで、時代は、未来の幸せを目指して変わってゆくのではなく、「先のことなんかどうでもいい」すなわち「もう死んでもいい」という勢いで変わってゆくのだ。
新しい時代がどのようになるかなんて、誰にももわからない。ただ、現在の幸せな人たちもいずれは幸せに退屈してくるだろうし、われわれは日本人としてあるいは人としての伝統や本質・自然から外れっぱなしというわけにもいかなくなるに違いない。