女神のかなしみ・神道と天皇(112)

初音ミクのようにバーチャルな声と姿の対象を生身の人間のようなアイドルとして祀り上げてゆくことは、じつはそれほどありえないことでもない。マンガやアニメそのものがすでにバーチャルな世界であり、ファンたちは、バーチャルであることを承知でときめいているのだし、バーチャルであっても生身の人間であるかのように思いなしてときめいている。
べつに、世の大人たちが批判的に合唱しているような、ほんものの生身の女が怖いからとかということではない。
この国よりもずっと男女の垣根の低い国の男女の中にだって、たくさんのアニメやマンガや初音ミクのファンがいる。
人の心は、架空の存在を「実在」であるかのように思い込むことができる。それはもう世界共通の普遍的な人間性であり、それができなければ「神」も「神話」も成り立たないのだし、初音ミクはまさにそうした「女神」なのだ。
言い換えれば、「神」という概念なんか、人の心の動きの普遍が生み出したものであって、神は存在するるか否かというような問題などない、ということだ。
神は存在する、と信じ込むことなんか、けっして難しいことではない。
たとえば道を歩いているときのわれわれは、その道が自分の体重を支えることができる固い物質だということの確証はない。それは、たんなる「画像」にすぎないのであり、歩いた「結果」として物質であることを知らされるだけだ。なのにわれわれは、それが固い物質だということを当たり前のように信じて歩いている。よく考えたらこれはとても不思議なことであり、それができるのなら、「神は存在する」と信じ込むことなんか、もっとかんたんなことだ。
ある哲学者は、「世界に不思議が存在するのではない、世界が存在することが不思議なのだ」といった。このことを敷衍すれば、彼は、「神」という不思議が存在するのではない、「神が存在する」と信じ込むことが不思議なのだ、といっていることになる。
今どきの若者たちは、初音ミクが「実在の女」ではないことを知りつつ、「実在の女」であるかのように信じ込んで祀り上げている。
そしてこれはもう起源における神道の「神(かみ)」の問題でもあり、古代人は、それを「実在」ではないと知りつつ「実在」であるかのように信じ込んで祀り上げていた。
古代人が「神(かみ)」を祀り上げるのと現在の若者たちが初音ミクを祀り上げるのと、何も変わるところがない。
まあそうやって古代以前の奈良盆地において祭りの際の踊りの名手である「巫女=処女」というカリスマのアイドルが登場し、それがやがて「天皇」と呼ばれる存在になっていった。
天皇の「神性」とは何かというなら、その無私のキャラクターの「非存在性」にある。もともとは初音ミクのような対象として祀り上げられていたのであり、よく「中心の空虚」などといわれたりするのはそういうことだ。
日本列島には、「実在ではないと知りつつ実在であるかのように思い込んでゆくことができる」精神風土がある。そういう伝統が初音ミクというバーチャルなアイドルを生み出したのであり、その「非存在」に対する親和性はもう、じつは世界共通の人の心の普遍でもある。

人の心の普遍は、もともと「非存在=死」に対する親密さにある。それはつまり、非存在のものを非存在と知りつつ「存在」であると信じ込んでゆくことができる、ということだ。こういう心の動きのことを哲学では「パラドキシカル・ジャンプ」というのだろうか。心が異次元の世界に「飛躍」することができるということ、そうやって「ときめく」という心的現象が起きている。そのとき心は、われを忘れて世界の輝きに憑依している。つまり心が「自分」という「存在」から世界の「非存在性」に向かって超出していっているわけで、それは、たんなる「画像=非存在」としての「輝き」に気づきときめいているだけであって、「存在」を認識しているのではない。「存在」であると信じ込んでいるだけなのだ。
「世界の輝き」はたんなる「画像=非存在」であって、「存在」ではない。「存在の輪郭」において、きらきら輝いているだけだ。こういう「非存在」の画像のことを、やまとことばでは「姿(すがた)」という。
心はその「姿」にときめいてゆくのであって、「存在」を認識するのではない。
人の心(=意識)は、「存在」を認識することができない。「信じ込む」ことができるだけだ。
この世界は「あはれ・はかなし」であり、その「非存在性」を「存在=実在」として信じ込んでゆくことができるだけだ。「あはれ・はかなし」と知りつつ、それでもそれを「実在」として信じ込んでゆく。そうやって「幽霊」を見るのであり、「初音ミク」にときめいてゆく。

世界は、「姿=画像」であればそれでいいのだ。
世界は、「存在しない」というかたちで存在している。人は、「存在しない」というかたちで存在している。人の心は、「われを忘れる」というかたちでときめいている(=心が活性化している)のであり、身体=命のはたらきは、息苦しいとか痛いとか暑い寒いとか空腹だとかの、身体=命のことを忘れているときにこそもっとも活性化している。
したがって人の心は、根源において、「非存在=死」に対する親和性を持っている。人は「もう死んでもいい」という勢いで生きている存在なのだ。
まあ、そうやって人類は直立二足歩行の起源以来の歴史を歩み、進化発展してきた。
そうして進化発展することによって、世界や人を「支配する」ことができるようになってゆき、その結果として「物質文明」に目覚めていった。つまり、対象を「物質=存在」であると認識しなければ支配することができないわけで、文明社会はそういう認識の上に成り立っている。
しかし、その認識だけで人が生きていられるわけもなく、もう一方で「もう死んでもいい」という勢いの「非存在=死」に対する親和性がはたらかなければ心も体も活性化しないという生きものとしての与件をつねに抱えている。
物質文明が発達しすぎた現代社会においては、「非存在=死」に対する親和性がより切実になる。そういう状況から、初音ミクが登場してきた。

戦後の日本人は、高度経済成長によって物質文明に染まりすぎた。その反動として、バブル経済の崩壊とともに「非存在=死」に対する親和性を止揚する日本列島の伝統に回帰しようとする潮流が生まれ、「かわいい」の文化が花開いてきたのかもしれない。
物質文明の社会においては、「物質」を所有することによってアイデンティティが確認される。その「物質」とは何かといえば、「自分」とか「自分の体」とか「家」とか「財産」とか「国土」とか、人さまざまだろうが、いずれにせよ「アイデンティティ」とは「自分が支配できる何かを持っている」ということであり、そうした「アイデンティティを欲しがる」こと自体が、物質文明に冒されていることの証明にほかならない。
「非存在=死」に対する親和性において、「アイデンティティ」は成り立たない。
戦後の日本人は、高度経済成長の挫折によって、アイデンティティの不安に陥った。
そこで、あらためてアイデンティティを取り戻そうとして、経済成長の復活を願ったり、右翼思想が台頭したりしてきた。
と同時に、若者たちのあいだでは、アイデンティティがないことそれ自体を生きようとするムーブメントが起きてきた。それが、「ジャパンクール」と呼ばれる「かわいい」の文化だった。すなわち自意識が薄くて他愛ないこと、それこそがじつは人間性の基礎であり究極でもあるのだから、自然にそういう動きは起きてくる。とくにこの国はもともとそういう原始的な精神風土の歴史を歩んできたのだし、そういうメンタリティは世界中の誰の中にもある。
たとえ物質文明の世界で生きていても、人の心は「非存在=死」に向かって活性化してゆく部分を持っている。
まあ、観念においては物質文明に冒されていても、無意識との回路においては、他愛なくときめいたり、ひたむきに学問や芸術や恋やスポーツに熱中したり、わが身を投げ捨てて他者に献身していったり、命知らずの冒険や遊びにのめり込んでいったりする心の動きは起きてくる。
人が海水浴をすることだって、もともと水の中で生きられない存在なのだから、それ自体がすでに命知らずの冒険=遊びだともいえる。いやいやもう、人が我を忘れて人にときめいてゆくことがすでに命知らずの冒険であり、大いなる心の「飛躍」なのだ。それは、人間性の自然としての、「非存在=死」に対する親和性の上に成り立っている。
今どきのマンガやアニメは安直に死を扱い過ぎるなどとといっても、死に対する親密な感慨は誰の中にもいつの時代にもあるわけで、死に対する親密な感慨がはたらいていない物語などないのだ。
古事記なんか、あんなにもおちゃらけて死を扱っている物語もないではないか。
死をもったいぶって考えたがる人間にかぎって、死にたがったり殺したがったりするのだ。彼らの心は停滞し澱んでいるから、心が飛躍しときめくという体験ができない。
鬱病をはじめとして心を病んでいるものたちがなぜ死にたがるかといえば、死を日常化できずにもったいぶって考えているからだろう。
われわれの命なんか、死ぬにも値しないのだ。
まあ、死が日常化していない平和な世の中だからこそ、死を日常化して生きようとする願いも切実で、そこから初音ミクが登場してきたのだし、それは、こんなにも物質文明に冒された状況においてもなお世界中の人の心に他愛ないときめきが残っているということであり、世の中まだまだ捨てたものではないということの証しにほかならない。