なりすましの美学・初音ミクの日本文化論(12)

初音ミクの文化が育ってくる歴史で「メルト・ショック」といわれていることがあるらしく、その『メルト』という曲の大ヒットが、それまでは一般的なアイドルポップとは距離を置いてオタク的に偏りがちだった初音ミクのオリジナル曲のかたちが大きく広がってゆくメルクマールになったのだとか。つまり、初音ミクにアイドルポップを歌わせるのは難しいという壁があったのだが、それを打ち破ったと評価され、このあと続々こういうジャンルの曲も登場してきた。
ここでいうアイドルポップとはようするに「スクール少女の恋」というようなことで、現実の社会にいない初音ミクに歌わせるのは、最初のころはなんとなくためらわれた。なんといってもそれは、異次元の彼方から聞こえてくる原初的で未来的な声なわけで。
ところがこの曲は、悠々とその壁を超えてみせた。
どのようにして超えたのか?
この『メルト』というタイトルが意味深でおしゃれで、作者の才能がただものではないことを感じさせる。
曲調はたしかに愛らしいアイドルポップそのもので、しかし最後におもしろい仕掛けがあった。
歌詞は、学校の帰りに急に雨が降り出して片思いだった男の子と思わず相合傘になるという展開になり、幸せいっぱいの夢見心地、恋に落ちて息が詰まりそう、お願い時間を止めて、うれしくて死んでしまうわ、私を抱きしめて……というべたべたのアイドルポップのなりゆきで、最後は「なんてね」というはぐらかしのセリフで終わる。
つまり、少女のただの妄想だった、ということ。そしてこの意表の付き方は、ただの一回きりのものではなかった。何度聞いてもおかしい。わかっていてもおかしい、中毒になるくらいおかしい。
なぜか?
この年ごろの少女の心は、そうやってかんたんに異次元の夢の世界に入り込んでしまう。そこのところの表現は浮世離れした初音ミクの声がぴったりで、しかもふと現実に戻ってしれっとしているところも少女らしくてとても愛らしい。つまり、初音ミクでなければ表現できない「かわいい」の心象世界だといえる。
この『メルト』というタイトルは、「心が溶けて妄想の世界に入ってゆくこと」をあらわしているのか、それとも「妄想が溶けて現実に戻ること」だろうか。作者の発想はしたたかで、ものすごくセンスがあります。そして「なんてね」の一言だけで「ああなるほど」とたちまちすべてを了解し、この歌を熱狂的に支持していったファンたちのセンスだってただならぬものがあります。「かわいい」の文化圏だからこそ起こるムーブメントであって、世間ずれした大人たちにはわからない。
また、コンサートでこの曲を歌う初音ミクも、声と体のしぐさをまるごと使ってこの感じをみごとに愛らしく表現している。
この「なんちゃって=なりすまし」のタッチも「かわいい」の文化の真骨頂で、「嘘の世界で遊ぶ」というか「虚実のはざまで遊ぶ」ということは、能や歌舞伎はもとより日本文化の王道だともいえます。

思春期の少女とは家族の契約関係から逸脱して浮遊している存在であり、少年はそれを断ち切ろうともがいているものたちだ、ということができるような気がします。日本列島は「少女の文化」で、ヨーロッパは「少年の文化」だ、ということでしょうか。
ともあれどちらも、「魂の純潔に対する遠い憧れ」を生きている。まあその思考や表現のかたちは人さまざまだが、神や社会との契約関係に身をあずけてゆくことはその「遠い憧れ」を売り渡してしまうことだということを、ヨーロッパ人だって無意識のどこかで考えている。
人は、その、神との関係に縛られた生きにくさや生きられなさために、ときには自殺願望を抱いてしまったりする。彼らは、なぜ「他愛なくときめく」ということができないのか。
「他愛なくときめく」といえばなんだかおバカな幼稚さのようだが、この社会に生きていれば生き延びるための競争心や闘争心や警戒心を持ってしまうのが人のつねで、そういうことを全部忘れて他愛なくときめき合うためには「魂の純潔に対する遠い憧れ」を共有してなければ成り立たない。それは、もっとも基礎的な人間性であると同時に、究極の人間性でもある。
ヨーロッパの倫理学は、神の法に縛られ、神の法を乗り越えようとするかのように進化発展してきた。
「倫理」とは「魂の純潔に対する遠い憧れ」のことです。人類の歴史は、それによって人と人の他愛なく関係のダイナミズムが生まれ、猿のレベルを超えて大きな集団を生み出してきた。
「そうしなければならない」というのではなく、「そうするしかないではないか」ということ、それが「倫理」です。
人は、神や社会との契約関係に身を置きながら神や社会の正義と尊厳のために「戦わねばならない」と決心し、それに対して「世界の終わり」に身を置いている心地に浸されているものにとっては守るべきなど何ひとつなく、「いったいどうすればいいのか」と途方に暮れている。そういう「生きられないこの世のもっとも弱いもの」としてのおバカなものたちが生きる作法として「倫理」が生まれてくる。
人類の「倫理」は、人間とは「生きられないこの世のもっとも弱いもの」であり「世界の終わり」に立っている存在である、という認識の上に成り立っている。まあそういうところから「介護」とか「社会保障」というような「集団運営の倫理」が生まれてきているのでしょう。
人類滅亡なんかぜんぜんオーケーだし、人類滅亡から決然と生きはじめるのが人類だ、ともいえる。人類はそういうことを「処女=思春期の少女」から学んできたのであり、そこから人類の「倫理」が生まれてくる。人類は、彼女らの「退廃」と「魂の純潔に対する遠い憧れ」という「二律背反」ともに歴史を歩んできた。
人は、「人類滅亡=世界の終わり」と背中合わせのところに立って生きている。どうせもうすぐ死んでゆく存在なのだから、そのようにして生きるしかないではないか。この生に執着して生きることなんかできないが、それでも世界は輝いているし、それにときめきながら人はすでに生きてしまっている。
この生の正当性を保証する「魂の純潔」なんかわれわれにはない。それでも生きてあるのは、「魂の純潔に対する遠い憧れ」がはたらいているからだ。
「魂の純潔」は、この生の外の「非存在=異次元」の世界にある。「存在」はひとつの「けがれ」であり、存在しないことが、「魂の純潔」の存在証明になる。「魂の純潔」は「女神」のもとにある。「初音ミク」のもとにある。

時代の流れということなら、まずはじめに「きゃりいぱみゅぱみゅ」の存在感の薄さや、「パヒューム」の異次元性に世界中の人が憧れ、それらを合わせた究極のイメージとして「初音ミク」が登場してきたのでしょう。
人々は、この生やこの社会にうんざりしている。ひとまず平和で安定した社会なら、若者たちだって恋や遊びを楽しんでいられて一定の満足はありそうに見えるが、それはそれなりに気を紛らわせることのできる娯楽文化があるからで、社会の政治経済に満足しているというのではない。むしろ幻滅しているからこそ、娯楽文化の充実が生まれてくる。
歴史的に支配者と民衆の「契約関係」を持たなかった日本列島では、民衆の心から離反したところで国の政治経済が動いてゆくことができる構造になっていて、そこに民衆の政治経済に対する意識の限界と文化に対する意識の高さがある。
民衆が国の政治経済の方針に対して「このままでいい」と思っているとしても、それは「信頼している」というよりも、「関心がない」とか「しょうがない」と思っているからでしょう。
政治経済の制度に覆い被されて暮らしていれば、「しょうがない、この条件で生きてゆくしかない」という思いがどうしてもついてまわる。だからこそ、しかし日本列島では、そんなことを忘れて民衆だけの文化的なムーブメントを盛り上げてゆくダイナミズムも、民衆だけの社会性・集団性として持っている。
日本列島の民衆は、文明制度的な競争原理や闘争原理を忘れて、他愛なくときめき合い助け合う社会性・集団性を持っている。だから大震災の被災者たちは粛々と助け合ってゆくことができた。そういう「世界の終わり」のときにこそ、ますます他愛なくときめき合い助け合う関係になってゆく。「世界の終わり」の「嘆き=喪失感」を抱きすくめ、それを共有しながら他愛なくときめき合い助け合ってゆく。
「きゃりいぱみゅぱみゅ」や「初音ミク」のコンサートで盛り上がるのも、そこで人と人が他愛なくときめき合い助け合う関係が生まれているからでしょう。それはもう、そのコンサートに参加した外国人だってそう感じている。それはもう、人類普遍の人間性の基礎であり、究極のかたちであるのだもの。

AKBのファンならメンバーの誰を支持するかという競争があるが、初音ミクのファンにそれはない。AKBの人気には現世的な絆に対する希求があるが、初音ミクのコンサートに集まっている観客の心はすでに「非存在=異次元」の世界に超出している。
まあ、それはそうとしても、「ロリータ(処女性)文化」によってもたらされる人の世の現象は「人と人が他愛なくときめき合い助け合う祭りのダイナズム」であり、そうやってヨーロッパではジャンヌ・ダルクという女神が登場してきたのだし、日本列島の神道では「巫女」という存在が大事にされてきた。
「かわいい」の文化における「ロリータ」の代表として「巫女」がもてはやされるのは必然的なことだし、そこから初音ミクの登場まではあと一歩のことです。
数年前にAKB48の『恋するフォーチュンクッキー』が大ヒットしたとき、(もちろんこれは日本列島発の現象だったのだが)世界中の地域や職場や学校等でみんなしてその踊りをまねた映像をYOUTBEに投稿するというムーブメントが起きたことがあった。それは、世界中が今、誰もが他愛なくときめき合い助け合う関係を欲しがっているということのあらわれにちがいない。いや、もしかしたら人類は原初以来ずっとその関係を希求して歴史を歩んできたかもしれないわけで、そこにこそ民主主義の希望があるのではないでしょうか。民主主義の原点と究極、というか。
「処女=思春期の少女」とは、この世でもっとも切実に「魂の純潔に対する遠い憧れ」を抱いているものたちのことです。「かわいい」の文化は、そこから発信されてくる。
世界は、自我の薄いおバカなギャルの他愛ないときめきによって救われる……のかもしれない。
近代合理主義の「自我の追求」の時代はいいかげん終わりにしてもいいのかもしれない。